« May 2005 | Main | July 2005 »

June 2005

June 28, 2005

アルジャーノンに花束を。

劇団昴。千石300人劇場。この規模の舞台でタツヤを見たい。

1度きりしか読んでいない原作で、泣いた自分を記憶していたし、何より知的でなおかつ分かり易いメッセージを放つ作品。

原作が泣かせてくれたのと同じところで泣いたのだけど・・・。見終わって重くのしかかってきたのは、「舞台にする必要があったのか」という1点。原作を誠実にダイジェストし、主役の彼は充分上手だった。パイプを組んだ舞台も悪くなかった。演出も破綻無く。そう、充分誠実な舞台だった。まじめさという点で。

それで、帰りの池袋駅あたりで、ふと、思ったわけだ。たとえばこれを藤原竜也にやらせたら。この舞台はこうはならなかっただろう。
なぜだろう。タツヤの舞台には、狂気があって、この作品の「チャーリー」をタツヤがやるなら、

そう、作品はこうなる。
知的能力ゼロの美少年。彼をその美のゆえに愛し、罪悪感に苦しむ脳外科医。罪悪感から逃れる唯一の方法として、彼は少年に手術を施し、その結果知的モンスターが現れる。美と傲慢さの前で、純粋だった愛は崩壊する。そして、ラスト。残酷な神の手で知的能力が後退したとき、再び愛が生まれる。
どう?想像しただけでゾクゾクしない?
それは、美しい、そして、暴力的で、なおかつ知的興奮をもたらす舞台になるだろう。

小説を忠実に誠実に舞台にする必要があるのか。それは演劇という媒体を好む人たちのため、それから、文字ではイメージをつくれない人たちへの「絵本」代わり。けれども、舞台とはそういうことのためだけにあるのだろうか。「文字」だけでなく「絵と音」を伴っている以上、作品の輝きは、「文字で味わう」のとは別の次元にあるはずだ。

求める3つ。
知的、誠実さ(おだやかさ、または静かさ)、暴力(たぶん私の中では残酷さやコントロールできない熱情、恋愛)。
それでね、きのう、TV画面上のキムタクを見て、きれいだけじゃ駄目だって、知的でないと駄目だって痛感。
そして今日、知的なだけでは退屈すると知った。

BYJは乾いたからだが水を飲むように癒され幸福感に包まれる。タツヤは彼の舞台上の狂気で暴力的な感情を呼び覚ます。

知的でないと駄目。でも、知的なだけでは退屈なの。

今日のアルジャーノンになかったのは、観る者を引きずり込む美の力。小説には、チャーリーの独白のひとつひとつに美しさを感じたのだけれど。演劇にしたときにそれが失われてしまったのだとしたら、演劇としては敗北なのではないだろうか。舞台の誠実さに充分敬意を払いつつ、そして、こんなふうに考えるきっかけをくれたことに感謝しつつ。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

June 18, 2005

ホテリアー 

ひりひりした感情をクールダウンさせるために、ホテリアーを見る。

確かなホンと共演者の中で見るBYJ。彼は作品に要求されているシン・ドンヒョクを完璧に演じている。クールで美しくてかっこよくて、それでいて捨てられた子犬のような哀しい顔をする。

ジニョンの姿を追うドンヒョクのひとみの切ないこと。男の人がこんなに切なく女を見てはいけないよ。
「どうしようもない。もう始まってしまった」
最初にホテリアーを見たときよりも、ずっと私の心が反応している。

自分を捨てた父は「くだらない過去の話」といって、彼を否定する。これは、2度目の親による遺棄です。この場面だけで、ドンヒョクの抱える孤独と傷がえぐりだされる。BYJが演じていなかったら、シン・ドンヒョクというキャラクターはわがままで自分勝手ないやなやつです。それなのに、BYJの演じる彼はいとおしい、哀しい。そしてかわいい。男性を愛おしく思うこの感受性はもう私のものになっている。

細身のスーツを着た体のラインのきれいなこと。
細い顎を少し傾けて薄く笑む口元のきれいなこと。

「ありがとう、ジニョンさん、今日メールにあなたに抱かれたいと書きました」
ドンヒョクを演じているBYJがまるで10代の初々しい少年のように見える。切なさと一つになっているかわいさ。
「かわいい」と感じる感受性がこんなに違う。今風で乱暴な物言いしかしないキムタクを少しもかわいいと感じられない私の感受性が、BYJの表情にかわいいと反応する。

感受性は、わたしたちに降りている神様の先端です。わたしたち人間の意思では動かない。
わたしたちはただ、発見するだけです。神様の感じ手の先端を。

| | Comments (20) | TrackBack (0)

June 17, 2005

藤原竜也・弱法師

はじめて、独占したいと思った夜。自分の中に、そんな感情があったと知った日。

凶暴な餓えの感覚が何なのか、はじめはわからなかった。もう1度みたいと思い、もっと見ていたいと思い、今見たばかりのシーンを物足りなく感じ、すぐにでも彼を目前に見たい、と思う、その感情が何なのか、ずいぶんとたってから、思い知った。彼を独占したかったのだ。俳優のフジワラタツヤを。

自分の中に、誰かを、いや、人間を越えてすべての対象の中で、何かを、独占したいという感情が、生まれるうるのだと、初めて知った日。

幸福な夜になると思っていた日に、彼の舞台が終わって歩きながら感じていたのは、凶暴なひりひりするような餓えだった。彼の「俊徳」の笑みはぞっとするほど魅力的だった。甘い声音はわたしの呼吸を止めてしまった。そして、彼が発する強い刺激はもっと強い刺激を求める覚醒剤のように、感情をひりひりさせていた。

野生の動物がほえるような叫びの、音がまだ耳に残る瞬間に、彼が発する甘いささやき声。
戦火におわれる人々の阿鼻叫喚を、夏の深い森の暑いしんとした呼吸のように、そっと語る声。
それらが、スポットライトを浴びたしなやかな美しい肢体から、つぎからつぎへと、発せられるのだ。
宝石箱から次々に、光が光を追って、溢れ出てくるように。

彼ひとつが詩。ニナガワの演出も、共演者も、演出や共演者として存在させてもらえない。その空間はひとつの演劇の作品としては破綻なのではないか。彼をつぎは誰が使えるのだろう、誰が彼に演じさせられるのだろう。彼自身がぬるい作品には我慢できないように、彼を見るわたしも、ぬるい作品では我慢できないだろう。

やけどをしたようなひりひりした感覚。呼吸が止まる。めまい。もっと強い刺激を求める。興奮。
これは、覚醒剤、です。彼は、おそるべき演者です。ピカソやゴッホと同じ、破壊しながら創造している。彼をすぐにわかる人間は、そう多くはないかもしれないのに、一度とりこになった人間はその味が忘れられない。

麻薬のようなBYJと、覚醒剤のようなタツヤと、今夜はそのどちらで眠りにつこうか。どちらの夢を見て楽しもうか。

弱法師にも、ラマンチャにも、同じセリフがあったね。目に見えている折り合ってゆく日常のほうが狂気でからっぽだと。目が開いて正気だと思っている人々の生きている世界の方が、まやかしで狂気で空っぽだと。彼らには狂気にしか見えない「こちら側の世界」が真実の存在するところなのだと。BYJに会ってわたしもまた、それを知って生きている。

| | Comments (78) | TrackBack (0)

June 15, 2005

赤い疑惑

・・・というより、フジワラタツヤ。

ちょっと、ぞくぞくするねぇ。TV画面でこんなに、ぞくぞくするのは思い出せないくらいなかったことだぞ。(BYJはゾクゾクではないからねぇ。彼は、もう、うっとりの世界で。)

タツヤ以外はみんな、背景になっている。う~ん。きれいというのともまた違う、これは一体・・・。あぁ、考えるのが楽しい。考え尽くしてしまいそう。ドラマと一体になるBYJとは明らかに違う。演じる役に恋してしまうBYJとは全く別の。一体これは・・・何?この快感は。アヘンのようなBYJ、覚醒剤のごときタツヤ。タツヤを浴びただけで興奮している。食べてしまいたいほど、私の中の何か凶暴に近いものが興奮している。

タツヤ以外はみな背景。彼が出ていないときは視線が画面のあちこち画面の外へまで滑ってく。神経が興奮しているので、背景たちが何をしていようが関係ない。作品を見ていない。今日のドラマも、作品としてはダイジェスト版の忠実なリメイクというふれこみ。そんなもん作品とさえ言えるのかねぇ。で、本来持っていた「伝えたい」熱気はあるはずもなく、フリーズドライをチンした料理のよう。でも、そんなことタツヤが出ているとすっとんでる。作品であろうがなかろうが、この興奮には関係ない。

・・・そんなわけで、フジワラタツヤ、君はちょっとすごい。

| | Comments (8) | TrackBack (0)

June 13, 2005

ラ・マンチャの男

幸四郎のはまり役、ラ・マンチャの男ドン・キホーテ。

アマデウスよりさらに、幸四郎の求心力。立っているだけで、ほんのちょいと体を傾けたり腰を落としたり、そんな所作の軽やかで美しいこと。最高に力を持っているのは、声!高い張りのある声、低い深みのある声、七色の声を使い分け、聞く者観る者の快感を誘う。「見果てぬ夢」の一番高いところが出ていなかったのは残念だった。10年前に観たかったねぇ。それでも、彼が出ているだけで舞台を楽しめる、希有な役者です。今週のステージ3連ちゃん、いずれもさまざまに楽しめた。まさしくゴールデンウィーク。

もうひとつ、アマデウスとおなじこと、卒塔婆小町とおなじことがおきていた。
舞台の残酷さ。
卒塔婆小町の高橋洋、アマデウスの染五郎、ラマンチャの松たか子、3人とも天の与えた容姿を持ち、努力も感じられ、下手ではないはずなのに、私が舞台の上の彼らに視線を置き続けられない。
凝った演出が施されているのに、彼や彼女の存在が舞台の上で輝かない。
舞台の神様は残酷です。

藤原竜也が立っているだけで、私はもう他の者が見えなくなるし、幸四郎がほんの小さな所作をしただけで、視線が彼から離れなくなる。舞台とはそういうものだ。BYJのように恋をしてしまうわけではないのに、舞台はオーラを持つ者だけを際だたせる。

幸四郎のサリエリにタツヤのモーツァルト、観たいよねぇ!!!!!

人には、天が与えてくれている何ものかに応える努力の方向が、それぞれに決まっているのではないか。
彼を、彼女を、最高に輝かせる努力の方向が。努力は量でも質でも方法でもなく、その「方向」が一番重要なのではないか。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

June 11, 2005

桜姫

2005年6月9日。渋谷コクーン劇場。はじめての歌舞伎体験。

とにかく、一度歌舞伎を見なきゃ。と感じ続けて半年。やっと、念願かなった舞台が通も注目の2年ぶりのコクーン歌舞伎。それがどんなものかも知らずに。今をときめく勘三郎が勘九郎時代に育てた現代アレンジを加えた華やかな舞台、しかも今回は勘三郎の息子2人も準主役。いやぁ、見たかった七之助まで出ると数日前の予習でやっと知る有様。

そんな不真面目な観客のわたしが、3時間堪能しました。歌舞伎にはまる人々の気持ちがよくわかった。(これははまり始めているということですね)とにかく脚本がおもしろい。よくできている。「初恋」で脚本の良い作品の快感を味わったばかりだったので、再びホンの面白さがもつ力に、納得。

桜姫の中村福助は、きれいと言うよりも女っぽくて、硬質な美を求める私には美しさが足りなかった。でも、女の持つかわいさやあどけなさ、そのしたにあるあくどさ、あざとさをよく演じていた。
扇雀の長浦の局は圧倒的にうまかったねぇ。女が演じるよりも観客を快適にする歌舞伎の魅力がよくわかった。清玄を演じる橋之助はきれいだったね。権助との二役で、権助の粋な悪役もうまかった。とにかく「脚本も役者もうまい」快感を堪能しました。

七之助はこれから、ですね。海老蔵をこれはやはり絶対に見なくては。

桜姫を見るなら、玉三郎だったな・・・と、もうこんな欲を出している。


| | Comments (1) | TrackBack (0)

June 08, 2005

初恋へ

昨夜Vol.21、22をもう1度見直す。夜中の2:30まで。睡眠時間4時間弱。それが少しも辛くなくて。
DVDBOX購入申し込み。5万6千円。それが少しも惜しくなくて。

もちろんそうなのです。ひとは、だれでも、「時間も金も全く別の物差しになってしまう何か」を持てる。
そして、それを持てた人は、自分のしあわせの扉を開けられる鍵を手に入れた幸運な人たち・・・私も仲間入りをしたのです。

見直して、どの俳優も好ましい。
無論、チャヌがかっこいい。
スーツに身を固めて、冷たい表情のチャヌが、出てくるワンシーンごとに、かっこいい。
このドラマ終盤の疾走感。その心地よさ。チャヌがつくる疾走感なの。
チャヌとイ会長の対決。これは2人の戦いの物語だったのだ、と、初めて気づいた。このドラマが2人の戦いの物語だと気づかぬほど、今までチャヌとヒョギョンの父の力の差は大きすぎた。何度もチャヌがリンチされ、チャヌがはむかい、戦い続けた。主人公の2人の愛と対比されていたのは、チャヌとヒョギョンの父との戦いのドラマだった。

知恵、誠実、暴力。
チャヌは知恵、チャニョクは誠実を、イ会長はが暴力。
チャヌ(知恵)は暴力とつながり復讐へひた走る。イ会長の暴力は彼の家族への愛(誠実)を理由にする。暴力の誘因力は大きい。それでも、物語は、チャヌがチャニョクと決別せずに終結するのだ。
チャヌとチャニョクは、離れなかったね。誠実は知恵へ手をさしのべ、知恵は誠実に応える。そこにしか救いはない。

チャヌ、しばらく私は他のBYJを見たくない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 04, 2005

初恋 ラスト

終わりました。爽やかな放心。長い作品だったので、終わったら呆然と放心状態におちいる、悪くすると「冬ソナ」のように結末に納得できずに落ち込むのでは、と不安があった。しかし、予想を心地よくはずしてくれた良いドラマでした。終盤にゆくに従って、脚本の良さを随所に感じる至福を味わいました。役者もシナリオも良かった。どの役者も、性格が深く書き込まれたシナリオの元で良い演技をしていた。わたしは、この作品のBYJが、というより、チャヌが一番好きかも知れない。チャヌの葛藤と成長がBYJ自身と重なって、いとおしくていとおしくて。

何が一番正しいのか、人がきめることはできない。ただ、懸命に誠実に周りの人々にも自分にも正直に生きるしかない。悪役のワンギやイ社長さえ、最後はこの人もこの人なりに懸命だったのだ・・・と納得してしまえる。最後はどの登場人物にも愛着を持ってしまえる、実に幸福な作品です。

そして、最後のメッセージ、運命の愛よりも無償の愛を結実させた脚本に脱帽。

すべては、チャヌがいればこそ、なのです。チャヌだけが戦い続けた。幾度もリンチを受け、兄の別離や障害に兄以上に傷つき、復讐を生きるエネルギーにとして。それなのに、手にした復讐の実現を目前にして、その果実を手の中からこぼさなければならなかった。川の水に浸かって泣く彼のいとおしいこと。
作品はもう一つのメッセージ、「真の復讐は許すこと」を、チャヌに託したのでした。チャヌは最後の決断で彼自身の地獄からも救われたのでした。

前半、中盤、終盤と、3様に楽しめました。ぐれたチャヌも、司法試験をめざすカイブツのチャヌも、クールなビジネスマンのソン室長のチャヌも、みんなカッコ良かった。家族を愛する彼も、ほんのときおり友達とたわむれて見せる優しい可愛い素顔も彼も、みんな素敵だった。BYJをほんとうに楽しめました。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

June 03, 2005

初恋 ラスト前 2 

Vol.17~19 ラストに向かってますます面白くなってきた。

チャニョク、ワンギたちに追われてトラックにひかれ、意識不明。
チャヌは看病と治療費、家族の生活のために司法試験2次試験を諦める。
ヒョギョンはチャニョクが事故で死んだと聞かされ、傷心のままパリのソクチンのもとへ。

言ってることもやってることも、ただただ自分勝手でわがままなヒョギョンが、涙を誘うのはなぜ?
愛という理由で、どんなわがままも許されるのが虚構の小説や映画やドラマの世界だから?
この作品の狂言回しは「チャヌ」で、チャヌにとってヒョギョンはいつまでも初恋の、諦めなくてなはらない初恋のひとだから、だから、ヒョギョンの愛はどんなにわがままで自分勝手で周囲の人々を不幸にしても、許される。ほんとに、これは脚本の勝利だと思う。

兄を思うチャヌの苦しみ。ワンギたちからリンチを受けるのもいつもチャヌだった。ワンギたちのために重態になった兄の姿を見なくてはならないのもチャヌ。体にも心にもいつもたくさんの傷を受け苦しみを浴びるのはチャヌ。司法試験の夢が消え、家族を1人で支えるのもチャヌ。すべての重荷を愛の報酬なしにただ家族への思いだけで背負ってゆくチャヌ。何で1人でこんなに頑張れるの?兄や姉や父との強いきずな、ドンパルやヒョンギをヒョンと呼んで頼りにできる兄弟型の友情?

そして、Vol.17からのビジネスの世界へはいったチャヌのかっこいいこと。貧乏で屋根裏で勉強しているチャヌもいとおしいけど、スーツを着た若き日のBYJ。チャヌのすてきなことったら。シン・ドンヒョクやユジンを得るために闘うミニョンと同じ、あの、BYJ。もう、出てくるたびに「チャヌヤァ」と口にせずにはいられない。シーンごとにスーツ姿がグレイドアップしてゆく。う~ん・・・。BYJがこの長い物語の中でチャヌと同じように成長していったのがよく見える。回想シーンで大学の放送部の喫茶店をソッキを尋ねたときの冗談言ってるチャヌのかわいいことったら。表情のひとつひとつがチャヌになってゆく。チャヌ、君はカッコいい。

シンジャがいい。脚本に沿って、ただのお邪魔娘が無償の究極の愛を貫くまでに成長してゆく姿がよく現れている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« May 2005 | Main | July 2005 »