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April 05, 2005

ラ・トゥール展

国立西洋美術館、ラ・トゥール展

ラ・トゥールの名も知らなかった昨年。ルーブルで出会った心惹かれた2点の絵がラ・トゥールだった。その時も、画家の名に特別な知識を持たず、それどころか、ろうそくを挟んで立つ老人と子供も、髑髏をひざに抱く若い女性も特別な題材だとは少しも考えなかったのだった。光を受ける表情の輝きに、ただ強く心をひかれてハンディカムを廻した。

日本に帰って、ハンディカムの画像をPCに取り込み、「彼女がいだいているのは、・・・・誰の髑髏なんだろう」とキャプションを入れた。彼女がマグダラのマリアで、そして、ダ・ヴィンチ・コードを読んだ今は、彼女がイエスの妻かもしれないと思えば、誰の髑髏なのか、想像の楽しみがあるではないか!

絵の力、作品が持つ力とはそういうものなのだと思う。画家について作品のついて何の知識ももたない受け手が、
本人が思ってもみないインスピレーションを受ける。まるで天から射す一条の光をあびるように。すぐれた作品は感受性に向かってまっすぐに射す光源となる。

彼女がマグダラのマリアで、老人がイエスの父ヨセフで、ろうそくの光を浴びる幼い子供はイエス。
その3人が3人とも、彼らを描いたほかの多くの絵画群とは一線を画す圧倒的なドラマティックな力を持つ。
マグダラのマリアの哀しみ、諦念、その1シーンからだけで愛を語る素晴らしい映画が出来うる。
ヨハネと幼いイエスの間にある慈愛もまた、緊迫した最終シーンのようではないか。

そして、今日上野で出会ったラ・トゥールの作品は聖小ヤコブ、聖ユダ(タダイ)、聖トマス。
深い精神性をたたえた表情はレンブラントの肖像画のようだ。
刻まれたしわ、1本1本の髪の毛のカールの前に立つと、自分が吸い込まれてゆく。

最晩年の作品「荒野の洗礼者ヨハネ」は、他の作品のような輝く光はない。暗い色彩の中にぼんやり浮かぶ人物は、疲れ切ってうずくまりただ羊をみている。しかし、男が肩に受けている光の美しいこと。光と呼ぶのもひかえたくなるほどの淡い明かりであるのに、すべてを失った者にも神の慈愛はかくのごとく届くと、見るものに伝えている。

最も想像をかき立てる「書物のあるマグダラのマリア」。
長い髪に隠れたマリアの横顔。彼女は髑髏と向き合い語りかける。画家の意図を越えて、見るものの想像が深まる。彼女がイエスの妻であるとしたら、左にある書物が象徴する教会の男性権力が彼女を正統な位置からおとしめていたのだとしたら、彼女が両掌に包む髑髏は、彼女に何を語っているのだろう。

ラ・トゥールが描くのは光ではなく、ドラマなのだ。感情が沸き立ち、感情が落下してゆく時の、まさにその直前の瞬間なのだ。光はそのために必要な手段にすぎない。

彼は描こうとしていることが見えて描いている。
すぐれた芸術家がみなそうであるように。

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