April 06, 2009

四月大歌舞伎  吉田屋

2009年4月5日 日曜日 夜の部

一幕の毛谷村は吉右衛門さんと福助さん。
山家に住む剣の達人六助をおおらかに吉右衛門さん、臼をもちあげるほどの怪力の娘をコミカルに福助さん。
両人とも上手で楽しい芝居でした。

本日のお目当ては二幕目。
吉田屋 夕霧伊佐衛門廓文章。

幕が開き、舞台正面いっぱいに遊郭吉田屋のおもて。出だしに田舎侍の餅つきなど見せたあと、
花道が明るくなって、仁左衛門さんの登場です。
大店の跡取りながら親に勘当されて今は紙衣装の藤屋伊佐衛門。
紫の地に、そでと身の黒に金字。深く被った笠の下から白い顎がちらりと見えます。
夕霧に会いたいけれど今は零落した身の上、顔を見せられない恥ずかしさ、それでも吉田屋の前まで行ってしまう心模様。
立って良しとは、この姿のことですね。
恥ずかしげに、しかし、育ちの良さが美しく、柔らかい着物の線が花道にすっと立つ。美しい。紫に黒、金、そして手と顎の白。美しい。お顔が見えないのに、立っているその姿がすでに一本の若木のように美しい。

この伊左衛門が夕霧に会いたい心を吉田屋の夫婦に察して欲しくてすねる。かわいい。
心の中でこれはただの甘ちゃんの馬鹿殿じゃないか、と思っても、
目の前の伊左衛門はとにかく可愛い。こんなに可愛い若旦那のためなら、周りの人間はみんなお世話をしたくなっちゃうよ。
これ、仁左衛門さん以外にはできないでしょう。他の誰がやっても、あほな勘違い男になっちゃうでしょう。
仁左衛門さんの若旦那だけが、すねてもだだをこねても一途に愛らしい。
姿が良いだけではこの役はやれません。心にひとつの曇りもない、無邪気が雅気になる、そういう男を演じなくてはならない。

仁左衛門さんの伊左衛門は完璧です。

奥行きのない舞台のはずなのに、幾重もの襖を開けて、廊下をまっすぐに小走りにして奥の部屋に夕霧を見に行く。夕霧恋しのはやる心。うまいなあ、あの小走りの表現の巧みさ。舞いの名手だから出来るのですよね。
物語の大半が夕霧を待つ若旦那なのです。1時間、それだけを見せるのです。しかし、少しも飽きない。舞いのように体が動き、謡のように声が伝わる。

夕霧が来ます。客席は伊左衛門と一体になって、夕霧を待ちに待っています。待ちに待って、
伊佐衛門の「来た」
そっぽを向いてすわり、やはり正面に迎えるように座り直し、なかなか来ない夕霧にすねて布団の中にもぐってしまう。
そうして、やっと、観客の正面奥の奥の襖が開いて、夕霧が現れます。

玉三郎。
今まで見た玉三郎さんの中で、いちばん美しかった。綺麗だった。綺羅のようでした。
立っているその姿から光が立つ。あんなに美しい玉三郎さんを見たら、きょうはもうこれで良し。
おおきな鬘に銀のかんざしがいくつも揺れる。
黒い地に銀糸金糸の花が満ちる打ち掛け。その下から紅いそで。白い手。
まんなかに文楽の人形のようなちいさなお顔。

伊左衛門がすねてもぐっている布団の傍らに手をそえて座る玉三郎と布団から小さく見え顔が見える仁左衛門。

この夕霧だから、伊左衛門は待ちに待ったし、
この伊左衛門だから、夕霧は病のなるほど焦がれて来たのです。

どちらが欠けても存在し得ない。

仁左衛門さんが舞い、玉三郎が脇に座っている。姿の美しさは心の美しさによって映える。
もう、それだけで、十分でした。
どちらが欠けてもあり得ない、一幅の美しい錦絵を見せていただきました。
ありがとうございました。

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March 22, 2009

川を越えて、森を抜けて

3月21日 本多劇場 マチネ 満員の観客。年齢層は50~60代が中心かな。

3月にカトケン、ハートウォーミングストーリーを楽しむ。風物詩となる。

アメリカのイタリア系家族。孫の青年とその父方、母方それぞれの二組の老夫婦。
そこに流れる暖かい家族の情を描く、
謎とかどんでん返しとかスピード感とかとは無縁の、暖かい物語です。
人生の幸せは、家族をつくることにある。そのたからかな宣言でもあります。

二組の老夫婦は毎日曜日教会へ行き、そのあと孫とともに食卓を囲みます。
ところが、その孫が、昇進の結果遠いシアトルへ行ってしまう。なんとか孫を行かせまいと祖父母によるお見合いが設定される。
歳をとって車の運転が心配な祖父、自分のことをしゃべるのが嬉しい祖父母、いつも何か食卓に出しごちそうをしたい祖母。孫のために教会のミサカードをもらってきては差し出す祖母。
それは、どこにでも見られる年寄りたちの姿です。
その姿に笑いながら、でも、
目の前の舞台の出来事には暖かく笑っていても、外の現実の世界では、それらは邪魔にされたり無視されたり嗤われたりしている。だとしたら、この小さな空間では暖かく守ろう・・・・もしかしたら、加藤健一さんはそこまで言いたいのかもしれない。

孫役の山本芳樹くん。
癖のない、素直な演技です。
昔のイタリアや日本やアメリカや世界中に当たり前にあた孫の姿です。
あまりの嫌みのなさに、その姿が今では絶滅品種だということを忘れそうでした。

そうです。絶滅品種なのです。

脚本はそれをごくさりげなく知らせています。

舞台に出てこない人々。祖父母からは息子娘であり、孫から見れば親。
時代を実際に動かしているその人々は、親を捨てていなくなってしまっている。息子と共に暮らしてさえいない。どこか都会で仕事を持ち、自分たちの生活をしているのです。

その息子、娘たちにひとことも怒りを持つこともなく、
ただ、孫には言うのです。「家族をつくり、家族を守ることが、最大の幸福、人生の目的のはずだ」と。

それでも、かつて、イタリアを去ることを自分に許した自分の父の偉さはわかっている。
だから、出発を伝える孫に向かって言葉を出せない祖父。加藤健一さんが舞台をぐいと引き締めていました。
カトケンはいつ見ても目の力が強くてきれい。声も、強くてきれい。

加藤健一さんは起伏の少ないハートウォーミングな物語にも、心地よい強さをもたせてくれます。

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三月大歌舞伎 元禄忠臣蔵

歌舞伎座が壊されてしまう前に、
今年の歌舞伎座は観に行くことがまずは大切。
しかしながら、演目と役者を問わず、とはゆきませんから、
仁左衛門さんと、玉三郎さんは必ず。
菊之助さん、亀次郎さん、勘太郎さんもぜひ。

二月の玉三郎、菊之助の娘二人道成寺に続いて、
三月は元禄忠臣蔵。仁左衛門さん出演で3月20日、歌舞伎座昼の部へゴー!

江戸時代の仮名手本忠臣蔵とちがい、明治になっての実名でそのまま描かれた忠臣蔵です。
お話の中心は、最初から最後まで消えてしまった武士(さむらい)の心へのオマージュ。

 江戸城の刃傷
松の廊下で吉良上野介に太刀を浴びせた内匠頭を取り押さえる人々。
その処罰にあたって、刀を抜いた内匠頭の心を武士の鑑とみなす多門伝八郎。
弥十郎さんの多門伝八郎は品があり堂々として、切腹の沙汰を「御上の判断の片手落ち」と論じ寄る様子は実にかっこいい。
内匠頭とそれに続く家臣たちの行為を、失われつつある侍の心への哀歌とするテーマがこの最初の段で高く掲げられました。
あとはこのテーマに沿って、物語が重ねられます。
内匠頭の散り際を、もののふの美学として、美しく美しく。
ゆえに、
自尊心のために軽はずみに刃傷沙汰を引き起こし家臣を路頭に迷わすことになった馬鹿殿への、江戸の町人ののぞき見感覚は全くなし。
内蔵助はまだか、と待つひ弱な殿の哀れさ、駆けつけた内蔵助の理屈を越えた激情などはシーンごとなし。

美学の切腹で果てた殿ということであれば、残された者たちはその美学を引き継ぐ者でしかありません。
そこには、仮名手本に見られる人間劇は存在できなくなります。
内蔵助の目的は殿の心を引き継いで吉良を討つ、それだけになります。

 最後の大評定
そんなわけで、内蔵助の内面は意外と葛藤がなくなる。吉良を討つためにすべてを自分に任せて欲しい、という場面も、出来レースなので、緊迫しない。幸四郎さんの内蔵助に陰影がないのはそのためでしょうか。
そこを補うために、内蔵助のかつての友、浪人の井関徳衛門親子の忠義の切腹が入ります。
徳衛門父子の悲劇も正面から描きすぎているような気がしました。浪人ゆえに敵討ちの仲間にさえ加えてもらえないとしたら、武士の心って何なの?というような鋭い視線がほしかったなあ。

 御浜御殿綱豊卿
お目当ての仁左衛門さん、やっと登場。11時から始まって、仁左衛門さん登場が2時半。長かった。
前の2幕が武士の美学を重く重く描いていて疲れた観客のために、この幕では次期将軍の放蕩の浜遊びで観客を和ませます。
観客は世上有名な内蔵助の放蕩の姿を綱豊卿の姿の中に映して見ています。
しかも、この幕の主人公綱豊卿は浅野お家再興の成否の鍵を握る人物です。
硬軟演じて色気も凛々しさも出せる仁左衛門さんのはまり役!!!!

仁左衛門さん、きれいです。御上の浜遊びが上品で綺麗。世を欺く放蕩の姿の下に隠す男気。かっこいい。
吉良を討とうとはやる浅野家臣富森助衛門の染五郎を、ちょいとからかってしゃらしゃらと笑うさまが気持ちよい。最後には、能の獅子頭もつけて、染五郎を抑える姿が美しい。
3時間以上待った甲斐がありました。ふひゃふひゃ。もっと、近くでみたかったよ-!!!

浅野家臣に吉良を討たせて、内匠頭で始まった武家の美学をまっとうさせるためには、お家再興がなってはいけない。これはこの物語であってみれば当然の理屈になります。
ゆえに、大評定の内匠頭幸四郎さんよりも、お家再興の願いを出すべきか出さざるべきかという綱豊卿仁左衛門さんのほうが、ぐっと葛藤を見せてくれます。

特に、「吉良を討つたくらみ」をうち明けさせようと詰め寄る綱豊卿と、放蕩の姿は将軍職への野心を隠す姿と切り返す助衛門の対峙は、秀逸。きりきりとした緊迫。そのなかに大人の仁左衛門さんと子どもの染五郎が生み出す愉快なリズム感もあって、見ていてとても楽しうございました。

夜の部は、討ち入り前、討ち入り直後、浪士切腹の内蔵助をそれぞれ團十郎さん、仁左衛門さん、幸四郎さんで演じます。この内蔵助の見比べも面白かったかな、と思いながらも、綱豊卿の仁左衛門さんに満足。

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March 15, 2009

ムサシ

2009年 3月15日 マチネ
彩の国芸術劇場
井上ひさし書き下ろし新作を蜷川幸雄が演出。
藤原竜也、小栗旬のダブル主演
白石加代子、鈴木杏、吉田鋼太郎、辻萬長。

話題性ダントツ。チケットは即日完売。オークションは高値高騰。
3時間半。

こんなふうに並んだ看板に、不安はあった。

初日2日前に台本完成。
しかし、初日は会場いっぱいがスタオベだったとのこと。
「面白い」「抱腹絶倒」「わかりやすかった」というレビュー。

たぶん、見たい種類の空間ではないな・・・という、小さな諦め。

それでも、
藤原竜也と小栗旬のいままでの位置とこれからの立ち位置を考えると、
ふたりの青年の強烈な化学反応を期待していた。

井上ひさしさんのホンを見てきて、「父と暮らせば」は良かったけれど、
それを含めてひとつとして、私を向こうの世界に連れて行ってくれるホンではなかった。
社会的平和メッセージのための演劇。特に最近の作品は。

だから、期待してはいけなかったのだね。

これだけの役者だったから、3時間半見ていられたのかな。
でも、これだけの役者を揃える舞台だったのかしら。

「殺すな 」「生かせ」「もったいない」
劇中の登場人物の叫びを井上さんの言いたいです。
役者の輝きをころすな、生かせ、これだけの役者がもったいない。

竜也の舞台で、竜也が立つ舞台を、弛緩した気分で漫然と見下ろしていた。
こんなこと、初めてだった。

カテコの彼を、見なかった。
それも、初めてだった。


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March 14, 2009

2009 春琴

2009年 3月13日 金曜日 ソワレ 世田谷パブリックシアター

昨年に続き、再演の春琴を 娘と見てきました。2階席最前列センターで、舞台全体が俯瞰できます。
この劇場は、どこから見ても、空間がきれい。好きな劇場です。

昨年、サイモンマクバーニーの闇を操る演出に脱帽状態で、劇場をあとにしました。

再演の今回。

期待値に比べると、やや下がる印象でした。まず、そこから。
昨年の「知らなかった」演出世界への驚きを差し引いたとして、
今回の方が、演出がしゃべりすぎのように感じました。特に2幕目の春琴の胸をはだけた姿、佐助と折り重なる人形の手足。前回もあったのか、定かではありません。役者さんが変わって大柄になったせいもあるかもしれませんが、そこを見せる必要はないのにと思いました。昨年も映像にやや違和感を持ちましたが、舞台全体を俯瞰できる席だったせいか、春琴の写真の映像も不要に感じました。朗読者の私生活を重ねる趣向も、前回見たときよりも、全体を通してみて不要に感じました。説明しなくても良いのに、と。
もっとも、初見では、説明は必要なのかもしれません。

期待値が高かったゆえの、マイナスポイントをあげましたが、

質の高い緊密な空間は、さすがで、見事で、ヨーロッパの目が見た日本の美の真髄として、素晴らしかった。

深津絵里さんの声と本條秀太郎さんの三味線の音が重なり合って、それはもう美しかった。

あの声とあの音と声、

灯と闇と灯、

春琴と佐助と春琴、

それが心と体と心とを表すのだと、しんしんと続く二人の営みによって、わかってゆくのでした。

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February 21, 2009

二月大歌舞伎 京鹿子二人娘道成寺

2009年 2月 19日 歌舞伎座昼の部

玉と菊 京鹿子二人娘道成寺

夢のような、と言う言葉は無意味です。
私は夢であのような場面を見たことはありませんし、決して見ることは出来ないとおもいます。
現実に、目の前に、玉三郎が舞っている。
それを越えるほどの空気も色も気も動きも、夢で見ることは出来ないでしょう。

玉三郎は舞いで人の魂を吸い込んでしまうのだと思います。
舞っている彼女(彼)は、人ではありません。
精なのだと思います。
あれは人ではない。狐か物の怪か神か巫女か、舞いそのものか。

劇場の空気が一心に研がれてゆき、玉さまと菊が釣り鐘の上に乗って登っていったあと、
ひかれた五色の幕とともに、高揚した声、漏れる吐息、傍らの人を見やる衣擦れがわきあがる、
劇場の幸せ。

安珍を恋い焦がれて蛇になった清姫が
あんなに美しいのは
その思いがただ哀しいからなのだと、
玉三郎の舞いは言っていました。

赤い振り袖、浅黄色、紫、黄色、夏黄昏の白。
衣装が玉三郎の舞いにうち従う女官たちのようでした。


菅原伝授手習鑑

我が子の首をを忠義のために切らせた松王丸の物語。そのそもそもの原因となったお話でした。

主君の常世親王と刈や姫の密かな恋を手助けした明るい出だしが、最後のあの悲劇にまでつきすすむのですか。これはすごい作劇です。三兄弟の父が子(桜)の切腹の介添えをし、親兄弟を裏切って主君についた悪役松王丸が、主君への忠義を越えて、親兄弟の繋がりを選んだからこその、松王丸の子殺しなのですから。

お話がつながって、納得。これは、通しでやればよいのにねぇ。

松王丸の染五郎は、せっかくの役をもらっていたけれど、もう少し、かな。勘太郎さんで見たいな。

他に文七元結
菊之助には色悪もやらせてみたいと思いました。綺麗な弟キャラですから。

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冬物語

2009年1月31日 彩の国芸術劇場。「冬物語」
蜷川シェークスピアで、はじめて泣きました。


シチリア王レオンティーズ 唐沢寿明
王妃ハーマイオニー 田中裕子
ボヘミア王ポリクシニーズ 横田栄司
ボヘミア王子フロリゼル 長谷川博己
羊飼いの娘パーディタ  田中裕子
衣装 小峰りりー

他の劇場で配られたチラシを見ていたものの、パスしていました。
4年前の「天保」の唐沢さんに今ひとつ惹かれなかったこと、
(新感線の「天保」上川くんには強く惹かれたのに)
一昨年パスした「コリオレイナス」を見た知人はひとこと「長かった」でしたし、
昨年の蜷川シェークスピア「リア王」は毛皮の衣装が重くて重くて、
石が降ってくるのも市川さんの「リチャード3世」と同じだなと思ってしまい、寂しかった。
「源内蛙合戦」は役者が気の毒になるほどの過剰な演出で、
要するに蜷川さんの舞台に飽きていたのです。

ところが、「冬物語」評判がよくて、その中身がまただまされてみたくなるもので、
千秋楽間近の舞台をみてきました。

「だまされて」よかった。

帰り道、すごく、すごく、すごく、うれしかったのです。
シェークスピアのために、
「冬物語」をこんなふうにしてくれた蜷川さんにも、唐沢さんにも、田中裕子さんにも、感謝したかった。
暖かい気持ちがあふれてきました。
そして、もしかしたら、誰よりもシェークスピアに、ありがとう、と言いたかった。

ハムレットを見て、マクベスを見て、リチャード三世を見て、
冬物語で、
ここにたどりつけたシェークスピアに会えた、それが、晴れ晴れとうれしかったのです。

あれほど憎みさげすんでいた女性と、シェークスピアは人生の末期に和解していたのですね。

男を邪悪の沼に引き込む魔女か、はたまた、女になる前に妖精として死ぬべき運命か、
女はただそのどちらかの存在?

いえ、女は、別のなにものかにもなりうる、と。別のなにものかでもあり得る、と。人として、どのようなものにでもなりうる、と。気高い魂が女性にも宿るのだし、人として、苦しみと清らかさの中で生きているのだ、と。

そしてまた、愛ゆえに愚かな沼に落ち込む男をも、許していたのですね。

男が迷い苦しむのは、男の心の鏡に映る自分の執着のためで、
その弱さは、強さを保とうとするゆえの、逃れられない運命ならば、
その哀しさは、許されてよい、と。

蜷川さんの年齢と、シェークスピアの年齢が共鳴したようにも思いました。
人は簡単に過ちを犯すし、それは取り返しがつかない喪失をもたらします。
それでも、長い年月の果てに、人は、人を許しうるところへたどり着けるのです。

赤の衣装、青の衣装が、ポンペイの壁画を思わせる背景に映えて美しく、蜷川さんにしてはシンプルな舞台装置。
大がかりな舞台装置も落下物もなくて、舞台の上に立つ人間から表出する感情に集中できました。

意味なく簡単に嫉妬に狂う王。唐沢さん、難しい役だったことでしょう。
一歩間違えば、とんでもなくつまらない人物になってしまうところだったと思うのです。
けれども、唐沢さんの王は醜い愚かな執着の中にもひとすじ清らかさがあって、
そこには、小さな疑念から孤独地獄におちて、おのれの執着の底なし沼にはまっていったさみしい男がいました。
科白も姿も表情も、少しの違和感も生まれる隙がありませんでした。

命よりも名誉を惜しむ気高い王妃を演じて、田中裕子さんも、素晴らしかった。
舞台より映像で、なにげなさを表現して味のある役者さんだとおもっていたけれど、
舞台で、あれほど力強いとは。
田中裕子さんの持っている凛とした強さと無垢なあどけなさが、
唐沢さんの王と対比されて、物語の輪郭がくっきりと見えたのでした。

二幕の少女を何の苦もなく演じているように見せる。すごい。
一歩間違えれば、女優の老いを感じてとんでもなく痛いいたたまれない舞台になっていたかもしれないと思うのです。
彼女以外に、この王妃は出来ないと思いました。

(歌舞伎の板の上なら、きっと、玉三郎にはできることでしょう)

それから、嬉しかったのは、長谷川博己くんの王子さま。

カリギュラで、注目した彼が、素敵にかっこいい王子さま役で、
おいしいフルコースの後に、最高のデザートが出てきたような幸福感。

TVで売れている今時のイケメン若いのを持ってこなかった蜷川さんに、感謝です。

不幸な誤解が解けた幸福を、舞台の上で、二重に味わったように思いました。
蜷川さんにも、唐沢さんにも、田中裕子さんにも。

再演があったら、また見に行きます!

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February 06, 2009

から騒ぎ

2008 10月14日 彩の国さいたま劇場は 雨模様の平日マチネでも 満席!

客席のお目当ては小出恵介くん。それに高橋一生くんかな。・・・あとは蜷川ファミリー。

幕が開けば、おお~、白い人体の山。

つくりもの感満載の裸体彫刻がデコレーションケーキスタイルで丸く庭園を取り囲む。
大理石風、ローマ彫刻風、ルネッサンス風、蜷川ワールド全開。
目を驚かせるのが大好きなこの方ならでは。
なにより「見て驚け!」って舞台がしゃべっている感じです。

お話はシェークスピア。彩の国のオールメールシリーズの「から騒ぎ」
今日は楽しかった。

昨年の「お気に召すまま」は、ジャニーズ系の成宮くんの女演が重くて、小栗くんの王子様風が軽くて、シェークスピアの男女取り違え物語で笑わすにはバランスが悪かった。

物語が単純な「から騒ぎ」は設定に取り違え悲喜劇を仕掛けた笑いはありません。
流行言葉でいうな、らべたな展開。
言葉遊びをたくさんまぜて、勧善懲悪と恋のめでたしめでたしのわかりやすいストーリーでお客さんを楽しませます。
饒舌な言葉遊びで笑いをとるのが無理とわかっている蜷川さんは、警備隊一行を徹底的にお笑いキャラクターにしたようです。あたまをぶったり裸にしたりのTVっぽい笑いにかえて、観客を楽しませていました。

そして笑いの主筋は、べたな物語のおかしさになりきってしまえる役者。
吉田鋼太郎さん、蹉川哲朗さん、長谷川博巳さん。
オレステスやカリギュラで見せた重厚な役とはうって変わって、本人たちは至って真面目なもののすこぶる軽い人物たち。そのなりきりぶりがうまい。
(こういうのって、竜也はできないな・・・)(こう思ってしまうわたしも可笑しい)

とくに、吉田さんは、こういう役の方が、実は好きでしょ。
長谷川さんのクローディオに愛のキスをするところなんか、すばらしい喜劇ぶり。
はじめのこの場面で、客席を全部をシェークスピアお笑い劇場にしてしまいました。
要所要所で吉田さんが締めて、ほとんど主役の存在感。

この存在感に対抗していたのは、高橋一生くん。愛らしい。勝ち気で美人で頭の良さに自信満々。女優がやったら、そうとう嫌な奴になるかもしれないベアトリス。高橋くんのベアトリスはかわいくて、不思議なことにけなげでもあった。
たくさんの言葉を見事にこなしているさまが、男に対抗して頑張る女のけなげさにをあらわしてくれたのかもしれない。なんだか、一生懸命のベアトリス。かわいらしかった。

月川悠貴くんは、私は女優というなりきりぶりが、この喜劇にぴったり。美和明宏さんの再来か。

何も考えずに楽しめる素敵な喜劇シェークスピアでした。

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青猫物語

9月20日 土曜日 マチネ

シアタークリエ

昨年こけら落としをした超一等地日比谷の劇場は
なんだか、デパートに入っているブランド店と同じだ。
天王洲の銀河劇場、赤坂のアクトシアター、日比谷のシアタークリエ。

綺麗に取り繕っている。
しかし、香りがしない。古い樹や石や紙から立つひっそりとした匂いも、
新しい布やガラスや灯りのはじける光沢の笑みも、なくて。

演劇を見る人の幸福にまるで無頓着にみえる。
映画館なら許容範囲かもしれない。「全国の駅前どこも同じ」
しかし、劇場では困る。高いチケット代には、劇場の空間の喜びも入っているはずだ。

舞台の幸福は、
ロビーからはじまり、ラストの照明がおちた闇で最高に高まり、世界を後にしてあるく階段で心の中に折り込まれてゆく。そういう、少し気高い幸福を、作り手は丸ごと大切にしているのではないのか。


どうも好きになれない劇場の雰囲気でも、先日の「宝塚ボーイズ」は楽しみました。
一昨年公表だった作品の再演と言うことで、再演もなるほど、と思いました。宝塚の劇場のお隣でかかったというのもほほえましかった。
わかりやすいお話に歌や踊りをまぶして、男の子たちの一生懸命をそのまま見せてくれました。


「青猫物語」は、駄目でした。
北村有紀哉くんを見たくて行きましたが。彼はそれなりに頑張っていたと思います。他の役者さんたちも同じです。役者さんたちが気の毒になってしまいました。しかし、作品としてつまらなすぎて。ひとつも心に残らなかった。この劇場、プロデューサーがいけないんじゃないかと、そんなことを感じてしまいました。

または、東宝という会社の体質かな。映画にも感じる「深みのなさ」。大衆エンターテイメントで稼ぐ、という姿勢なら、それならそれで、いいけれど、中規模の演劇は似合わないと思います。

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September 24, 2008

人形の家

2008年9月24日

シアターコクーン イプセン戯曲の代表作。
でも、女性解放の先鋭となった作品という「名」の重さに、少々敬遠の気持ちもあり。
きっとたくさんの大女優が演じたいと思い、演じてきたであろうノラ。

宮沢りえさんのノラなら観てみたいな、と思いました。
昨年はじめの「ロープ」で、りえさんに竜也よりもキラキラを感じてしまったので。

満員の客席。2階席にも3階席にも立ち見が出ていました。

コクーンの真ん中に、細いライトに縁取られた低い四角い床。
ソファ。子供用の小さな椅子。クリスマスプレゼントの買い物袋。背の低いクリスマスツリー。
ノラと夫と三人の子どもとメイドと子守の、大切な家のリビングを四方から客席が囲んでいます。

シーンが変わるとき、役者を乗せたまま、低い舞台がゆっくりと回ります。暗転はありません。

役者たちはずっと全方向から観客の視線を浴びています。360度、自分の見えていないところからも視線を受ける。
役者が受け、役者から発している、
圧倒的な緊張感が、
戯曲の持つ金属的な緊張をむしろ中和させてくれているようでした。
そのために
ノラに起きていることを、まるで目の前で起きている事実のように感じとることができました。

厳格で現実的で歩く世間体で おそろしく俗人の 夫と
夫に小鳥ちゃんと呼ばれ 自らを小リスさんと応じる かわいいかわいい妻。

これを大女優の貫禄で演じてはいけないでしょう。
わたし、このあと、りえちゃん以外の女優でノラを見たくないなぁ。
あんな
男にとって完璧にかわいい妻。そして、必死に完璧なかわいい小鳥さんでいようとしていられる妻。しかも、夫に愛され夫を愛する妻である自分を譲らない女性。 さらに、自分が夫を愛する良き妻でいられることを当たり前に周囲に押しつけて迷いのない女。
しかも、それゆえに、最後に、自分の中にある夫が求めるものでない自我を知ってしまうノラを
ぶれなく演じられる。
宮沢りえちゃんと宮沢りえさんのダブルで、見ることが出来て。

戯曲の主張の青臭い性急さと古くささにさえ、
カテコが終わって劇場をあとにしながら、
りえちゃんのカテコのすがすがしい表情を思い出すと、なんだか勇気をもらえてような気持ちになりました。
イプセンから始まって100年かけて、女性はここまで来たんだよ!!と。

ノラをおどすクロクスタの山崎一さん、ノラに恋情を持つドクターの千葉哲也さん、ノラにエールを送るリンデ夫人の神野三鈴さん、みんな完璧でした。心地よい緊張感。奥行き。
役者の気持ちの良さを120%引き出すのが演出だと痛感しました。

もちろん、堤真一さんも。ぴったりのノラの夫でした。

(堤さんが悪いわけではなく)りえちゃんのノラがあんまり素敵だったので、ぜひ
別バージョンでも見たい。夫役だけ換えて。

中井貴一さん、北村ユキヤくん、生瀬さん、りえちゃんのノラの夫をやらせたい男優さんがたくさん浮かびます!

みたいなぁ。

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August 30, 2008

ウーマンインブラック

2008年8月29日ソワレ
渋谷 パルコ劇場 渋谷で舞台を見るのは3月のコクーン覇王別姫以来!

上川隆也さんと斎藤晴彦さん。芸達者な二人だけの舞台。
イギリスの古い館を舞台にしたホラー。

期待は高く、お二人は期待通り達者で、シンプルな舞台装置も、照明がつくる空間配置も、
観客の想像力を刺激し、集中させる工夫も良かったと思うのですが、
なにしろ、作品がホラーでした。真っ暗にして突然大きな女性の絶叫。また絶叫。
う・・・・・ん。
怖がらせるために、驚かせる、というのは、
ハリウッド映画かお化け屋敷の世界なので、
わたしが舞台で味わいたいこととはかなりギャップがありました。

そのせいかどうか、上川さんの恐ろしがりぶりがテンションが高すぎで、ときどき科白も聞き辛く、

残念。

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志の輔ひとり国立劇場と独演会

8月16日昼 お盆でオリンピック中継まっただ中で、国立劇場の大ホールを満員にしちゃうんだから、
志の輔さんはすごいわ。

プライベート演劇ともいえる落語をあの大きなハコの中で聞くことに、どきどき。

前座なし。志の輔さんだけで3本。
あの世に行ったひとが生まれ変わりの手続きをする噺。生まれ変わって志の輔さんになった。
三方一両損の噺。
そして、トリが中村仲蔵。歌舞伎の舞台で仲蔵さんの斧定九郎のはなし。

そうだよね、歌舞伎の舞台だもの、最初の出で回り舞台を使って、次の出でせり上がりを使って、
トリの出で花道使わないのは変だなと思ったの。
まくらをほとんどふらず、芸の家を継ぐはなしにすっと入る。
おぉ、、、中村仲蔵だ、その瞬間にそこは歌舞伎の舞台でありました。

歌舞伎の舞台で仲蔵さんの斧定九郎の姿を見て、幸せでした。

8月28日夜 中野駅から歩き「なかのゼロ」ホールへ。
独演会といっても前座あり。考えてみれば、前座がお客さんの前に出る場は必要で、前座から聞いて客も成長できるのだなと納得。
猿後家。実際にいたら困りものだけど、志の輔さんが演じると愛嬌があって。こういう人もいてもいいなぁ、なんて。

トリは柳田格之新。
2週間前に中村仲蔵で、今日は柳田格の進。この2本続けて聞けただけで、良い夏だった。
こんな人はもういない、こんな心情はもう消えて無くなった、そう思いながらも、

松田権六の蒔絵のお盆と同じなの。ある時に、こんなものを作った人がいた。そこにその作品があって、わたしは見る幸せを得た。それだけで良いような気がする。
真摯な心情がそのまま美しい作品になる。それをわたしは客席で見る。
なんだか、それだけで良いような気がした。

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かもめ 千秋楽

2008年8月8日
 
かもめ、名古屋での千秋楽へ。

新幹線で東京から名古屋へ。車中、「20世紀後半史まとめ」に集中。
ホテルに入りシャワーを浴びて、愛知厚生年金会館へ。

5列目下手はじの席で、4幕目のトレープレフが背中か横顔しかみえず、残念だった。
登場人物ひとりひとりを味わいつつも、それぞれの深い感情までには入り込めず。
俳優や演出家の挑戦をさそう魅力のある作品なのだと思う。
もっと近く、出来れば登場人物たちと同じところにて味わってみたいと思わせる作品だった。

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August 02, 2008

かもめ 東京前楽

7月12日 マチネ

今日の席は遠いけれど、オペラグラスで竜也だけを追っていた。


トレープレフの最後の科白。

ニーナが消えて、自分だけが残った暗い部屋のぽつんと置かれた椅子に座って、

生きている彼が最後に口にした言葉

(こまったな。ニーナが誰かに見つかってニーナがここにいたことを知ったら)「ママが嫌な気持ちになるだろうな」

この科白を、

深い絶望の中で

あんなふうに
ふっと
思いついたように言える、

これをすべての観客が聞き漏らさずにいて欲しい。トレープレフになった竜也のために。

次に会えるのは名古屋の大楽。会いたい。最後のトレープレフに。

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かもめ  喜劇ではなく。 

初日のかもめを後方の端の席で見て喜劇の演出に納得しながらも、どうしても、役者の演技を知りたくなった。

行き違う感情を手でさわれるくらいの距離で、見たい。

座席が多すぎる小屋なのが幸い(笑)して、前の席でもオークションでのチケット値段が上がらない。前から三列目を入手。

7月2日 マチネ。暑い日だ。
昼に来ても夜に来ても、香りのない薄っぺらな劇場です。

前から3列目。センターブロック下手通路から2席目。ここは、ラストの竜也が真ん前で見られる!

おや。初日に比べて、喜劇が薄くなっている。彼らへの距離がぐっと近いせいか。
マーシャの表に出しようのない苦しさ。
彼女の気持ちに手でさわれそうな距離。小島聖さんがすごく良い。
この距離だと麻実さんや鹿賀さんの演技がむしろ過剰だ。ふたりとも、アンサンブルから出てしまっている?

そして、竜也。
間近に見る藤原竜也はなんてきれいなんだろう。
いえ、間近に見るトレープレフのにがヨモギのような若さが、きれいなのか。

もしかしたら、栗山さんのかもめが竜也のかもめになりつつある・・・・。
初日に過剰に感じた前半のはしゃぎぶりが少し抑制されて、後半にむかってゆく。

4幕。

トレープレフのまわりで、大きな歯車がまわりはじめる。

母アルカージナの、人生の敵トレゴーリンの、自分自身の、そして彼の前に突然現れたニーナの、言葉が、言葉のひとつひとつが、トレープレフと彼の人生とをつなぐ糸を切ってゆく。
「わたしわかったの」と、女優である自分を語り、トレゴーリンへの愛を言う、ニーナの言葉。
彼女はトレープレフを見ていない。母アルカージナが彼を少しも見てこなかったのと同じくらい、彼をまったく見ていない。トレゴーリンが彼の小説に少しも注目していないのと同じようにように、彼の気配さえ感じていない。
「あなたを見ていない」という視線。
トレープレフを「生きること」につなぎとめていた綱が、切り裂かれてゆく。
名声、戯曲、母、ニーナ。1本1本の糸が切れてゆく。

すべての糸がきれて、

トレープレは、ニーナを見ていない。ニーナを見ることをやめてしまった。

最後の彼は何を見ていたのか。空虚な穴のような終わり・・・。

かもめ第4幕は、トレープレフの物語になっていた。
喜劇ではなく、悲劇でもない、終わりへのしんと静まりかえった物語。

この席で見なければ、この物語は見られなかった。
泣いていたよね。静かに。終末に向かって。人生のすべてが無意味だったゆえに流れる涙だった。

静かに彼は舞台の袖に消える。身近だった人々のさんざめきの中に響く一発だけの銃声。最後の場面はトレープレフの物語のエピローグでしかない。映画だったら、もうテーマ曲とタイトルロールが流れている場面。

こうして、彼はこの物語も、彼の世界にしてしまったね。そして、わたしはまた、彼を見始めるのだと思う。ずいぶん長く、気持ちが行き場を失っていた。
やっと、ここに。とりあえず、ここに、かな。とにかく、ここに、かな。
スタンディングオベーションも興奮した空気も湧いていない、今までの竜也の舞台ではあり得ない空気の劇場をあとにして、

わたしは、小さな満足を握っていた。

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カメレオン

藤原竜也主演
阪本順治監督
丸山昇一脚本(30年前に松田優作に充て書きで書き下ろしたもの)

東映はやる気ないな~。
ホリプロは駄目だな~。
ほんとうに、もったいない。

ヤフーの最後のレビューがぴったり。
「おもしろくない。でも、かっこいい」

それをさぁ、「面白かった」にするのは、プロデューサーの腕でしょうに。

撮影現場の意気を随所に感じる映画なのに、
脚本が寝てるし、(30年前の松田優作のためなら、それでも良かったでしょうが)
東京でたった3館、それも、3週間。

でもね、ゴーロがほんとにかっこよかった。
はじめの1時間弱は、お話のあまりのゆるゆるペースにかなりイライラしたけど、
主人公二人の話になってから俄然面白くなった。

ほんとうにもう一息。アクションシーンを見て、藤原竜也はアスリート系って確信した。科白いらない、は、松田優作と同じかもしれないけど、科白無くても良いから、もっとちゃんと人物に物語を書き込んで。でないと彼はその人間になれない。ただそこにいるだけでよい雰囲気俳優の松田優作とはそこが大きく違う。

前半がゆるゆるしたのは、前半のゴーロに背景の物語が感じられないから。ついでに、旅芸人3人にも、ゴーロの詐欺仲間にも、女占い師にも、相手方の悪役にも、物語が薄かった。

それでも、この映画のおかげで、「竜也難民」状態を脱することが出来ました。
ああ、こうやって、彼は天才少年とよばれた「少年時代」を終わらせて、
次のステージに行こうとしている、そう思いました。

インファナルアフェァみたいな男の映画を、藤原竜也(アンディラウのやくどころ:たとえば殺人をかくしおおして生きているセレブ)&堺雅人(トニーレオンのやくどころ:たとえば犯人を一人で追うおちぶれた元刑事)、監督阪本順治、脚本輿水さん(相棒の)で、つくってくれないかなぁ。

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文楽 槍の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)

7月24日 大坂遠征2日目。

国立文楽劇場。

道頓堀でお好み焼きを食べて、ビール飲んで、国立文楽劇場へ。東京の文楽を見る国立劇場は皇居と最高裁判所の裏手、賑わいのない場所にあって高級っぽい。本場大坂はどうかな。
うーん。大通りに面して風情がない。高速道路高架下の道路。これはいけませんね。東京の日本橋と同じ惨状です。

しっかりと予習をして望んだ「槍の権三」
人形良し。桐竹勘十郎さん、吉田蓑助さん。
浄瑠璃も文句なし。住太夫さん出なかったのは残念だけど。
近松門左衛門の道行きもの、これも文句なし、のはずが・・・・。

結論:天才近松にも失敗作はある。

女がうっとりする良い男の槍の権三は遊んだ女と本気で夫婦になろうとはせず、出世のために他の家の娘との結婚を受け入れる。悪い奴だよね。
権三に密かに心を揺らすおさえは一子相伝の奥義を教える代わりに権三に娘の婿になることを望み、他の女がいたと知って嫉妬し、男を旦那が留守の家に夜中に呼ぶ。
ここまでなら、まだ、悪い男と女の道ならぬ恋と道行き、で納得なのだけど、
そのあとが変!
男と女は情をかわしていない。にもかかわらず、密会の罪をかぶって道行き?
女の動機は夫に「妻敵討ち」をさせるため?
権三の動機は「もはや名はすたった。みごと妻敵としてうたれたい」????
いくら何でも、意味不明です。

そんなわけで、物語を複雑にしてはいけません。シンプルでよし。
物語はシンプルに、心情は奥深く、でお願いします。近松さま。

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大坂七月大歌舞伎 夜

7月23日 東京からの遠征。昼に続いて、夜は「熊谷陣屋」です。
「菅原伝授手習鑑」と同じ、武家社会が親に子を殺させる悲劇。

NHKの「日本の伝統芸能-歌舞伎を楽しむ」で予習も済ませてある。
昼の部「伽羅先代萩」の余韻もある。昼夜で母と父の愛を並べる趣向ですね。

さて、熊谷陣屋の前半は、平敦盛の母藤の井と直実の妻相模が、ともに我が子の生死を案じながら対面し対決するのが見せ場です。相模に秀太郎、藤の井に孝太郎。物語の年齢としては逆かなとも思うものの、相模は重要な役どころなのでベテランが演じます。(役の年齢と役者の年齢のギャップは、現代の歌舞伎にとって、マイナス面が大きいとは思うけれど)
さらに、仁左衛門・直実の登場。この役はどちらかというと、仁さまの風情にはあまり会わないなあと思い、でも
浄瑠璃にのって戦の場面を物語る姿は上手い。

ただし、朝早くからの新幹線と昼の演目のあともあって、以上の部分は、じつはちょっと、うとうとと・・・。

後半の見せ場にそなえてちょっとのお休みを自分に許し。(役者のみなさま済みません)

そして、一気に眠気を吹き飛ばす後半。
義経の前に現す討ち果たした平敦盛の首。嘆く藤の井は背を向けて動かず。
直実が持って義経に掲げたのは、直実の子小次郎の首。我が子の首を敵の若武者の首と偽って掲げる、その前には、二人の母。息子の死と縁ある人の子の死とが、急転直下入れ替わる。
しかも、子を殺した父は、あくまでわが子の死を敵の死と偽って悲しみをみじんも見せず。
「一枝を折れば一指を切るべし」の謎で密かに身代わりの子殺しを命じていた義経。そこにも、隠された感情を隠しおおす激情があり。
(ああ、籐十郎さんの義経もよかったけれど、ここに玉を持ってきたら、直実と義経の間にも隠された愛が生まれちゃうねぇ)
実の子の初陣を気遣ってはるばる陣屋に訪れた母の前にさらされた我が子の首。
しかもそれは夫が討ち、我が子の死を悲しむことさえ許されない。
父である前に家臣であり、母である前に妻でなくてはならない、武家の非情。またはそれは主君への愛か!?

すごいドラマだ。もちろん、あり得ないドラマだ。しかし、人はこんな形の自己実現さえつくってしまう。

それにしても、直実は、妻に対してひどくないか?最後は自分だけさっさと息子の菩提を弔うため出家しちゃうんだよ。ひどいよ・・・・と思うのだけど、それが・・・全部吹き飛ぶの。

仁左衛門さんの直実が、頭を剃り僧の姿になって、花道に立つ。

幕は下りて、義経も家来たちも妻もその姿が消える。直実だけが、一人立っている。間違いなく、彼は、彼が殺した我が子に向かって立っている。

言葉にならない涙。
言葉にしない激情。
武家の非情への、非情をなした自分への、怒りをも圧殺した慟哭。怒ることさえ自分に許さず、一切の言葉を自分に許さず、ただ初めて父として息子の前に立つ男。
自分に殺された我が子に対して、ただ自分の魂を差し出す男。

仁左衛門さん、かっこ良すぎるよ~!!!!!!!

はぁ~。

で、かっこよすぎる仁左衛門さんにうっとりして白昼夢にいたわたしに、
共に観劇した友人のひとこと。
「これ(熊谷陣屋)前に見たよね」

え”----っ!いつ?
全然覚えていなかった。同じ演目を2年前に幸四郎さんで見ていたとは。
というより、途中全然思い出さなかった。演出の違いや脚本の変更があるわけでなし、ただただ役者が違うだけ。前回、わたし、うとうとのまま、後半もスルーしてしまったんでしょうか・・・。

その日覚えているのは、海老を見に行って菊之助が気に入ったことと、最後の仁左衛門さんの踊りだった。
そういえば、あれが、わたしの仁さま初体験でした。

つくづく、ポイントのみ掴んであとは捨てちゃっている自分らしいことではありました。

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大坂 七月大歌舞伎 昼

2008年 7月23日
新幹線で大坂まで。大坂松竹座で仁左衛門さんに会う。

歌舞伎座に比べてこぶりな劇場。左右の桟敷がないので横の広がりにややかける。
しかし、この大きさが大坂のお客さんの暖かさにはちょうど良いのかもしれない。
11列目、花道のすぐ右だったからか、役者と客の距離が東京よりすっと近く感じる。
なんというのかなぁ、つんとすました感じがないのかなぁ。観客の服装は真夏だというのに和服も多くて、京都の舞妓さんが旦那に連れられて見に来ている風もあり、東京よりもずっと「ハレ」なのだけれど、すましてないのね。東京とソウルの間に大坂がある、という友の言葉がすっとはいる。

歌舞伎見るなら歌舞伎座、と思っていたけど、

歌舞伎見るなら大坂、かも。

そして、2度目の仁左衛門さんの「伽羅先代萩」。
歌舞伎の物語性の楽しさを知り、歌舞伎座3階東から見おろす舞台にはまり、仁左衛門さんの芝居の独特のオーラを知った、記念の演目。

今日はこの席で見られて良かった!
仁左衛門さんの八汐は相変わらず憎らしい。しかし、憎らしいけど許しちゃう。綺麗な人が悪役やると、悪役に入れ込める。そこが生身の人間がする舞台の愉快。快感。
さらに、前回やってほしかった、と思った八汐の兄・仁木弾正との二役。
前回は、なんかややメタボの普通の悪役だったこの役。
ところが、
仁左衛門・弾正が花道のすっぽんからせり上がって・・・・青白い光。この世の者ではない妖術師が浮かぶ。
納得。この場面がこの物語にある理由が一瞬でわかった。これが仁木弾正だったのか!
これほどの悪役に対抗するから、政岡は我が子の命を見殺しに(犠牲に)闘ったのか。

 (ときどきこんな既視感を楽しむ。仁左衛門・弾正は、わたしがずっと知っているあるひとの姿でした。
  三国志諸葛孔明。こんなところで、孔明にまであえるなんて。ありがとうございました!)

最後の対決・刃傷の場面まで、まさしく仁左衛門さんを見るための伽羅先代萩。

そのうえ、実はこの演目の白眉は籐十郎さんの政岡。
政岡は主の子・鶴千代の命を守るために我が子千松を犠牲にする。歌舞伎の演目でいつも出てくる忠臣と親の愛のはざま。

敵方も味方もすべていなくなったとき、中央で躯となっている我が子の死をはじめて見る政岡、
そこからが凄かった。

籐十郎・政岡はなかなか我が子のところに近寄らない。
幾度も幾度も敵の姿が消えた花道の向こうを伺う。
悲しむ姿を見られてはいけないと、躯になっている我が子に背を向けて、
誰もいなくなったことをなんどもなんどもなんども伺う。主のため、だけでなく、それよりもなお、犠牲になったわが子の死を無駄にしないためにも。
そして、誰もいなくなった空(くう)を凝視したまま、突然、母に返る。

武家の土地東京では見られない。男の論理の東京では表せない。歌舞伎座で見た政岡とは全然違った。
かくしとおしたからこその、ものすごい、母の情だった。

よかった~新幹線で見に来た甲斐がありました。

他に、「春調娘七草」
菊之助は若武者もきれい。松禄もりりしい。

「血判状」
我當さんは、確かに仁左衛門さんの兄上。若武者ぶりもすがすがしい・・・のだけれど・・・やはり実年齢に近い若者にやってもらいたいのだった・・・。くせ者を演じさせたらピカイチの左団次さんが家康の狸爺ぶりを気持ちよく演じていた。大坂の人はほんとに家康を嫌いなんだなぁと、とてもよくわかった。

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七月大歌舞伎 夜叉が池・高野聖

玉三郎は、海老が好きなのね!とっても、かわいいのね!

というのが、一番の感想です。

今月の歌舞伎座は海老&玉の舞台。
昼は海老が千本桜の狐の宙乗り。歌舞伎座三階西は、普段なら花道が見えない一番悪い席だというのに、今月は宙をゆく海老を目前で見たいファンで1万円を超える高値になっていました。

見てきたのは夜の部。こちらは玉の演出を見る舞台です。3階東前列。

夜叉が池は泉鏡花の世界を歌舞伎にした作品。
一昨年公表だった演目の再演で、演じるのは、右近さん、春猿さんら澤潟(おもだか)屋さんのみなさん。

百合・春猿と萩原晃・段四郎さんの夫婦は夜叉が池の池の主笑三郎・白雪姫との約束から昼夜鐘を打つ。夫を訪ねてきた旧友の右近さん。これに飢饉で百合を生け贄に出そうとする村人たちがからむ。

どうも、不思議の世界に人間の情がからむ泉鏡花の物語の世界が苦手です。
さらに、新作(明治以降)の歌舞伎の科白が、意味が分かりすぎるのか説明的で想像力を刺激してくれない。
加えて、江戸時代に作り上げられた様式美がない。大道具や照明で演出効果を補うのは歌舞伎のスタイルにはあわないようにも思う。かえってスピード感のなさが目立って、つい退屈。

役者はそれぞれ好演していたと思うのですが、脚本演出ともにわたしには合いませんでした。

さて、本日の真打ちは海老&玉の高野聖。

こちらは、ある意味、そのままでした。

泉鏡花・玉のつくる不思議の世界に迷い込んだ若い僧の海老蔵。半分の興味と半分の懼れのなかで、ただ、呆然と(特に何を考えるではなく)一夜が過ぎてゆく。
物語の世界と二人の役者のありようがあまりにもそのままだったので、わかりやすさで勝ち!

玉三郎は本当に綺麗で不思議で少し怖いお姉さんだし、
海老蔵は歌舞伎の世界に好きでいるわけではないけれど、玉の中には女がいてくれるので嫌いじゃない。

ほんと、二人の状況二人の気持ち、そのまんまの舞台だったわ(笑)

ですから、作品を見に行ったと言うよりは、
歌舞伎界の玉三郎と海老蔵を見てきた、という感じでした。

そして、玉は海老のことかわいいんだなぁ、と、
海老は玉ならだいじょうぶなんだなぁ、と。

とっても納得して帰りました。

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August 01, 2008

こまつ座 父と暮らせば

2008 6 21 (土) マチネ
紀伊国屋サザンシアター

最前列 センターブロック

宮沢りえさん主演の映画「父とくらせば」で、りえさんの透明感としんの強さにうたれた。
映画を見たときに、これは舞台にすると良いな、と感じていた。
もともとは1994年初演の舞台作品だったと、今回知る。
すでにモスクワや香港での海外公演もしている有名な作品だった。

俳優は初演から数えて4組目の顔合わせとなる 辻萬長さん・栗田桃子さん。
演出は鵜山仁さん。

原爆投下3年後の広島の父と娘のささやかな日常。原爆は誰も抗うことができないほどの強い力を持つ素材だ。
それを井上ひさしは、娘を思う父の心、父をいとしむ娘の心とでそっとつつんで戯曲にした。

つつんだ柔らかいベール。
父と娘のささやかな日常、恋心や絵本の語り部の仕事、雨漏りする部屋や父娘でつくる郷土の料理。
雨音や日差しから漏れる蝉の声が聞こえてくるし、風呂の湯の温かさやごはんの香りが漂ってくる。
薄い優しいベール。

そのベールの下には、太陽がふたつ燃えて広島の人々を焼き尽くした恐ろしい地獄がある。

娘の行く末を思う父。
その父は、原爆の火で焼かれて死んだ父だ。
観客は、目の前でごく普通に生きている父が幽霊だと、やがて気づくのだけれど、気づいたときにはもう、父は、観客にとって生きている人と変わりない存在になっている。
だから、娘の行く末をきづかう父の心情だけが大きく大きく見える。

生き残った者の罪悪感を背負う娘を「ゆるす」ことは、死んだ者たちにしかできない。
父は、そのために、娘の前に現れたのだ。

恐ろしい地獄をつくるのも、
ささやかなまっとうな幸福を生み出すのも、
人間なのだ。
それを語るために作者は
素材の強力さに負けない、柔らかい、むしろ暖かい、それゆえに美しい、ベールを作り上げたのだと思う。

「人間合格」「思い出のすきまに」で見てきた鵜山さんの舞台にはまっとうなあたたかさがある。
戯曲に対しても、役者に対しても、誠実さを感じる。派手さはない。劇的なテンションはない。
それが、この戯曲にうまくあっていた。

劇的という言葉には、人を驚かせるどぎつさや扇情的な意味合いが強くなっているけれど、
本来の「劇的」は、そんなものではないのかもしれない。
派手な演出効果で驚かせたり泣かせたり笑わせたりするのではなく、人間の小さな営みに物語をみることなのかもしれない。

辻萬長さんも、栗田桃子さんも、市井の人の素朴さもあり、戯曲の持つ力をまっとうに表現して、悪くなかった。
役者の力や「演出効果」を味わう種類の作品ではない。
小さな物語と、そこから見える大きな悲劇を、観客の眼前に差し出す作品なのだと思う。

ただ、
脚本に忠実なこの舞台を見て、改めて思った。
宮沢りえは、凄い。
映画では、この脚本が用意したシチュエーションを越えて、彼女の透明感が圧倒的だった。

もしも、彼女がこの舞台に立ったら、どうだっただろう。
時に、特別の役者たちだけがなすあの場面、脚本を越えて新しい世界が生まれるあの瞬間。
「ロープ」にいた宮沢りえだったら、
もしかしたら、舞台でも彼女の透明感が作品を別の次元に持って行っていたかもしれない。

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July 31, 2008

かもめ 初日 

6月20日 金曜日 19:00 赤坂actホール

竜也の舞台を見に行ったのか、栗山さんの演出を見に行ったのか、半分半分。           

栗山民也さんて、すごいな・・・と、ひたすらそれを堪能した。

チェーホフが好きだというのは栗山さんの才能なのですね。
わたしには物語のないせりふがただ続いているだけの戯曲としか思えなかった。
栗山さんの頭の中には、ひとりひとりの人物が持つ見えない物語がくっきり見えているのですね。
演出家にはその才能が必要なのですね。

「人はみな、その人の物語を抱えて生きている。」
言葉では知っていても、現実には、
表面にわかりやすく「見えてる」ものを消費するだけでせいいっぱい。

これでもか、と見せに見せてくれるエンターテインメントばかりが流行るのは、
見えない物語を見る力が、「みんな」の中からもう無くなって、
ひとりひとりの心のなかでさえ、もう絶滅品種だから。

そんな時にチェーホフ? と、思っていた。

そんな時だからチェーホフ、 という栗山さんの答えでした。        

「みんな片思いしている」すれ違いのひとたち。
あらわれているものだけを見ればまとまりが無く退屈でしかない。
あれだけの人間が同じ場にいながら別々の物語の中にいて。

ポリーナ(藤田弓子:執事の妻、マーシャの母)はドールン(中嶋しゅう:医師)に愛を求め、
メドヴェジェンコ(たかお鷹:貧い教師)はマーシャ(小島聖:執事夫婦の一人娘)に思いを寄せ、
マーシャはトレープレフ(藤原竜也:屋敷の一人息子)を追い、
トレープレフはニーナ(美波:女優志望の若い娘)を求め、
ニーナは、トレープレフからあっという間にトリゴーリン(鹿賀たけし:作家)への恋に落ち、
トリゴーリンはアルカージナ(麻実れい:女優、トレープレフの母)とニーナにふたまたかけ、
アルカージナは息子を愛したことはなく、トリゴーリンを愛していると勘違いしているが、本当に愛しているのは自分だけ。

芸達者な役者たちが、哀しいすれ違いを、愚かな人たちとして見せてくれました。

鹿賀さん、科白が無く舞台の上にいる、存在感。
トリゴーリンがそうであるように。
女優アルカージナの愛人で、若いニーナもものにする。言葉は小説書きの仕事のタネであり女を口説くときの道具。それだけのためのもの。言葉も女も、彼にとっては食事と同じ。黙って立っているだけが一番得だと知っていてそこにいる男。

麻実れいさん、よく考えればとんでもない女を、麻実さんはすかーっと演じて誰も彼女に勝てない憎めないと、思わせちゃう。一度も母でなかった女。

美波さん、見たいものだけをまっすぐに見て、「あなたのお芝居はわからないわ」「わたし女優になるの」「トレゴーリンさんが好きなの」。無邪気な強さと残酷さををまっすぐに演じる。

脚本を読んだときにさっぱり面白くなかったはなしが、すとんとよくわかったのです。

ロシアの孤独。彼らはナロードニキと同じ。名家に生まれたインテリ青年たちが、農民のためと信じて富も家族も捨てた果てに、農民からも社会からも認められず受け入れられず、テロに走って消えていったあの人たちと同じ。
本人たちが苦しく切羽詰まっていればいるほど、向き合って物語を共有する言葉がひとつもないすれ違いの人々のすがたは、
はたから見れば、喜劇でしかない。
しかも、悲劇だと自己満足することも許さない潔癖を、きっとチェーホフはもっていた。だから、「4幕の喜劇」。

「作者本人が喜劇だというなら、チェーホフって、相当意地悪だよね」
なるほど。

だけど、チェーホフは難しい。
悲劇なら観客に訴えられるし、面白い喜劇なら観客を飲み込める、でも、面白くない喜劇ですよ。遠くから見るチェーホフは、喜劇としてとらえようとすればするほど、散漫になってゆく。それが大劇場の商業演劇として成立するのか。観客の満足感という意味で。

そして、竜也。

小説への自負も、恋人への思いも、母への思いも、召使いの娘の献身も、医師の励ましも、小説家としての成功さえ、ひとつも彼の人生を養う果実にはならず、彼をさいなむだけの棘でしかなく、人生にひとつの果実さえ作れずに行き着いた死を、演じようとしたのだと思うけれど。

それを、この舞台で、彼の演技で演じると、過剰になる。
たぶん、彼の物語を見せすぎているのだと思う。チェーホフも演出家もそれを望んでいないのに。

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June 22, 2008

志の輔 独演会

6月19日(木)18:30 読売ホール 
前座・志の輔さん「四谷怪談」・三味線芸・トリ志の輔さん「蜆売り」

マクラの言葉
-お芝居が大がかりな派手なものがどんどん増えていって、
 落語は逆になぁんにも無くて、みなさんの頭の中に長屋だの川だのが見えて、
 いろんな男や女や子どもが出てきて、
 聴いているお客さんがそれぞれに頭の中で見てくれている、 
 そのなぁんにも無いところが、良いのかもしれませんね-

この言葉にいちばん涙ぐみたい気分。

本を読む楽しさ → 落語を聴く楽しさ → シンプルな芸能、文楽や狂言や舞 → 様式化された芸能、歌舞伎

一人芝居、二人芝居、ストレートプレイ

玉三郎さんの言葉
 「お客さんはわたしたちの舞や芝居を通してその向こう側にあるものを見ている」

今晩のトリは蜆売りでした。
昨年パルコで聴いていました。1年半たっている。それでも、
はなしの最初に蜆売りの小僧が出てきただけで
最後の盗賊の次郎吉の「聞きたくなかった」まで頭の中で一瞬のうちに物語が再現されて、
涙がつぅ-と出てきた。
しゃばで見る最後の雪かもしれねぇな、と見上げる次郎吉、白く降る雪、夜の闇まで、
頭の中で見ている不思議。

笑って泣けて一幕の心温まる芝居まで見て、志の輔さんの落語はお得だ!!!

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May 25, 2008

文楽 心中宵庚申

2008年 5月20日。16:00開演。
国立劇場へ、住太夫さんを聞きに走る走る。

わたしを文楽にすとんと落としてくれた人間国宝(いよっ日本一!)

お人形ももちろん綺麗。でも、住太夫さんが語る娘や父親や婿養子たち。
ご本人もおっしゃっているように、美声ではない。むしろ悪声なのかもしれない。
しかし、浄瑠璃語る住太夫さんの中から、人の情そのものが聞こえてくる。見えてくる。

その声は、まるでオーケストラのよう。それぞれの想いが響き合って、劇場いっぱいに満ちてゆくよう。
オペラもこんななのかしら・・・・。
野澤錦糸さんのお三味線は、住太夫ワールドに流れるビタミンかミネラルか潤滑油か。
出過ぎず引きすぎず、住太夫さんの後になり先になって連れ添ってゆくのが心地よい。

2幕は八百屋の段。浄瑠璃は嶋太夫さん。住太夫さんより声が良くたっぷりと聞かせてくれる。お三味線も太夫にあわせてゴージャスな響き。
なにしろ、ここは脚本がすごい。近松門左衛門さん、よくこんなえげつない人間を描くなあ。意地悪姑の独壇場です。

3幕が、お千代と半兵衛、道行きの悲劇。
太夫、三味線が4人ずつずらりと並んで、豪華な音の競演。舞台にはお千代と半兵衛ふたりきり。あふれる心情と現実の身のさみしさかなしさの、対比が見事。
お千代がきれいできれいで。哀しいとなぜあんなに綺麗なのか。桐竹勘十郎さん、吉田蓑助さん、そこにいるのに、その姿は消えて、人形が生きる。
お千代が死んで、死んだとたんに人形になって、あ、人形遣いの蓑助さんがまだひかえているな、と初めて意識して。
文楽って、物語はドロドロの人間ドラマだったりするのに、言ってみればしょーもない人間の性を、浄瑠璃、三味線、人形遣いそのどれもが壮絶に凄い技で、一心に描くのね。よほど人間が好きでないと出来ないと思った。

そして、仁左衛門さんと玉三郎でも見たいと、わたしも思いました。
人が演じる吸引力もまた、捨てがたく。

人形浄瑠璃から歌舞伎へ、こんなふうに進んだのですね。


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May 06, 2008

スタジオライフ 夏の夜の夢

5月3日 マチネ スタジオライフ 夏の夜の夢

GWの思わぬ拾い物!happy01

トーマの心臓など萩尾望都さんの作品を男性だけで舞台化する劇団。
大好きな萩尾望都さん。しかし・・・躊躇していた。少女マンガの世界の「実写版」はちょっとこわい。
役者にもコアな観客にもついて行けないような気がする。

気が変わったのは、3月、本多劇場でカトケンと共演した山本芳樹くんが良い感じだったから。
山本くんを見ようかな。オケピに出ていたチケットをゲット。

シアターサンモールは少々妖しいゴシック風の建物。
場内は慣れたコクーンやパルコに比べるとそこそこ狭い。
この狭さでは、役者がおけジャニ学芸会だと、息ができないぞ。妙な緊張。

さて、始まった。

初めはね、今時の男の子の、なんだか似合ってるお化粧の顔に、素人臭い舞台かと思ったの。しかし、
どうしてどうして、
高校の文化祭のノリでいながら、シェークスピアをきっちりとしゃべっている!
全編、最後まで、ほぼどの役者も、きっちりと、シェークスピアをしゃべりきった。お見事!
去年の蜷川「お気に召すまま」よりも、はるかにシェークスピア劇の世界だった!

妖精の女王、妖精の王様。ちゃらけているようで貫禄十分。自分に酔っている重厚感が良い。
彼らは観客の前に繰り広げられるばかばかしい夢の世界を指揮する者。

公爵と新妻の堅さも、間違っていない。この作品の登場人物の中で唯一「観客側」の人物なのだから。
新妻は最後に夢の語りと農民の演じる劇を見て、自分のかたくなな心の中に隠された愛に気づく。その場面が観客の気持ちと一緒になって感動的なのです。

そのほかの登場人物たちはみんなあっちの世界の住人。妖精たちは無論のこと、行き違う二組の恋人たちは夏の夜の夢を見る張本人たちなのだし、劇中劇を演じる農民たちも演劇というあっちの世界に行っちゃってる人たち。二組の恋人たち、夢の中にいるときは頭にいかれた花つけて。

つまり、あっちの世界へ行っちゃっている者どもが、こちらの世界の観客に「真夏の夜の夢」を披露して、
私たちがあっちの世界のばかばかしさを笑う。
笑いながら、その笑いは実は、自分たちの姿が写っている笑い、
それがこの作品の真髄なのです。
とってもよく分かった。本当によく分かった。
脚本・演出の力がシェークスピアのど真ん中を貫いたのですね。快感でした。

去年の「十二夜」でも思ったけれど、シェークスピアは男性だけの役者の世界で演じてこそ。
彼の女性への毒は、女性が演じると、見ていて痛くなる。
男性が演じれば「異形」の真実になる。
浄瑠璃は人形が演じてこそ生臭さが無く、歌舞伎は男性が演じてこそうそっぽさがない。美しさが切っ先のように表出する。シェークスピアもまた、男性が演じてこそ、人間の真実がそのまま見える。

そんなわけで、スタジオライフでシェークスピア、次作も期待します。

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April 29, 2008

志の輔独演会

諦めていた志の輔さん、ヤフーオークションに出て急遽ゲット。
銀座ブロッサム2階席。2列目なのでそれほど遠くはない。ここは去年の大銀座落語祭で志の輔さんの柳田角之進で大泣きしたところ。

志の輔さんの独演会で初めて前座がついた。ひたすら走ること走ること。はじめはみんな、こんなものなのだろう。頭のなか、真っ白なんだろうなぁ。途中から少しは噺が落ち着いた。

長野聖火リレーを生で1秒目に焼き付けたはなし。志の輔さんのタイムリーな体験が、そのまんま枕になっちゃう。
「バールのようなもの」古典の長屋話の風情のままに新作、でも、ちょっと昔の昭和くらいの匂いがして。まあ、今時はご隠居も大工も女房も妾も、いなくなっていて、江戸も昭和も同じくらい昔話なのかもしれない。

古典は帯久。珍しく、凄く嫌な奴が出てきて、あまりにも嫌な奴で、どうやってこいつがとっちめられるのだろうと言う方に想いが行ってしまう噺だった。最後は大岡捌きでめでたしめでたし。

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April 25, 2008

勧進帳

もう1度、前楽の勧進帳を見てきました。

お金の話で恐縮ですが、2500円の3階B席をヤフーで4200円で落とし、3幕の演目の内の2幕めひとつだけを見て、もったいないチケットの使い方のようですが、

満足!!! めちゃくちゃ、満足! 

B席とは言っても、東2列目10番代後半、花道が全部見えて舞台で見切るのは上手3分の1だけ。この席大好きなのです。もちろん弁慶は全部見えます。(富樫は見えない。ごめんなさい)

仁左衛門さんの弁慶があまりにも格好良くて、
泣きました。
玉義経を守って、守りきって、関を過ぎ、緊張が解けた瞬間から、玉(義経)がねぎらう前でひれ伏すまで、
弁慶の心情を思って、涙がぼろぼろ出ました。
3階からオペラグラス忘れて焦点合わない目で追ってるのに、
弁慶の激情をこらえる心情が、オーラとなって3階席にまで射すように来るのです。

男って格好良い。こんな男に守られたら死んでも良い。だから、義経は絶対に女です。だって玉だものね。
玉三郎と仁左衛門さんが並んで立つ。美しすぎて震えました。

勘三郎さんの富樫も良かったです。弁慶と富樫の見合いも盛り上がりました。
しかし、玉の声に応える仁左衛門弁慶があまりにも綺麗で、
窮地を脱して、振る舞われた酒を飲み、ただの飲んべえになってさえ、仁左衛門弁慶はおしゃれで綺麗で格好よくて。

最後に幕がおり、花道を行く前に、客席に礼する弁慶。
男って、本当に、格好良い。
こんな格好良い男が、昔はいたんだ。
こんなに男が格好良いなら、女でいてもいいな、と。

この勧進帳を見たら、もうほかの勧進帳は見たくない。だって、弁慶が守るのは絶対に女だもの。

あの男に応える明日の玉の熊野が楽しみです。

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April 04, 2008

仁左衛門&玉三郎! 四月大歌舞伎

4月2日夜の部、4月3日昼の部 逆転の夜昼興業に行ってきました。
今月は中村屋さんの歌舞伎座。勘三郎さんが昼は「刺青奇偶(ちょうはん)」で泣かせ、夜は「浮かれ心中」で笑わせます。夜の1幕目「将軍江戸を去る」の三五郎さんの慶喜、橋之助さんの山岡鉄舟も心をうちました・・・・・・が、

今月の真打ちは、どちらも、2幕め。昼の舞踏「熊野(ゆや)」、夜の「勧進帳」です。
劇場内がしんと水をうって観客の気配が消え、光の中に別の世界が現れる、舞台の神さまが光臨する瞬間。
今年3つめの「もう一度見たい」はあまりにも美しい舞台でした。

「勧進帳」
義経に玉三郎、弁慶に仁左衛門。歌舞伎といえばこの演目、を初めてみるのがこの配役、の幸せ。
玉三郎の立役を見て幸せ、義経を守る仁左衛門弁慶の美しさかっこよさを見て幸せ。

吉右衛門さんの弁慶なら主君に仕える男の心のさまを描くのだろうし、幸四郎さんならば心の中で男泣きをしつつ男ぶりする闊達な弁慶を、音羽屋さんのお二人は強い男を様式で大きく描くのでしょう。

しかし、

仁左衛門さんの弁慶は、男の業や強さよりも抜群の色気。
玉三郎の義経を守る心映えが見栄のひとつひとつに見えて、文句なしに美しい。
・・・そうか、あれは姫を守る男の美しさと同じなのかぁ。
花道に立つ義経の前、かしこまり跪いて主命を待つ、そこからすでに仁左衛門弁慶は美しく、
こんな弁慶に守られてみたい、・・・妄想さえ始まってしまう、
弁慶が美しくある必要はないと男たちが思うにしても、
義経を守る弁慶は美しくあらねばならぬと、女たちは望むのです。
その願いに、仁左衛門さんだけは応えられるのです。

「熊野(ゆや)」
花道を進む玉三郎の後ろ姿。錦の衣に一筋の黒髪。後ろ姿だけで、すでに桜が香り立ち。
玉三郎の踊りは素敵、仁左衛門の踊りは抜群にかっこいい。
そのどちらも知っていました。でも、、今回お二人がともに踊る姿を初めてみて、
捉えられて目を話すことができませんでした。
仁左衛門さんの前で踊る玉三郎は、別物です。
病の知らせを聞いて母を思う熊野ではあっても、熊野は宗盛を慕い、宗盛は熊野を愛する。
これは想い合う二人の男と女の舞です。
暇乞いをする熊野、暇乞いを許さぬ宗盛、許さぬと告げる宗盛の言葉に反応する熊野の一瞬の視線。
病の母を思い、しかし母を思う自分を手放せぬ男を想い、舞う。
オペラグラスで追う玉三郎の、動けば動くほど美しく、

美しく伸びる腕の先、扇が、まるで特殊な撮影で効果を出しているかのように、さざめき揺れ舞うのです。

今日はもう、これ1本でおしまいで良い、と思う深い満足。

ところが、3幕目中村勘三郎と玉三郎の「刺青奇偶」
その玉三郎が、また絶妙。
はすっぱな酌婦から一途に夫を思う病身の妻に、幅と深さを思う存分演じて、とにかく上手くて、
独特の声。甘えるような投げやりなような、それでいて、凛と強く、あの声が頭から離れなくなってしまうのです。
しかも、死期が迫る妻の蒼白の面差しの綺麗なこと綺麗なこと。私を含めて、客席はみんな泣きました!!

姿が美しく、表現が奥深く、演じて巧みで、声が忘れられない。
しかもそれが、二人。
互いに見つめ合って少しも臆せず、ただ無心に惹かれ合い、
こんな二人は本当に百年、二百年に一度しか、現れないのではないでしょうか。

それを、見る幸せ。


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March 31, 2008

思い出のすき間に

2008年3月24日 本多劇場 13:00

マイケル・ヒーリー作 鵜山仁演出 加藤健一・新井康弘・山本芳樹

「カナダの田舎の小さな農場で起こる、ふたりの農夫と都会から来た演劇青年の、ある夏の出来事・・・」

幼なじみのモーガンのこと以外は起きたことのすべてを忘れてしまうアンガス。モーガンはアンガスを助けながら、農場で働く。農場の生活を体験しに来た若者マイルズは、アンガスに語るモーガンの思い出の物語を舞台の一場面として使う。その芝居を見たアンガスは、失ってしまった過去の記憶をかすかに取り戻し始める。モーガンがアンガスに語ってきた過去の出来事には「うそ」があるらしい・・・。

記憶を失いモーガンに頼り切って暮らすアンガス。
加藤健一のアンガスには、記憶を失う前のアンガスのすぐれた知性がにじむ。それゆえにアンガスが失ってしまった人生へ悲しみが深く大きい。
対する新井康弘のモーガンには、土や木の匂いのする大きな手が壊れそうな小さい命を掬って守るような、無骨で粗野だが農民らしい骨太さと繊細さがある。

その二人のアンサンブルが芝居の通奏低音となる。心地よい集中感。

山本芳樹のマイルズは決して騒がしくなくひ弱さよりも青年らしい純真さがあって好もしい。むしろ悪びれない無邪気な若者だ。しかし、その無邪気な好奇心が、調和していた二人の生活にさざ波をたてる。

ずっと続く友情と失ってしまった少女たちとの愛情、語られてきた物語の中の語られない出来事。
物語は速度を上げて緊張感を増してゆく。

心地よい集中と緊張と、人の優しさを信じていても良いと思える安心感に満ちた芝居でした。


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March 22, 2008

身毒丸 2

竜也を見て、はじめて、向こう側の世界に行けなかった。
戯曲が語る甘美、苦痛、切なさをわかりつつも、90分がつらい夜になった。
次の日の朝は言葉が出てこなかった。

今までずっと竜也の舞台を見たあとは、いつも言葉があふれていた。
見たままを言葉にする恍惚、それが、竜也を見た次の朝の幸せだったのだけれど。

竜也に出会ってから長い間、舞台の神を追ってきた。
舞台の神が降りる瞬間に立ち会いたくて、それだけを追ってきたような気がする。

けれど、舞台にはもう一人神がいたのかもしれない。
「時」の神さまが。

3歳の野村裕基くんが靫猿に棲む神への供物になったように、
身毒丸はかつて天才少年が時の神に捧げられて出来上がった物語だったのだと思う。

藤原竜也はもう少年ではない。
彼は蜷川さんがつくったあの物語で少年として供物になるには成人しすぎてしまった。
今の彼が、かつて身につけた演技で少年を演じるとしたら、それは、25歳の時を司る神に応えることにはならない。

彼が、もし彼に身に付いたかつての身毒丸をすべて脱ぎ捨てて、まったく別の、今の彼にしかできない身毒を演じたなら・・・・。

そう願いながら90分の舞台を見て、
それは蜷川さんと藤原竜也の関係からも、彼の10年間からも、蜷川さんの演出家としてのやり方からも、あり得ないことだと、思い知らされて、

つらかった。

人の想像力によって立つ舞台こそ美しいと思う。

男が女を演じる歌舞伎の世界、
何もない舞台に月明かりや鐘の音を響かせ、あたりを一面の波間に変える狂言、
たった一人の話者によって何人もの人と人動き笑い泣く落語。

白石さんを見て。時に老婆を演じる役者が、まだ少女でさえある20代の女をそこに立たせてしまう。
観客は想像力を駆使できる喜びを味わっている。
白石さんに出来ることを、藤原竜也に求めたかった。

蜷川さんが10年前に藤原竜也にたたき込んだ演技は、天才少年にはもっともふさわしいスイッチになっただろう。
蜷川さんは、観客を驚かせる大きな舞台装置を繰り出し、そこに役者をはめ込む強腕な演出家だから。

でも、ストップモーション多用な動きや感情をたたきつける発声は、少年を演ずる演技ではなく、少年が演ずるための演技だったのだと思う。

もうそこから、抜け出して、
抜け出すために、今身毒丸をやるのだと、そう思いたいのだけれど。


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万作の会

3月19日 19:00 朝日ホール
「万作の会」狂言の夕べ。
昨年に引き続いて、朝日ホールの万作の会。

万作さんは靫猿(うつぼざる)。これは子猿を野村家の子どもが代々演じるそうで、小猿を演じる裕基くんは3歳から今年で5年小猿をえんじているそうです。
生の舞台で萬斎さんの猿引きを見ている気がするのですが思い出せない。今回は万作さんの猿引き。


さて、はじめて、万作さんの狂言に引き込まれなかった。
あいかわらず、上手いと思いつつ、本当に上手いと思いつつ、
神が降りてこない。
そのひとつの理由が小猿とのバランスのように思えてならなかった。
裕基くんが駄目だったのではなく、猿の演技は十分に上手だったのだけれど・・・・帰るときに、後ろの人の声で「8歳はもうぎりぎりね」と、それを耳にして、ああ、そうか、と思った。
3歳の子形が演じる猿は人ではないだろう。異形のものだ。5歳でも大丈夫だろう。
だけど、8歳はもう人になっている。
加えて、体のバランスで言えば、手足が長すぎて、動きがどうしても視界に入って邪魔になる。
何よりも、存在が人なのだ。それは、演じ手の責任ではなく、この作品の小猿の存在はどうしても異形でなくてはならず、それは人になっていない幼い者にしか出来ない。
猿を人のように愛しく思い、人のようにやるせない理屈を言い含め、猿もまた人のようにそれを受ける。
人になる前の幼い子どもが演じてこそ、
時の神が降りて、
見る者は猿と人との間のあるはずのない心のつながりを目前に見て、猿皮をほしがった大名とともに胸をうたれる。
猿を演じるのが人ではならない。人が演じては、当たり前のありきたりの情愛物語でしかない。

2作目の花折りは最初に解説をした石田幸雄さんによれば、「ぼぉっと見ていると何も面白くない舞中心の曲」。
ところが、1作目よりむしろ狂言らしく明るく笑えて、観客席の反応も良かった。

今晩は、萬斎さんが、良かったです。新発智の軽さが楽しく、客たちとの唄の和声と舞が満ちて心地よく、楽しみました。
万作さんは硬質な息をのむような美しさを見せてくれますが、
萬斎さんはまったく違うかろみや洒脱さで、それは中村勘三郎さんにも感じたものです。
どちらからも時代の持つ空気が放たれている-そうだとしたら、そこに、時の神さまの力が降りているのでしょうか。


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キャラメルボックス  君がいた時間僕の行く時間

上川隆也、3年ぶりキャラメルボックス作品。

2008年3月12日 水曜日 14:00 サンシャイン劇場

平日のマチネ、サンシャイン劇場が満員。通路に仮説の座席が並ぶ。
さすが、上川くんだわ。

物語は、キャラメル定番のタイムトラベルもの。はなしの筋をあまりつめて考えてはいけません。
タイムトラベルものは、設定はいろいろと苦しい。時間をとんで愛を確かめる物語と割り切って見る。

キャラメルボックスは高校演劇を越えつつ離れすぎず、素人臭さが絶妙な懐かしさになる、仲間内感いっぱいの公演。
その中で、キャラメルボックス出身の上川くんが「なつかしい母校」に帰ってきても、変に悪慣れせずに演じていたのがとても良かった。
キャラメルの役者さんたちと並ぶと、抜きんでて綺麗でかっこいい。さすが。
舞台にスケール感を出させられる役者さんなのですね。

秋に蜷川さんとやるそうですが、見に行ってしまうのだろうなぁ。
蜷川舞台装置の道具とならず、スケール感を保てるような気がする。

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さらばわが愛 覇王別姫

2008 3月14日 金曜 ソワレ コクーン

脚本 岸田理生  演出 蜷川幸雄  音楽 宮川彬良

東山紀之  遠藤憲一  木村佳乃

冒頭、舞台奥から子どもと女(母親)がスローモーションの動きで前へ一直線に進む。印象的な演出で始まる。
上半身裸の男性ダンサーたちの太極拳風の群舞。これも美しい。
一昨年秋の「タンゴ」を思い出させる、観客を掴む演出。

(タンゴを思い出させるなぁと感じていたら、最後にも同じシーンを持ってきて、本当にタンゴの演出効果とうり二つだった。さらに、芝居の最後近くに、大きく羽を広げたなつかしいクジャクで追い打ちをされて、のけぞってしまった。)

で、中身はミュージカルのような劇だった。音楽劇というやつかしら。運悪く3列目右サイド、右スピーカーの真ん前で、アンプを通した巨大な音に生の声がかき消され、東くんも木村さんも、口ぱくの歌しか聞こえず。あ~ぁ。

歌を聴かせるなら、生の演奏で生の声を聞きたいし、歌は演出上の効果と割り切るなら、歌の合間に科白を言っている作劇は緊張感をそぐ。で、どっちだったのだろう。
昨年のチョスンウのラマンチャの圧倒的な声。あれが焼き付いているだけに、音楽劇が半端だとつらい。

東くんはきれいだった。顔立ちもスタイルも綺麗な造形なのですね。ただ、男性として綺麗というのと、女形として綺麗というのは、違う。玉三郎は、素顔は美男子というのとは違うけど、女形としては凄みさえある。

むしろ、東くんの綺麗さはきっりとして筋の通った姿だから、立ち役の似合う役者だと思う。
今回の作品で言えば、相手方覇王を演じる役の方が、似合っていたんじゃないかなぁ。

拾いもの(!)が中村友也くん。東君の女形蝶衣の弟子。かわいさと若さの残酷が引き立っていた。
よく透る声も、女形としての柔らかさも、戦後人民中国でかつての師匠である蝶衣を糾弾する表情も。

映画を見ていないけれど、どうせ、映画とは全然違う作品になるなら、
舞台ならではの濃密さで表現できるものにしぼって、
むしろ中村友也くんを蝶衣で、東くんを覇王役で、歴史劇を描かず、愛の物語にしてしまったほうがよかったのに。

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March 09, 2008

身毒丸 復活  

2008年 3月8日 土曜日 ソワレ さいたま彩の国芸術劇場

何日も前から心の中でカウントダウンして、毎夜のように夢に見て、

朝から相応の覚悟も出来て

さいたま彩の国まで、竜也くんを見に行ってきた。

無言で帰路につく夢を、数日前に見ていた。 夢がほんとうによくあたる。

藤原竜也を語る言葉がない朝。

さみしいけれど、このさみしさを、天才が奇跡を起こすその場に立ち会う新しい日まで

抱いていようと思う。

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March 08, 2008

春琴 

2008 3月2日 世田谷パブリックシアター 14:00 マチネ

谷崎潤一郎「春琴抄」「陰陽礼賛」から
 演出  サイモン・マクバーニー
 春琴  深津絵里 宮本裕子
 佐助  チョウソンハ 高田恵篤 ヨシ笈田
 朗読  立石涼子 
 三味線 本条秀太郎

 

ラストシーンの闇の中で 「やられた」という思いが 突き刺さって ぐるぐるゆれていた

これが演出だったのなら
今まで見てきたものは
何だったのだろう     ただの飾りや段取りや抑揚にすぎないではないか

浅草歌舞伎亀治郎のお徳に続く 今年ふたつめの「もう一度見たい」
「見たい」というよりも 「見なければ」 
目の前に起きていたことを ただ凝視して 終わってしまった
もう一度何が起きているのかを細心の注意を払って見なければ 
 あそこで起きていたことを細部にわたって思い起こす作業ができない

主要な役者が横一列に並んで中央の佐助役の俳優が語り始めると

すとんと 闇が落ちて 一筋の光が 佐助だけを 貫く

 かっこいい・・・・
一瞬につくられた絵に 息をのみ
この舞台が どんな色で どんな闇で 語られるのか 
最初のたったひとつの作為で俯瞰できるかっこよさ

黒衣たちがもつ幾本かの細い棒が松の葉並となり襖枠となり部屋となり
人の操る人形が人の中で生きた春琴となり
光ではなく闇を操る演出

深津絵里がすばらしかった
幼い春琴は文楽のような人形で 
人形を遣う深津絵里が 春琴の声となり
春琴が長じると 
人(宮本裕子)が人形となって 深津絵里が その人形を遣いながら 春琴のこえとなり

その声だけで 春琴が 生きている 文楽の浄瑠璃のように

そして 佐助と夫婦になってからは 深津絵里がそのまま春琴となった

幼い春琴のカンの強い高い声から
顔を傷つけられた春琴の奥底から深い何かがにじみあがるような声まで

彼女がいなければ この演出は アートな演劇だけで終わっていたかもしれない
人が棲む空間にはならなかったかもしれない

谷崎潤一郎の心の中にだけ棲んでいた佐助と春琴を
サイモンマクバーニーと彼の掌の中で動いた俳優たちと深津絵里が
深い闇の中からすくい取って見せてくれたような

みおわって時間がたつほどにもう一度かくにんしたくなる舞台だった 

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March 04, 2008

小朝独演会

2月25日月曜 ソワレ 五反田ゆうぽうと

小朝さんの独演会ということでしたが、前座に女の子、二つ目に襲名したばかりの喜久蔵、小朝さんは新作(越路吹雪物語)と古典(仮名手本七段目)の二本。

終演後、駅に向かう観客たちは満足そうに「天才」「一流のエンターテイメント」などと語り合っていた。小朝は上手い。忠臣蔵の科白も良かった。だから、観客のさざなみのような満足の中で、私も心地よく帰途についた。

ただ、違和感もあった。
小朝の芸が少し荒んでいると感じたし、志の輔さんの独演会はたっぷり彼だけで3本はやる、その違いを感じていた。

観客層を見た上で、おばさんや年寄りを笑う枕だったのだとは思うけれど、
小朝には似合わない。おしゃれでプライドの高い彼には、見下す感じが出てしまう。
それが、板の上の彼の噺に荒みを生んでいたように思う。

離婚が彼のプライドを傷つけたのだとしたら、一度弱い者の状況に身を置いても良いんじゃないか。
才能のある噺家だけれど、今のままでは、自分で限界をつくっているのではないだろうか・・・
そんなことを感じて。

生の自分をさらす舞台って、残酷だ。だけど、だからこそ、そこに、他ではけして味わうことの出来ない、永遠の一瞬も生まれる。

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二人の約束

2008年 2月17日  parco劇場 日曜日 マチネ

中井貴一、段田安則、りょう
脚本演出 福島三郎

交通事故(笑)(笑いで済んでよかったわ)のあとで、まだ少々ふらつき気味の中。

昨年の「コンフィダント」スーラで光っていた中井貴一さん。映像の人かと思っていたけれど舞台で硬質に光る姿に驚いた。
「薮原」で渋い美しい演技を見せてくれた段田安則さん。この人の芸達者は気持ちがよい。
一昨年の「噂の男」の脚本の福島三郎さん。『本来心温まる福島脚本を演出家(ケラ)がここまで改作してよいのか』という劇評を読んで以来、福島さん本来の作品を見たかった。

この3人の芝居です。

それで、パルコ劇場にはずれなし、の記録を更新しました。(気に入りそうな公演を選んでいるということもあるけれど)
30年前の初恋の少女への思いをずーっと抱き続けている男なんて、現実にはありえない。昔はともかく今の時代にあり得ない。その「あり得ない」ことを忘れさせてくれる、いえ、そういう気持ちって、誰にでもある、と思い出させてくれる、そんな芝居でした。これが福島三郎さんの本来の作風なのですね。

中井貴一さんの小太郎はテンションの高さが少し苦しいところもあったけれど、自分の中の小さな宝物を頑張って握り続ける姿が、いとおしく見えていました。下手にやったら今時のオタクのお話になる可能性もあったかな。でも、中井貴一さんは、ずるかったり、小心だったり、まぬけだったりする人間を、暖かく演じて切なさを出す。それは彼の持つ天性の品の良さのたまものだと思います。

段田さんはとにかく上手い。記憶喪失の男を、怪しいんだか本気で困っているふつうの人なんだか、そのどちらにも見える絶妙な雰囲気。

紅一点のマドンナ役にりょうさん。きっぱりした感じが好ましかった。まだ演技が硬いけれど、今回の役にはそれがうまくはまったかもしれない。

ひとつだけ難を言えば、スクリーンが下がってきて小太郎や記憶喪失の男のシーンを映像で補う演出は不要です。観客の想像力を信じて欲しいです。目の前で生きている人間たちへの気持ちや自分の頭の中に生まれた情景が、映像で邪魔されしまって、私は好きではないです。(映像を使うのがなんだかはやっているようですが、それで補わなければならない人たちは、もともとお金を払って劇場には来ていないと思うのです)

ハートウォーミングな、大人のおとぎ話、舞台って良いなぁと思って帰路につきました。
 

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March 03, 2008

人間合格

2月16日土曜日 紀伊国屋サザンシアター マチネ おけぴでチケット入手。
ほぼ満席。
客層は、全共闘世代中心かな。

今の若者は、太宰をよむのかしら。そういえばデスノートの漫画家の表紙で急に売れたって、そんなニュースがあったっけ。

井上さんのメッセージが、ロマンスよりもピュアに伝わってきて、心地よい安心感と、居心地の悪い違和感が、半分ずつ。
戦時中にあった反権力、世直しの心意気と、
一般庶民のおおらかで無邪気で無自覚な保守性と、
太宰を軸に、前者を友人佐藤(山西惇)が、後者を太宰の生家に仕える中北(辻萬長)が上手に対比させていた。
芸達者な役者が笑いをさそいながら泣かせる。

岡本健一くんも、軟弱だけど懸命な田舎のぼん太宰を好演していた。

馬淵英里可さんと田根楽子さんが、場面ごとにさまざまな女性を演じ分けて気持ちよく上手だった。

楽しい芝居だったけれど、
半分居心地が悪かったのは、
この演劇が今の日本の社会のどこを住処にするのか、なんだか、絶滅品種を目の前にするような、そんな痛さだったのかな。

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February 15, 2008

文楽 2月公演 冥土の飛脚

国立劇場。文楽 近松の封印切り。

この浄瑠璃から、歌舞伎へ、歌舞伎から、太地ヒラミキのふたりを蜷川幸雄が演出した「近松心中物語」へ。

ヒラミキの舞台から逆に見てしまったわけですが、それはそれで、興味深かった。
文楽の忠平は若さゆえの間違いから太夫に入れあげ店の金に手を出した、とんでもない阿呆。しかも、封印を切ってしまうのも、梅川のためというよりも、自分の見栄はりのため。やれやれ。文楽が江戸時代、今のワイドショーの代わりになっていたんだなあと、妙なところで納得しました。

お話はそんなものだったのですが、人形が素晴らしかった。3回目の文楽で、一番人形を堪能しました。
梅川に会いに行こうか止めとこか、お堀の脇の柳端の道で逡巡する忠平の可愛い動き。
梅川を引きずるように手を引いてゆく忠平。
圧巻はかむろのお三味線。実際のお三味線の横で、かむろの人形がひく三味線芸の見事さ。拍手が湧き、まるでシルクドソレイユの芸を思わせるものでした。

残念至極だったのは、3幕の内のかんじんの2幕封印切りの段の浄瑠璃が住太夫さんでなかったこと。
初日だったせいもあるのかもしれませんが、綱太夫さんの浄瑠璃は、お歳を感じさせてしまうものでした。
張りのない声が後ろの席まで届かずに聞き取りにくく、声が良くないと語りの内容もわからなくなります。
人形が良かっただけに、悔しく思いました。

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リア王

蜷川幸雄・平幹二郎 満を持してのリア王 2008年 1月 25日 

さいたま彩の国芸術劇場は遠い。遠くて遠くて。こんなに遠かったかな。
2年半前に竜也の弱法師で来たときは少しも遠いと感じなかったのだけど。

4時間近い蜷川さんとヒラミキのリア王は、重さだけが残りました。心情の重苦しさではない。人生の不条理や深刻な悲しみではない。動きの重さ、重い毛皮の衣装も、怒りの怒鳴り声も、コーデリアの稚拙さも、重かったです。

ヒラミキの声が何となくオレステスの竜也の声と重なって聞こえました。蜷川さんの指示なのでしょうか。それとも、長い過酷な芝居の2回公演のソワレだったから?ヒラミキの七色の声を堪能したかったのですが。
ずっと重い声だけが続くと舞台が退屈になります。
毛皮を着た役者達は体の線や体の動きを見せられないので、更に舞台が単調に感じました。

パルコで見た「ドレッサー」のヒラミキは、意地悪で抜け目なく高慢な老優だったけれど、リアを演じるときに放つ輝きが美しかった。だから、その誇り高さに共感できました。
でも、今回のリアの怒りは単調で、狂気になってからのリアも、苦しさだけがつのってゆきました。
老いを表現する演出、演技とのことで、
観る者には少々長く辛かったです。

コーデリアは、清純さより若さゆえの想像力の欠如や自分の価値観への自信を、リア王の老いと対比して描いたようですが、乱暴なせりふ回しや堅い動作は、舞台の回転をさらに悪くしていたとおもいます。

高橋洋くんのエドガーが救いでした。
乞食の身なりでリアに会いかわいそうなトムを演じるエドガーは、観客に「どちらの人間が人としてあわれなのか」をしっかりと見せつけてくれました。
盲目になった父グロスターの手を引くエドガーは怒りや絶望に負けない意志の力にあふれていて、真に人間に必要なものが何なのかを訴えていた。重い舞台の中で、ひとり精彩を放っていました。

「自信満々な人間にとっての老い」がテーマだったのでしょうか。
観る者にカタルシスを与えてくれる種類の舞台ではなく、観る者の前にテーマをどんと置いて圧するような舞台でした。

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January 29, 2008

志の輔パルコ寄席

2008年 1月 19日 日曜日 14:00

1年に1度のパルコ寄席。本日のお題は 異議なし! 富くじ 歓喜の歌 の3本。

志の輔さんの落語になぜこうも惹かれるのか、朝日新聞の記事にあった一つの言葉でわかった。
「反骨精神」 ああそういえばそういう言葉があったっけ。きっと私の中では、ずいぶん前に死語になっていたのだ。落語にはそれがあった。権威や権力や金の力に押しつぶされる市井の人間が持っていた、普通のまっとうな感覚。それが前面に出るのではなく、通奏低音のように流れている物語たち。去年の鶴瓶のらくだがものたちなかった理由はこれだった。

志の輔さんの落語を好きなのがそういう理由なら、今回の 異議なし や 富くじ がちょっと物語として物足りなかったのも無理はない。中村仲蔵や柳田格之進がすてきだったのもわかる。

歓喜の歌は昨年のリベンジで全編聴けてよかった。

世間で馬鹿にされている「おばさん」たちの「当たり前の真剣」に光を当ててくれてありがとうございました。
普通のおばさんの当たり前の一生懸命、それも、すでに死滅しつつある・・・と思いつつ聴いたので、少々痛かった。人は他人の真剣を知らないだけで、馬鹿にして見下してかかる。でも、知ったときに、それに心打たれて変われるとしたら、現代のメルヘンではあります。あきらめることなく、それを噺にする姿勢こそ、志の輔さんの反骨だと、思いました。私も、諦めるのはよそう、と、諦めることをやめようと、今年はそう心に決めて会場を出ました。

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January 22, 2008

新春浅草歌舞伎

2007年 1月 19日 浅草公会堂 第1部 11時。 
花道左脇 前から5列目。

今年は浅草歌舞伎をスルーしていたのだけれど、朝日新聞の劇評にあった「近年の名作」の一言と、
吃音の絵師に勘太郎、夫を支える気丈な男勝りの妻に亀、を知って、
この配役、これは行くっきゃないでしょう。

そこからが大変。チケットがない。とれない。(みなさんよく知っているのね・・・苦笑)
でも、舞台の神さまに見捨てられてなかった。
オケピに出たての「譲ります」を運良くキャッチ、前日の18日にチケットをゲット。ラッキーでした。

演目は傾城反魂香の「吃又」。
言葉に障害がある貧しい絵師又平は、絵を認められて名字帯刀を許される日の来ることを、心の頼りに生きている。
吉右衛門さんはこの役を、芸術家の苦悩と恍惚を添えて演じたのだという。
けれども、勘太郎の又平は、むしろ、ふつうの人を描く。
非凡な才能が煌めくわけではない。普通の人間が実直に努力して、それが実を結ばない哀しさ、自分へのふがいない思い、その上、生まれついた障害の不運、
夢を抱く痛さ、どうしようもない運命に苦しまなくてはならない理不尽、

しかし、どんな人間にも輝く天才がある。それが表出し、認められる日が、ある。・・・と信じたい・・・。
そんな物語をみせてくれました。

弟弟子は師匠に認められて名字帯刀を許され、その上、城への大切な役目を命じられる。
その弟弟子にすがって、自分に行かせてくれと頼む又平。
そんな未練を、師匠に「吃音のお前に出来るわけもない」としかられ、又平は、「ならば殺してくれ」と叫ぶ。
舞台の中央で勘太郎が見せた又平の切情。自分を切り裂くようなさけびだった。
何の取り柄もなく生まれた自分というものを、切り離してしまいたい又平の叫び。
これは、勘太郎にしかできない又平だったと思う。

この勘太郎の又平を寄り添い支えるのが、女房お徳。亀治郎さん、絶品でした。
夫の絶望を目の前にした後半が素晴らしかった。
お徳が、何とか夫を引き立ててとすがった師匠に振り払われて、座敷から縁側へよろけ、縁側の淵につまずいてへたり込む。お徳の視線の先に庭先にほうけた夫。お得は体をねじった姿勢のままに、夫をじっと見る。
一言も発せず、ただじっと見る。
長い長い沈黙。
その目が見ているのは、自分たち夫婦が世間から与えられたひとつも報われることのない運命だったろう。
怒りでもあきらめでもない、ただ、自分と夫の運命を見る、抜けるような目。
亀!!!!綺麗だった! あの、お徳のじっとたたずむ絶望が、目に焼き付いてはなれない。

死を覚悟しての場面。「絵を描いてくださんせ」と、夫にせがみ励ます声の優しさったら。
体の動き、声の絞り方、玉三郎を見ているかと思った。

一転して手水鉢の絵が抜ける奇跡で大団円になるのだけれど、認められて喜ぶ又吉の無邪気さや人の良さも、勘太郎ならでは。最後に亀の鼓で舞ったのは、端正で張りのある良い舞いでした。

人情話をやらせたら、今、若手でこの二人にかなう組み合わせはないと思う。
おふたりとも、気持ちの良いほど芝居をよく知り、極めようとしている。それが、伝わってくる。しかも、この話は若いふたりで演じることで、地味な話が重くなりすぎない。ふたりが若いことで、苦しい話に救いが生まれていた。

今日はお目当てはこれだけだったので、大満足だったのだけれど、このあとにうれしいおまけがついてきました。

弁天娘女男白波。
七の介が弁天小僧。女形の姿が素性を知られて居直り、有名な「しらざぁ言って聞かせやしょう」
そこまで少々眠気に襲われていたのが、突然目が覚めた。七の介くん、あなたはうんとお茶目なかっこつけの男の子なのね。女形の機微よりも、やんちゃな男の子でいたいのね。役を越えて一気に自分をさらけ出したすがすがしい啖呵だったよ。

最後に、五人の盗賊が花道に順に並んでゆく。獅童、七の介、亀、勘太郎、愛之助。
今を時めく若手歌舞伎役者たち。五人の男が傘を背にしょって並び立つ。花道の左の席だったので、五人が正面向いて私の真ん前、壮観だった。3階席では絶対味わえないスゴイ迫力だった。う~ん、これがお正月興業の幸せか!?若さの豪華を堪能。
ごちそうさまでした。

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January 09, 2008

寿初春歌舞伎 歌舞伎座

2008年 1月6日。団十郎さんの助六。歌舞伎はこれだったのか、という夜になりました。

様式を丁寧に重ねてあでやかに仕上げる。荒事という歌舞伎の美の伝統を見ました。

団十郎さんは、大きな病気のあとというのが嘘のように、瑞々しかった。
病気のこととお歳を考えれば、驚くほど綺麗でした。助六の花道の出の完成された流麗な動き。丸い傘を大きく開けた止め。紫と黒と赤と白の色のコントラスト。その男っぷり。
去年、志の輔さんで聴いた中村仲蔵の斧定九郎はこの姿だっただろうと納得。
これぞ、世界に向かって発信する歌舞伎の定型でしょう。


ただ、
絢爛たる豪華な役者絵が動く様は、お正月らしくて華やかあでやかだったけれど、正直に言えば、目が釘付けになることはなかった。
繊細な芝居や息をのむ緊迫感はなくて、私がのめり込む舞台とは少し違うジャンルだった。

「助六」は、男が、ものにした女に自分の男ぶりを見せびらかす、強烈なプロモーションビデオまたは写真集と同じなのだと思う。ひたすらセクシーに、「男」を見せつける。眼目は、黒羽二重の下に重ねた赤い着物のおはしょりから伸びる白い脚。花道の出も、脚煙管も、股くぐりも、見せつけたいのは彼の輝く脚。その強烈な純正なフェロモン。

仁左衛門さんの助六は二の足がぞくっとするほど綺麗だった、と、そう聞けば、この歌舞伎が何のために生まれたのかわかる。
男が女に見せびらかす。女が持ちえない、猛々しい若駒の美。
それを見たかったな。ぞっとするほど美しいしなやかな彼の脚を。

大好きな3階東2列目。前の手すりに体を預けて花道を見下ろして見た、
幸四郎さんと染五郎の連獅子も良かった。
 染!今日一番きれいだった。
 若い獅子の艶やかな毛並みが輝いて、染の細い体の線がとてもきれいに際立っていた。
 赤い長い毛が空を切って、百獣の王獅子と百花の王牡丹がひとつになって踊っていた。

だから余計、「助六」で、陶酔するほど美しい男の脚を見てみたかった。

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December 27, 2007

野田マップ キル

12月22日 コクーン マチネ

1年前の竜也のロープに続いて、妻夫木くんのキル。
宮沢りえさんに続いて、広末涼子。

コクーンの中二階サイドブロックは、こないだカリギュラで頑張った立ち見席の前だった。舞台の3分の1近く見切る席がS席なのかなぁ。強気な商売しているなぁ。そりゃ座れてるんだから、立ち見とは違うけど、前の手すりが邪魔になってるよー!これで1万円。立ち見席の3倍の値段。観劇の値段て、品質とはあまりにも関係ない売り手値段。今どきっ。

レインマン、欲望、カリギュラ、ビューティークイーン、と脚本の力に感じ入る作品が続いたところで、野田さんの代表作のひとつ。

モンゴルのチンギズハンの野望の「切る」と、ファッション業界の風雲児の「着る」、ファッションとファッショ、征服と制服。全編野田さんの言葉遊びの多重構造。後半は生命の連なりへの明るい賛歌的ラストに向かって一気に走る。

今日は気楽に楽しむつもりだったので、想定通り。
妻夫木くんがどうかなって思って買ったチケット、結論は「妻夫木くんはテレビや映画の方が断然良い」です。
声に伸びがなかったのは、喉をつぶしたせいかもともとなのかわからないけど、舞台に立って大きく見えないのは致命的。
逆に広末涼子ちゃんは、舞台の方が綺麗に見える女優さんなのね。

妻夫木くんが舞台で大きく見えなかった理由はわからない。ともかく、この作品の主人公に荒々しい野生がないと、物語が拡散してしまう。その結果、なんと、勝村政信さんが主人公に見えちゃった。勝村さんの演技の振幅を楽しみました。

野田さんの演劇は「メッセージをわかりやすく」なのかな。人間を描くのではなく、場面を描く。または状況を描く。
欲望やビューティークイーンのあとでは、いかにも「にんげん」が薄かった。けれどこれは作風の違い。約束された娯楽という点では、観客は楽しんでいたと思います。

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ビューティークイーン オブ リナーン

12月15日 パルコ劇場 マチネ

大竹しのぶ&白石加代子。
「でたな妖怪」二大女優のがっぷり四つガチンコ勝負。
さすが、さすが、さすがです。役者が期待を裏切らない。これが芝居の一番の醍醐味です。
怖いのにこんなに楽しく仕上げたのは、演出家長塚たかしさんの目と女優ふたりの役者の妙味でしょうか。

アイルランドの小さい村の、閉塞と絶望。
未来に何の希望もないということが、こんなにも怖い。切ないとか哀しいとかの日本的な情緒が入り込めない荒涼とした寒さ。雨ばかり降る緑の島に、少しの潤いもない。

老女マグと老女の世話のために独身のまま40歳を越えた娘モーリーン。偏屈変人女ふたりきりの生活。
娘の不幸の原因は我が儘な母・・・・・そう見せて、実はそうではない。そこにこの戯曲のすごさがある。

娘は、リナーンの村一番の美人ビューティークイーンだった。
今も、彼女は幼なじみが恋するほどに美しい。一夜のドレスを着れば、自分もそれを思い出せるほどに。
今までも今も、彼女は言葉の端に理屈の言葉が出る。
-アイルランドの貧しさの理由は何?-お母さんが綺麗な白い服を着てお棺の中にいるの。夢よ。白昼夢だけど。-
おりふし本を読む女。感情よりも知性を知っている女。だから、妹ふたりが平然と母を捨てて自分の幸福を持っても、彼女はそうできなかったのだ。

美しくかしこい女。
彼女が不幸になったのは、彼女が、醜かったからでも馬鹿だったからでもない。その逆だったからだ。

圧巻は、母親が娘の恋人に、娘が精神病院にいたことをばらすシーン。
モーリーンはかつて出稼ぎに行ったイングランドで、汚いアイルランドとののしられ、傷つき病気になっていた。
きちがい病院。その言葉がモーリーン自身の(大竹しのぶの)口から叫ぶように出る。
モーリーンの傷口がぱっくりと開いて、そこから、新しい血が流れだしている。痛くて、悲鳴が今も続くようだった。
そのうしろで、母親マグ(白石加代子)は、「私があそこから出してやったのよ」と病院の証明書を振り回す。
因習と偏見が幾層にも固まっている島の、やっかみと残酷な復讐心、それが母を小躍りさせていた。

今も美しく今も知的に見えるモーリーンの、母へのおぞましい暴行。
大竹しのぶは陰惨な暴行を乾いて演じてくれた。
誰にでも起きる可能性のある人間の心の淵をのぞき込むようだった。
もしも、あんな世界にたったひとりですてられてしまったら。

アイルランド。
そして、世界。

女が知性も美しさも許されない世界で、彼女たちは狂気にしか行き着くことが出来なかった。

怖いお話です。怖かったけれど、楽しかった。

暗く不幸な物語なのに、終始笑いが起きたのは、女優ふたりのえもいわれぬ味わいのためだと思います。
大竹しのぶの持つかわいげと、白石加代子さんのもつかわいらしさが、たえず観ている私を正気=人間の本性に返らせてくれて、母子の愛情なんてもので言い訳をしない骨格のしっかりした物語になっていました。これは、演出家のお手柄もあるのでしょうか。
大竹しのぶさんは観客をふいにモーリーンの夢想の世界へ連れてゆくし、白石加代子さんは実に丁寧な語り口で嫌な婆さんも人間だって思出させてくれました。
意地悪で残酷な仕打ちの泥仕合を、人間て、ばかだなあと、なんだかそれで救われる思いになったのでした。

パドの田中哲司さんは怪女優ふたりにはさまれて、まったく負けない存在でした。出過ぎず消えず。絶妙。
黒田くん病気のため急遽長塚さん自身が演じたレイは、ちょっと年齢上無理がありました。自分のことだけに夢中な若者の軽さを演じるのに、少々過剰さがでてしまっていました。(これだけが残念。)

2時間半。お芝居をたっぷり観た満足感をありがとうございました。
戯曲のことばがひとつも無意味に流れない、実に心地よいフルコースのフレンチのような満足感でした。

良い戯曲、それを引き出す演出家と腕のある役者がいれば、芝居はこんなに楽しい!

今年は最後まで、「おみごとパルコ劇場」でした。

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十二月大歌舞伎 夜の部

12月14日
お直しで2階西さじき後方列へ。見切りが多く花道が見えないのは残念。それでも、ゆったり座れる桟敷席はやめられません。

菅原伝授手習鑑。
寺子屋を営みながら、かつて仕えていた主人の子菅秀才をかくまう武部とその妻戸波。
追及の手が迫り、幼い菅秀才を殺してその首を差し出さなくてはならない。武部は菅秀才を助けるために、同じ年頃の寺子屋の子どもを身代わりにしようと思いつく。
今の日本ではあり得ないはなしだろ~!しかも、自分の子ではなく、よそさまから預かっている子供の首を着るって言うんですよ。

しかし、歌舞伎ですもの。主君への忠義とかけがえのない子ども。二律背反する武家のあわれさ哀しさと自己犠牲の美がたっぷりと描かれる名作です。

圧巻は首実検をしに来た松王丸。今は敵方に回った松王丸こそ、身代わりになった子どもの親で、これが松王丸のかつてつかえた主人へ自己犠牲の大忠義だったというどんでん返し。

勘太郎の戸波(武部の妻)、福助の千代(身代わりの子どもの母、松王丸の妻)、このふたりの女が良かった。母のあわれさ。武家社会に生きる女のかなしい強さ。悲しみは、みせまいとすればするほど、透き通って美しい。役者がよく演じて、そう感じさせてくれました。

すごかったのは、海老。
妻戸波との苦渋の決断。松王丸との緊迫の対峙。物語の要の大役・・・。

何回か見てきた海老に、人気の美貌は分かりつつ、どうもぴんとこなかったのですが、ついにくっきりと分かった。流行語になったKY。彼は、「空気の読めない役者」だったのです。

あれだけ芝居がわからないなら、歌舞伎は苦痛でしかないでしょう。(歌舞伎は嫌いと公言している本人に、本気で同情しました。天然のお笑いの才能を感じました。そちらに進んだ方が幸せだろうに)
動いても科白言っても座っていても、ただ眉や口の形をつくって、言われたとおりそこにいる。むろんきれいな造形です。だから、まるで大きな置物みたいでした。

あれだけ空気読めない人を相手にしたら、勘が狂って自分の演技までおかしくなります。
そこを、一分のゆるみもなく、苦渋と悲劇と人としてのやさしさまで演じた勘太郎は大したものだと、心底感心しました。

二部は橋の助さんと三五郎さんの踊り。
対になっての踊りは、演者の力量に差を見せてしまう。
橋の助さんも悪くはなかった。ただ、三五郎さんの踊りは、世界が違うの。彼の踊りは見ている者が吸引されてしまう。天からの授かりものを観客に見せてくれる、そんな芸です。

最後は本日のお目当て。「ふるあめりかに、袖はぬらさじ」
有吉佐和子さんの戯曲をはじめて歌舞伎で演じる作品。

長かった。そして、よく分かった。玉は主人公お園が好きなのね。
ちょいとお馬鹿でとぼけてて、お気軽で、でも人情があって、弱い者同士やさしくて、弱い者だからこその意地があって、そこからにじむ哀しさに、観客はいとおしさを感じる。そんなお園が好きなのね。

玉三郎の芸者すがた、振り返りざまの立ち姿。
浮世絵を見て、こんなスタイルの人間がいるわけないと思っていたけれど、舞台の上にいました。浮世絵の見返り美人が、そこにいました。わずかにねじる曲線の美。
堪能しました。若いときはもっと綺麗だったことと知りながら、今でも、立つだけで絵になる。

勘三郎さんが、一幕の松王丸とうって変わって遊郭の主人役。ぴったり。本人こういう洒脱な役どころが大好きでしょう。それがひしひしと伝わってきました。
獅童は軽かった。七の助は薄幸の遊女役がはまっていました。

脚本に難ありと言われているわけが分かりました。
小説と戯曲の違い。小説は言葉で世界を作る。でも、演劇では言葉は3割でいい。科白で説明してはいけない。いちいち場面をつくるのは邪魔。役者のほんの小さなそぶりひとつに見入る。観る者はその集中を楽しむのです。説明調の科白と明らかに無用の場面を切って、2時間の戯曲に出来ないのかな。

玉三郎にたっぷりとつきあえるそんな3時間ではありました。

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December 05, 2007

蜷川&小栗旬の カリギュラ

2007/11/27 シアターコクーン 中二階 Lサイド立ち見席

オークションチケットのあまりの高騰に興味をそそられ、蜷川&小栗劇立ち見チケットをゲット。
定価(3500)プラス手数料(700)でゲットした翌週には、立ち見に1万円を超える値がついていた。
いやはや。

シアターコクーン。
客層は予想よりも幅広い。8割が女性で20代から50代まで満遍なく、きれいな男の子を見たいのは、若い女の子だけじゃないことを証明してる。
男性客はいかにも業界風。若いカップルがちらほら。この客層なら、興行界は大喜びだろう。

並んだ時間も含めて4時間。とても疲れました。が、カネカエセの徒労感はありませんでした。
いろいろな意味で勉強になったし、興味深い夜になった。

まず、小栗旬くん。
綺麗だったのだと思う。
彼をナマで見たのはこれで2度だけれど、きっと綺麗なのだろうと前回も思い、今回も思った。
内面から発する精神性ではなく、海老のような静止画の美しさでもなく、道具として綺麗。
これが蜷川演出にぴたりとはまっている。
演劇を大仕掛けの絵として見せる蜷川さんにとって、役者も衣装や美術と同じ道具。小栗旬くんは、見事に蜷川さんの意図に応える役者になっていた。

歌舞伎座(十二夜)では邪魔だった鏡張りは、奥行きがありサイドが狭いコクーンの舞台ではそれほど邪魔にならない。奥行きをさらにつける効果が十分あった。
鏡の枠の細いネオン管。これはほんとうに綺麗だった。クリスマスシーズンにもぴったりで心憎い。
青と白と黄色の細い光が縦に伸び、上部で装飾的な模様の曲線を描く。鮮やかに綺麗だった。
今まで観た蜷川演出の舞台で、一番綺麗な舞台美術だった。

衣装は織りの厚いドレス状の白。古代ローマのトーガの色を借りていながら宮廷ヨーロッパ調。これに「死」を暗示させる黒が時折入る。うまいなぁ。今まで観た蜷川演出作品で、一番よかった。

舞台上は実に美しく、衣装と美術と役者の肉体が観客の前に鮮やかに動く。
ひたすらおしゃれな雰囲気のなかで、なんとなく悲劇的。
「難解で膨大な」科白にちょっと飽きたころ、カリギュラが貴族たちをいたぶる、貴族の妻を連れ込む、シオピンと抱擁する、セゾニアを殺す、どれも思いっきりの具象で、蜷川さんと小栗くんの真骨頂。
さらに、作品の中間点で小栗くんの可愛いチェチェとお知り丸出しで観客をほっと笑わせ。
蜷川さんの描きたいカリギュラが、みごとに具象化されていた。

カミュが描きたかった世界からは遠くかけ離れた、ニナガワワールドの夜。


その夜観客の前に広げられた舞台から遠くかけ離れたところに、
カミュの描いた美しい世界が、
浮遊してゆく言葉を拾ってゆけば、
ありました。

万華鏡のようでした。
言葉が美しいのではありません。演出家は「言葉が詩のように美しい」と言っていましたが、違うと思います。
言葉の意味、表出している観念が、美しいのです。

ケレアの「若者をそこまで絶望させただけで、それは犯罪だ」
美しくて震えました。
「月を探している」カリギュラ。彼は自分の焼け付く理性の望むところが、永遠に手の届かぬものと知っていました。
自由であることが、他者に対して何でも出来ることではなく、生の内在する恐れから解き放たれることであることを知り、しかし、自己を解き放つことの出来ない閉ざされた身で、自由の虚像だけを実行するカリギュラ。
であれば、死のみが自由であり、しかし、自ら死ぬことを禁ずる倫理の中に生きる西洋の人間にとって、カリギュラの道だけが残された方法だった。他者を死=自由にしてやるという行為によって、自分もそこへ行きつく。
なんて美しい、はかない、むなしい、絶望的な、観念の世界でしょう。

しかし、ニナガワワールドでは、カミュの観念の世界は、みごとにスルーされていました。

小栗くんも勝地涼くん(シオピン)も横田栄司さん(エリコン)も、言葉が物体なのです。カミュの哲学を語る言葉がことごとく廃棄物になって板の上に積もってゆきました。
ケレア(長谷川博巳)だけが、カミュの美しい観念の世界を見せてくれたのだけれど。
しかし、それが、カリギュラの科白ではないために、あっけなくスルーしてゆく。

カミュが語る以上の不条理でした。
世界は、すでに、観念を失っている。哲学は降り積もる死語の山。難解で膨大だとしか受け取られない。
だったら、思いっきり具象的な美しさで飾れば良い・・・・それがこの夜の体験でした。

立ち見席からは、舞台よりも客席がよく見えて、観劇半分観客ウォッチング半分の4時間でした。
劇評の多くが「難解で膨大な」科白を小栗くんがみごとに体現した等々と。
絶望と希望の行き来する観念の世界を描く脚本の言葉が、「難解で膨大」としか受け取られないのであれば、
なるほど、
興業としては、蜷川さんのカリギュラが正解なのだと、心から、
ため息を飲み込んで、納得しました。

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December 02, 2007

欲望という名の電車

2008 11月 18日 14:00 グローブ座
 2階席から、舞台と満席に近い1階席がよく見下ろせた。

私でも名前だけは知っていた「欲望という名の電車」

原作(脚本)の圧倒的な力。こんな風に脚本の力を感じるのは滅多にないことだ。
ビビアン・リーの女優としての名声をさらに高めた映画、
杉村治子さんのブランチ、
杉村さんは、ただ一人ブランチを継がせたかった太地喜和子さんが亡くなったあとは他の女優に決してわたさなかったのだという、
原作者が女性は女優が男性は男優が演じることを強く指定していた、
篠井英介さんがブランチを演じるに当たり原作者の遺族の許可がなかなかおりなかった・・・。

すべての逸話に納得。

これは、女優なら誰でも演じたくなる役です。

これを男性が書いたのですか。その人はどんな人なのですか?
ふつうの男性では、こんな本は絶対に描けない。

そして、彼のほんの簡単な略歴を知っただけで、納得。
人生のあらゆる場面で彼は壊れてゆく人を見、壊してゆく人々を見、その中で、壊されながら、生きたのだ。

そうだよね。ひとが壊れてゆくとき、
何によってこわれてゆくことがもっとも無惨なのかを、知っている人が描いた戯曲なのだ。

明確な悪意でなく、むしろ大多数の常識的正義感。たいてい「社会」と名付けられる逃げ道を許さない圧力。
男性が男性という存在としてもつ暴力性。女性が女性という存在として持つ残酷さ。

その中で、ひとは、もっとも悲惨に惨めに救いようなく壊れてゆくのだ。

女優なら、誰でもやってみたいだろう。
ひいきの俳優が男性だとしたら、無理にでもその男優にやらせてみたくなるだろう。
ブランチはそのくらい舞台表現に魅せられた者にとって魅力的な役です。肉体と心とすべてで語りたいと欲する役です。

さて、原作の圧倒的な力に感嘆しつつも、
今回の篠井ブランチ北村スタンリーに、私は入り込めなかった。
前回の鈴木勝秀演出の「欲望」は、古田新太スタンリー、篠井ブランチは女装もしていなかったという。
そちらを見たかったな。
北村くんは、とても好きな役者さんですが、彼には生まれや育ちの良さがどうしても見えてしまって、存在としての粗暴や粗野が無いのです。だから、美しく女装した篠井ブランチの異形の美しさと対にならない。ブランチの自己愛と自己陶酔、異形の美しさが鼻についてしまって、正直なところ違和感に、まいった。スタンリーが妻のステラに言う(あんたの姉さんのブランチが来るまでは)「おれたち幸せだったじゃないか」の科白の方に共鳴してしまって。篠井ブランチのあくで、北村スタンリーが被害者になってしまう。男性からみると、壊れた女はあんな風におぞましい存在なのか、と感じて、つらかった。

ステラ役の小島聖さんが非常に可愛い愛らしい妹で、よけいにブランチの悲劇を強調する自己陶酔ばかりが際立ってしまった。

ブランチをやるならは誰だろう・・・と考えて、やはり大竹しのぶなのかな、と思ったら、数年前に蜷川演出でやっているのですね。う・・・ん、蜷川さんのブランチ、多分それも私が見たい「欲望」ではなかっただろう。

帰り道、では、誰だろうと考え続けて、北村くんのスタンリーなら毬谷友子さんのブランチで見たいと気づいた。
アメリカ社会の破壊的で無自覚な悪意や暴力や差別。たとえそれが原作の背景であろうと、表面的にはそれがない日本の土壌でも、この本の普遍的な訴えは表現できるとおもう。
あえて、濃い男と女でないほうがいい。
今の日本には、無邪気な繊細さや無防備な善意が無惨に壊れている場面があちらにもこちらにもあるではないか。隠微な悪意が、常識という仮面をかぶって、なにものかに「弱さ」と「病気」というラベルを貼って殺している。その屍が、あちらにもこちらにもある。

今の日本にもスタンリーやステラ、ブランチやミッチがいて、見えない叫びを低く響かせて、死んでいっているような気がする。
そんな「欲望」を見たい。


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November 17, 2007

通し狂言 摂州合邦辻

2007 11月16日 11:30 国立劇場大ホール 3階席センター寄り。新橋演舞場より遙かに見やすい3階です。
入りは7割くらいでしょうか。かなりご高齢の、落語よりはややリッチな風情。狂言よりは男性客が目立ちました。

おん歳70になられる坂田籐十郎さんの玉手姫。2月に文楽(人形浄瑠璃)と衝撃の出会いをした演目です。

上方の歌舞伎のそこはかとない香りがたつ舞台でした。
我當さんのはじめ上方の言葉の音が、脇の浄瑠璃語りとお三味線の音と合わせて美しい螺旋を描くような。
役者の白塗りの肌が照明に映えて、彩なす着物とともに、日本画のような。
丸本(浄瑠璃)歌舞伎は、文楽と歌舞伎の中間にあるようです。役者は文楽の人形ににて優雅に時には激しく動き、様式化されてこそ、人が浄瑠璃の語り音に乗れるのだとわかりました。

籐十郎さんにとっては、50年前の玉手姫が語り草になっている演目だそうです。さぞ美しかったことでしょう。
御年70でも、驚くほどきれいでした。親の家の戸口に立って「かかさま」と母を呼ぶ立ち姿。立っているだけで玉手の強く弱く切ない心がにじみ出てくる瑞々しさ。
無理があるのでは、などと浅はかにも考えていたのですが、動きも声も立ち姿も少しも枯れていないのです。
「枯れた味」で勝負しようとみじんも考えていない潔さ。それは舞台の神さまと正面から向き合い続けてきた者だけが神さまから与えられたご褒美なのでしょうか。

それにしても、(それだからこそ、)20歳の籐十郎さんの玉手を見たかった・・・。

2幕目秀太郎さんの家老の妻羽曳野が舞台をひき締めていました。先月の牡丹灯籠に続いて、愛之助さんは見目美しい。俊徳丸を演じていたらどんなだったかな。三五郎さんと、逆の配役のほうがどちらにも合っていたと思うのです。歌舞伎はこの辺の配役の窮屈さが時々邪魔になります。合邦妻おとくの上村吉弥さん、牡丹灯籠のお国とはうってかわった老け役。演じ手としての相当の力量を感じました。

4時間を越える通しは少々長く、途中しばしばうつつの世界へ。殺陣も踊りも思いっきりレトロ。そのまったりとしたお約束の雰囲気が上品で良かった。浄瑠璃と三味線の音が心地よく、この歌舞伎の主役は役者絵ではなく浄瑠璃の語りであると、納得しました。

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November 12, 2007

レインマン

2007/11/11 パルコ劇場

とても良かった!! ほとんど期待しないで行った日曜日渋谷の雑踏の中、パルコ劇場。
新聞記事の「鈴木勝秀によるシンプルな演出」。
シンプル - その言葉に、だまされたくなって、買ったチケットでした。
だまされて良かったぁ~。だまされ続けると、良いこともあるんだなぁ。だから、チケット買いやめられない。

舞台の真ん中に半透明の壁が立っている。壁は暗い青に、明るい白色に照明を浴びて変化します。舞台が回るたびに、壁が分かつ世界の形が変わります。
いい舞台は、まず気持ちの良い空間から始まるものです。

音響がやや悪くて、音楽が大きく響きすぎたものの、椎名演じる弟チャーリーと橋爪の兄レイモンドが、回り舞台をまわりながら、黄白色のライトを浴びる出だしは、物語を暗示する出だしです。

 ネットトレーダーの空疎なマネーゲームに心は飽き飽きしながらも、そこにしか居どころのないチャーリー。
 そこに突然、長い間断絶していた父親の訃報。
 数字に異常なこだわりを持つ高機能自閉症のレイモンド。
 施設で育ち施設で生活してきたレイモンドはチャーリーの兄であり、
 父の遺言状によって遺産のほとんどすべて300万ドルを相続。

物語はそこから始まります。
もちろんこれは、マネーゲームだけに価値をおく弟が、お金に何の価値も見ない兄との交流によって、人間性を回復させる物語です。筋書きは分かっています。分かっているのに、最後まで目を離せない作品に仕上がっていました。お見事!

脚本は、ごくシンプルです。
チャーリーの父への憎悪の理由がゆっくりと語られ、熱湯を浴びてできたやけどのためにいじめられた孤独な少年時代、心を閉ざし想像上のレインマンだけが友達の生い立ちがあかされてゆきます。
そして、兄弟のつながっていない会話が、少しの科白と小さな出来事の積み重ねで繋がりはじめます。
レイモンドが口にする「無意味な」数字(円周率、電話番号、ワールドカップの得点王)、二人のサッカー、ずっと持ち続けてきた大切な切手帳や不吉なことの起きるリストブック、毎日決まっている食事メニュー、

小さな小さな科白、幼い弟が舌足らずに呼ぶ兄の名-レイモンド-レインマン

余計な科白を極力排したシーンの圧巻は、椎名のチャーリーと橋爪のレイモンドのサッカーボールリフティングです。決められた科白はありません。ふたりで本気でボールを蹴ってつなぐだけです。20回続けるって?観客も不安と期待で息をのんで、椎名桔平くんも橋爪功さんもあっぱれ、成功したときの客席の拍手ったら。おかしいシーンなのに、いっぱいの満足感でした。

そして、チャーリーの父への憎しみが、無垢なレイモンドの不幸な事故からおこった誤解だと解き明かされてゆく・・・。
このあたりから、もうハンカチをはなせませんでした。
これだけ気持ちよく泣けると、爽快です。
1月のパルコ寄席の志の輔さんの中村仲蔵以来の大泣きでした。

役者が舞台の上で人間を演じきってくれる快感。パルコ志の輔寄席、コンフィダント、レインマン。今年はパルコ劇場のひとり勝ち!かな。(次点は歌舞伎座の十二夜と仁玉の牡丹灯籠でしょう)

橋爪さんのレイモンドは予想以上に可愛く、椎名くんのチャーリーは想像以上にピュア。
おふたりとも空間の中に流れる空気を、丁寧に演じてくれていました。
10月の松尾スズキさん、鶴瓶、緒方拳さんが「・・・・(あかん、映像世界と舞台は違う。がっくり)・・・・」だっただけに、テレビでの活躍で知っていたお二人が、生の舞台をきっちりつくってくださったことに、感謝。
そして、脚本の意図と俳優の演技を最大限に生かそうとする演出。
観客を驚かそうとか、感心させようとか、話題を呼ぼうとか、そういう演出に飽き飽きだったので、舞台の演出はこうでなくてはと思って、うれしかったです。

だから、帰りに、ぴあで、同じ演出家(鈴木勝秀さん)の来週の「欲望という名の電車」チケットを買いました。

わたしの観劇暦第5年度の開幕に、良い舞台を、ありがとうございました。

追伸 ちらしではお二人の写真の表情が作品と違う印象を与えていました。暖かさをもっと伝えるチラシであれば良かったのにと思いました。

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