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July 2005

July 10, 2005

悔しい

7時40分着。悪い予想よりは並んでいる人は少なく、ざっと15人。大丈夫と思った。2時間半、余裕の気分で階段に腰を下ろし「アメリカの秘密戦争」(ブッシュの戦争チェーン)を読んでいた。10時受付開始。14番目。10時15分にはカウンターで入力してもらえるだろう、どう最悪を予想しても開始30分は大丈夫だろうと思って。10:13希望日が「もうありません」10月の平日木曜日一番希望が集まりにくい日で?そして数秒後に目の前で「全日程終了しました」。こんな経験めったに出来ない。ほんの数十秒のあいだに目の前でおきたこと。

あと30分早く並んでいたら。と思考したのは数時間たってからかも知れない。
出かけるときにこう考えた。きのう並ぶところを聞き、下見をし、私としては充分するべきことをした。今朝出る前にこの時間にたくさん並んでいてとれなかったら、人事を尽くしたとして諦めるよね、と。そこまで、正常に行動した結果が、この悔しさ。これはねぇ、私の人生で初めての経験かも知れない。納得ずくで行動した上で自分の行動に強烈に後悔。

徒労に終わった自分の行動をどう考えるべきかも思いつかず、徒労からくる疲労で、日曜日の休日を1日棒に振り。

頑張りが足らずに駄目だった後悔って、ねぇ、48年間の人生で初めてかも知れない。人生の何かを変えるような経験かも知れない。

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July 03, 2005

藤原竜也・大正四谷怪談

1999年舞台のDVD。

舞台作品を映像画面で見るのは無理がある。舞台の持つ自由な空間の広がりを肌で感じることなく、私の呼吸と舞台上の呼吸が一体となり得ず、視点の自由さえ奪われて。他の時間つぶしよりはドラマ性を楽しめる、そのくらいのものだった。

昨年、DVDでタツヤの「ハムレット」を見た。衝撃だった。彼の芝居が「無理」を軽く越えてしまったことが。
今日の「大正四谷怪談」は6年も前の彼のごく初期の芝居で、この作品にはまだ「無理」を感じるだろうと思って見た。

はじめの「ダンス」とそれに続く10数分間には、「無理」があった。「伊右衛門」に求められる年齢よりもはるかに若い彼が演じる無理と、彼自身の役者としての未成熟な「生(き)」の感じが、生の舞台だったら勢いでとばせたかも知れない違和感を感じさせたのだろう。「映像画面」ゆえに、実際よりも誇張されて。

それなのに、2度目の経験をしてしまった。舞台作品を映像画面で見る不自然さを、彼はここでも越えた。「舞台における希有な才能」。本当にそれしか言うべき言葉がないのかも知れない。

ここでも彼は作品を完璧に理解している。彼の話す言葉はどれも実に美しい。戯曲の作者が血のにじむおもいで紡ぎだした言葉であればあるほど、彼は自由に完璧に発する。シェークスピア、三島、鶴屋南北を下敷きにした岸田理生・・・セリフだけで進行する作品であればあるほど、彼は輝く。

不思議です。彼に言葉への感受性と知性を感じ続けている。だから、ダンスは必要ない。彼の「悪」は美しいだけでなく猛烈に悲しい。彼から発する光を浴びて、舞台の上の誰のセリフにも涙がぼろぼろと落ちる。作品に対して泣いている自分。彼は、彼の発する言葉を通じて、人の存在の美しさと悲しさを痛烈に伝える、希有な役者です。

本屋で立ち読みした雑誌にたまたま山本耕史と藤原竜也の対談記事。「セリフの意味が分からないでも言っていることがよくある」山本耕史と、「わからないと演じられない」タツヤ。私が何となく感じていた2人の違いがよく出てる。状況への抜群のカンの良さで役者をやっている山本耕史は、私にとってはキムタクと同じ。きれいだけれど知性がない。大正四谷怪談を山本くんがやればそれは美しいイロケのある伊右衛門だろう。通俗の極みの悪はきれいだろう。情として、哀しく、哀れだろう。けれど、今日泣いたわたしはいない。存在の美しさと悲しさは彼には演じられない。その違いは言葉への感受性と知性の有無なのだ。

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