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April 2005

April 30, 2005

甘い人生

キム・ジウン監督、イ・ビョンホン主演。
10:45上映の映画で、9:45にはすでに15人ほどの女性客が並んでいた。だいたいわたしと同じくらいの年齢層。「これは私の代表作になる」とイ・ビョンホンが語り、「イビョンホン主演の究極のラブ・ストーリー」とキャッチコピーにあれば、これはもうどうしたってねぇ。

上映開始時、客席はほぼ満席。ひとつ空いて左の通路際にすわる20代前半の男性客を場違いと感じる。

約2時間たった映画終了後、場違いはわたしを含めた女性客だったんだな、とわかる。「愛を知らない男の、命をかけた選択」?・・・違うでしょうこの作品は。この作品は暴力と血を描く生理的な映画でしょう。

「オールド・ボーイ」のむごい暴力的なシーンも生理的だった。しかし、「オールドボーイ」は、映画はすごい、と、私の美意識のリストに映画を加えさせるほどの知的な興奮と映像の美しさと感情の浄化があった。
「甘い人生」にはそのどれもがなかった。派手な暴力と血の流れ出す音、血の海ができてゆく画面に生理的な快感を感じる映画ファンを別とすれば、成功した作品とはとても言えません。その一番の原因は、企画そのもの。

暴力が暴力を生むむごさを描く映画を、なんで「究極のラブストーリー」などにしてしまおうとしたのでしょうか。

まったく・・・。
イ・ビョンホンは本当に頑張っていました。彼がすごく頑張る役者なのだと感じ入りました。彼が出ていなければこの脚本なら金返せ、です。しかし・・・・彼が主演だったから、制作者側はつい「愛を描く」などという余計なイロケをだしてしまったのかもしれません。

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April 25, 2005

インファナル・アフェアⅢ

Ⅰ、Ⅱを3ヶ月前にDVDで見てから、待ちに待っていました。その期待を半分にして見に行きました。封切り後、賛がやや多めとはいえ賛否両論でしたから。

物語が進行している間、ほぼずっと感じていたのは、この作品は「つまらない」(と書いている声も結構あった)のではなく、「むずかしい」のだ、ということ。むずかしくて話の展開を理解できない人にはつまらないことまちがいなし。それは学校の授業と同じです。

しかも、いくつもの難しさが重なっています。ⅠとⅡを見て覚えておくことが必須なのは無論。
次々と変わるⅢのシーンがⅠ、Ⅱの時間軸のどこに当てはまるのか瞬時にわからなくてはならない。人物の感情も計算に入れて。Ⅲではじめて現れる夢(主人公ラウの空想)と現実のよりわけにもとまどいます。
何よりも、説明がほとんどない登場人物の行動の連続。何を何のためのやっているのか、画面を集中して見続けほんのわずかな暗示で想像してゆかなくてはならない。何を車の下につけたの?誰を追っているの?郵便ポストから出る煙は何?マリーはテープを聞いたの?自動車事故は?あと、3回くらい見ないとわからないのではないでしょうか。
そして、最後に近いあのシーン。あのテープから、ラウの声が流れた、まさにその意味。ヨンのはめた罠なのか、ラウのおちた地獄のはての行動なのか。深くてこわい。

けれども、たくさんの難しさのあとで、わたしはとても心地よくエンドロールを見ていました。
テープから流れるラウ自身の、ラウの破滅を呼ぶ声。
そして、ヤンとヨンとシェン(影)。3人が互いに見つめるまなざし。
連続するこの2つのシーンで、物語を見ていたわたしの心は浄化される。映画の語るすべてが終わって、作品が告げているメッセージはとてもシンプルなのだったとわかる。

悪は、ただ落ち続けてゆく地獄なのだ、と。
悪は人を破滅させる。攻撃を受けた者も、悪に身を置いてしまった者も、その両方を。

それでも、男の友情は存在し続けるし、男と女の間に愛は生まれるし、消えない。

トニー・レオンのかっこいいこと。でれっとした愛好をくずしてにたつくあの顔ったら。危機の瞬間、計算を止めて一瞬の判断だけで動くときの野生のけものの表情。トニー・レオン満喫の映画と言ってもよいでしょう。
そんなわけですから、美しさや哲学的な倫理観の分野の感受性が強い人が満足する映画です。ミステリーが好きな方にも良いかもしれません。逆にマフィア映画、アクション映画、暴力やホラーなど生理的な刺激を映画に求める人には向かない。ハッピーエンドが好きな人は癒されます。人生の不条理や無常観、悲劇などを題材として好む人には、詰めの甘さを感じて不満が残るでしょう。

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シン・ドンヒョク

サラのTime to say Good-baye が使われていたシーンを見たくて、半年ぶりにホテリアーを見た。

最終回でハン・テジュンがかつての恋人、そして今も愛し続けているソ・ジュニョンへの自らの思いの強さに気づき、そして彼女への思いを込めて、それを断ち切ろうと心を決める感動的なシーン。あ、この曲はこんなシーンでつかわれていたのか。まさに、この曲を使うためにこの物語が用意されてきたかのような。

20話を一気に見直す。BYJのシーン以外を早送りにして、ひたすら、BYJを追う。半年前に見たときには「シン・ドンヒョクをわたしの中のBYJのどこに置こうか」とおもったのだ。彼の姿に釘付けになりながらも。

今日わかった。半年前に見たときには落ちてゆかなかった感情が、今度はすーっと落ちて。
「今日海を見ました。・・・今、あなたに会いたい。あなたをこの腕の中に抱きしめたい、いえ、あなたの腕の中に抱かれたいのです」
女性が抱きしめてあげたくなる、そんな男がいて、わたしの中に、そんなふうに男を愛したい感情があったのだと。(もとろん、BYJ演じるシン・ドンヒョクだからなのだけれど)

女に甘えてくる男には無関心だったわたしの中に、男をあんなふうに愛したい気持ちがあった・・・?
知らなかった感情。初めてみる感情。
-あなたにとってわたしが「失うことの出来ない存在」で、それほどにわたしを必要としている、だから、わたしはあなたを愛する-

俳優としてのBYJは、いつもわたしの感情を彼の中に落ちてゆかせてる。
印象派の絵がわたしをすうっと絵の中に「落とす」のと、同じ。ゴッホの絵の前でそれを奇跡と思った。今またそう思う。BYJによって、奇跡がわたしの感情に起きる、と。

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April 24, 2005

Time to say Good-bye

「ホテリアー」最終回。主人公の1人ハンテジュンがジニョンへの思いを断ち切ろうとしたときにこの曲が始まった。透明で力に満ちたその声に打たれた瞬間を忘れない。

池袋地下道のコンコースで、2度目に耳にしたとき、数ヶ月の間を経ていたというのに、すぐにあの曲だとわかった。その瞬間も忘れられない。

4月23日のサラ・ブライトマンのコンサート。彼女をよく知りその歌を聴きたかった観客には物足りなかっただろう。わたし自身も彼女の生の声に包まれている感動は湧いてこなかった。ドラマのバックに流れた時の心打たれる響きを、生で感じられなかったのは、良くない意味でずいぶんと希なことだろう。

ゲストの東儀秀樹さんの篳篥とチェン・ミンさんが、新鮮で想定外のイマジネーションあふれる美しい音色を聴かせてくれた。二胡の音には神経を直接掴むようなところがある。その粗い野性的な強さに洗練された西洋のヴァイオリンの音が寄り添うと、一気に甘い情感がほとばしる。チャン・イーモウ監督の「初恋のきた道」そのままに、中国
の荒土地帯の農村の風景が目の前に広がった。

すぐれた芸術家でも旬を維持するのは難しいのだろう。それでも、年齢による肉体的な衰えを超えた旬を持ち続ける芸術家も多い。サラ・ブライトマンはその道を放棄してしまったのだろうか。そうだとしたら、この曲の題名が、人々の彼女への言葉になってしまう。彼女を愛してきた多くの人たちにとってそれは哀しいことだろうに。

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April 17, 2005

初恋のきた道

チャン・イーモウ監督。チャン・ツイイー主演。

 チャン・ツイイーの可愛いこと。最初のアップの映像でくるくると輝きを放つ黒い大きな瞳に、観客は特に男性は釘付けになることでしょう。ところが、監督主演ともにおなじ「武士musa」の彼女が魅力的でなかったために、そちらを先に見てしまっていたわたしには、「可愛い」が続きませんでした。残念。彼女のかわいさの後ろから、気の強いわがままさが見えてしまって。これはあくまで、監督の持つ女性像にわたしが共感しない、という点の問題にすぎません。
 
 女性像に共感しなくても、この作品の美しさには感銘しましす。

 「貧しいけれど美しい」 自然が放つあふれるような色の美しさ。黄葉の木々の梢、緑の葉の間に見え隠れする主人公の紅い服、はたまたススキの穂波の銀白色。茶色い土壁にならぶカボチャの朱色。貧しい寒村のありふれた風景の中にこそ無限の色の広がりがある。都会の人工物が何もない貧しさの中に、遮られることのない自然の色彩の美しさがページを繰るようにつぎつぎと連なる。「貧しくてもこんなに美しいじゃないか」!
 しだいに観客の目は自然の美しさになれて、「美しいけれど貧しい」村人の生活が目に入ってくる。生活としての貧しさにはとても耐えられそうにない、と。

 けれども、主人公が荒れてしまった学校の破れた障子を貼り替えて赤い花の切り絵を飾るときから、作品は再び「貧しいけれど美しい」世界を見せ始める。ただし、今度の「美しい」は、自然の放つ美ではない。一途に人を恋する少女の初恋の美しさ。

 美しい自然の中の圧倒的に無力な貧しさ。貧しさの中の少女の無垢の強さ。
 彼女が惹かれたのは彼の声だった。彼の声が語るその言葉は、「読み書きを学びなさい、物事を書き記しなさい、現在と過去を知り、天と地を知りなさい」。
 無垢な彼女が「知」へいざなう声に惹かれた最初と最後の2重のシーン。ここに、もう一つの「美」を密かに伝える隠されたメッセージがある。
 自然の美しさ、純真な心の美しさ、そして、知的であることの美しさ。

 同じ監督同じ主演女優に加えて実に美しい主演男優を使った「Musa」が、退屈な作品になってしまったのは、作品に3つ目の美を上手に潜ませることが出来なかったからかもしれない。

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April 05, 2005

ラ・トゥール展

国立西洋美術館、ラ・トゥール展

ラ・トゥールの名も知らなかった昨年。ルーブルで出会った心惹かれた2点の絵がラ・トゥールだった。その時も、画家の名に特別な知識を持たず、それどころか、ろうそくを挟んで立つ老人と子供も、髑髏をひざに抱く若い女性も特別な題材だとは少しも考えなかったのだった。光を受ける表情の輝きに、ただ強く心をひかれてハンディカムを廻した。

日本に帰って、ハンディカムの画像をPCに取り込み、「彼女がいだいているのは、・・・・誰の髑髏なんだろう」とキャプションを入れた。彼女がマグダラのマリアで、そして、ダ・ヴィンチ・コードを読んだ今は、彼女がイエスの妻かもしれないと思えば、誰の髑髏なのか、想像の楽しみがあるではないか!

絵の力、作品が持つ力とはそういうものなのだと思う。画家について作品のついて何の知識ももたない受け手が、
本人が思ってもみないインスピレーションを受ける。まるで天から射す一条の光をあびるように。すぐれた作品は感受性に向かってまっすぐに射す光源となる。

彼女がマグダラのマリアで、老人がイエスの父ヨセフで、ろうそくの光を浴びる幼い子供はイエス。
その3人が3人とも、彼らを描いたほかの多くの絵画群とは一線を画す圧倒的なドラマティックな力を持つ。
マグダラのマリアの哀しみ、諦念、その1シーンからだけで愛を語る素晴らしい映画が出来うる。
ヨハネと幼いイエスの間にある慈愛もまた、緊迫した最終シーンのようではないか。

そして、今日上野で出会ったラ・トゥールの作品は聖小ヤコブ、聖ユダ(タダイ)、聖トマス。
深い精神性をたたえた表情はレンブラントの肖像画のようだ。
刻まれたしわ、1本1本の髪の毛のカールの前に立つと、自分が吸い込まれてゆく。

最晩年の作品「荒野の洗礼者ヨハネ」は、他の作品のような輝く光はない。暗い色彩の中にぼんやり浮かぶ人物は、疲れ切ってうずくまりただ羊をみている。しかし、男が肩に受けている光の美しいこと。光と呼ぶのもひかえたくなるほどの淡い明かりであるのに、すべてを失った者にも神の慈愛はかくのごとく届くと、見るものに伝えている。

最も想像をかき立てる「書物のあるマグダラのマリア」。
長い髪に隠れたマリアの横顔。彼女は髑髏と向き合い語りかける。画家の意図を越えて、見るものの想像が深まる。彼女がイエスの妻であるとしたら、左にある書物が象徴する教会の男性権力が彼女を正統な位置からおとしめていたのだとしたら、彼女が両掌に包む髑髏は、彼女に何を語っているのだろう。

ラ・トゥールが描くのは光ではなく、ドラマなのだ。感情が沸き立ち、感情が落下してゆく時の、まさにその直前の瞬間なのだ。光はそのために必要な手段にすぎない。

彼は描こうとしていることが見えて描いている。
すぐれた芸術家がみなそうであるように。

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