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September 2005

September 30, 2005

加藤健一・審判

下北沢・本多劇場

迷路のような街で、帰りの電車に乗り着いてもまだ、方向がつかめていなかった。

2時間半休憩なし、加藤健一の強靱な肉体と意思、伝わってくる一番大きなものはそれだった。
追いつめられた極限の状況が、2時間半、彼の独白のみで進行する。観客の目の前にいるのはひとりの役者だけ。しかし、つぎつぎに彼が語らう者たちが観客の目の前に現れ、苦悩し、いたわり、震える。

しかし、彼の志と、演劇への強い思いとは別に、作品のはなつメッセージが現代の日本に響かないと思った。
この作品の最も大きな前提は、観客が審判者として存在しているということだ。そして、彼の告白を裁くはずの者たちが、その欺瞞をいつの間にか裁かれる側にたつ、ということこそ、告発であり、審判なのだ。そのための重要な要素がキリスト教世界の罪と断罪。しかし、日本人にとって、それは断罪するべき罪なのか。
人の肉を食して生き延びることを、絶対に認めないであろうキリスト教倫理観と自らの肉をさしだす仏教的救いと、その落差を思った。

現在の日本で同じ素材を扱うとしたら、むしろ、罪の意識に苦しむ主人公へのおそろしいほどの無関心がテーマになる。優しさと赦しを装った無視と無関心。それが、今の日本であぶり出すべき悪意。

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September 23, 2005

亀も空を飛ぶ・四月の雪・BYJ

少し予想外の出来ごと。

2本の映画による2つの幸福感に満たされる夜のつもりではじまった1日が、
2つの「とどけないもどかしさ」で、知恵の輪を置いて指先に神経を集めるような夜になっている。

イラン人監督による北部イラク(クルド人居住区)の少年たちの生活を描いた「亀も空を飛ぶ」。
登場する子供たち全員が現地の素の子供たち。彼らを役者と呼ぶべきではない。どんな俳優もこういう子供たちには勝てない。ドキュメンタリーに近い寓話のなかで、彼らが生きる状況そのものに圧倒される。ほんとうに生活の基盤がすべて破壊され、人間が殺され尽くして、まともな大人は村に残ってないのだろう。子供たちは地雷を掘って売りさばき、生活に必要な現金をかせいでいるのだろう。女の子は兵士にレイプされ、産まれてしまった子供を憎みながら弟といつわって生活しているのだろう。そして、少しの英単語とTVアンテナを建てる知恵と、先を読み仲間を仕切る力に長けた人間がいれば(それが子供でも)、たくさんの為すすべのない者たち(子供、村の役人、長老たち)が、生き延びてゆけるのだろう。

こうして言葉にしながら、映画が語っていた事々を解きほぐしていって、やっと柔らかい感情がにじみ出る。
それにしても、徹底的に男の視線にたった映画なのだった。自分の産んだ子供を、自分自身と子供の酷い状況から解き放つために殺す少女。主人公の少年が少女に恋心をいだいても、少女の側に優しい感情は生まれない。少女の傷を癒す場面はひとつもない。少女は1度も笑わない。だから、乾いた気持ちのまま見終わってゆく。その社会では、女たちはさらに1段下の絶望的な状況にいるのだと、思い知らされて。

あまりにも乾いた感情で終わったあと、潤いを感じたくて、四月の雪のBYJに会いに行った。

・・・・・会いたかったBYJに会えなかった。

妙な物足りなさに気持ちが沈んだのはなぜだろう。1回目に見たとき、シーンとシーンの間に気持ちが集中しながら感じた興奮を、今日感じられなかったのはなぜだろう。見る時によってにこんなに感じが違うのは。
BYJに会いに、癒されに行った、そこで間違った?

これは映画ではないと、わたしは言ったよね。そう、この作品は「シーン」を繋げていった映像作品。観客のために見え方をあらかじめ計算(考慮)してつくられてはいない。

ゴッホが、彼が見えたものを彼が描きたいままに描いたように、ホジノも、彼に見えたシーンを彼が切り取りたいままに繋げている。ホジノが切り取りたかったシーンの中に存在するインスだけを見せている。

ゴッホの絵が絵として破綻しているように、この作品も映画としては破綻しているのかもしれない。

1週間前は、ガラガラのお台場の映画館のシートに無心に座り着いた。今日は、渋谷の喧噪と彼のファンとそれを揶揄する世間の視線にかすかに嫌悪を抱きながら、混み合った映画館の座席に無理矢理座った。
映画を受け取ろうとする気分が全く違っていた。見る側の気分でそれほど見え方が違うのだとしたら、観る者にそこまでの繊細さを求めるこの作品は、映画ではなく、絵や陶磁器や詩と同じ筺に入れるべきもの。

どうすることも出来ない孤独。だれかに寄りかかりたくなるゆれ。そういった切なさを、もちろん味わうことは出来る。
だけど、この作品の最大の魅力は別のところにある。「さあ、あつめられる証拠写真はこれだけです。これだけしか集められなかった証拠写真をあなたはどう繋げてどう想像しますか」という「乱暴な」語り口。この作品の魅力はそこだ。役者の演技は必要ない。俳優はおきてしまったことの証拠写真にうつる人間として必要とされているだけだ。観客が求める心を揺さぶるような情緒的な映像はすべて捨てられてしまっていても、不思議ではない。シーンをつなぐだけの連続を魅力と感じるか説明不足と感じるかで、見終わったときの満足感は正反対になる。そういう作品。

この作品は役者のための作品ではない。BYJのファンで本当に満足できる人はそんなに多くないかもしれない。かれの魅力を存分に味わえる作品ではないもの。

BYJはファンたちの前で、役者を演じている。
わたしは、役者を完璧に演じようとしている彼が、役者として演じるキャラクターに、気持ちを落下させる。
ホジノとの作業で彼は、今までしてきたことを捨てなければならなかった。役者を演じないでキャラクターにならなければならなかった。彼にとって苦痛だった・・・でも、きっと、かれはそれも完璧に役者を演じるために必要な過程だったと思っている。そんな気がする。

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精神の作業。

覇王別姫の舞台を美しいと感じられなかった。光の連続なのに退屈だった。退屈さは凡庸な演出の結果でした。

お台場の結婚式場はまるでTVドラマだった。チャペルに入る光線、チャペルの前を降りる階段に現れる花嫁と花婿、パーティー会場は庭(なぜそれをわざわざガーデンと呼ぶ)に面して開き、パラソルの下にデザートテーブル。
はじめから終わりまで、終始圧倒的な勢いで襲ってきたのは、安っぽさだった。あれほどあふれる安っぽさの連続は経験したことがなかった。ハウステンボスもUSJもTDLも、すこしは本物になろうとする背伸びがあったが、あの結婚式は自分を本物のおしゃれであると信じ切ってる、自己を疑うことを知らないニセモノの匂いばかりだった。ウィーンの教会の静謐と豪華を堪能してきた私に、あれを味あわせるのは、私にとっても対象にとっても少々残酷だったと思う。

自分がニセモノかもしれない、とうたがう。自分のいる場所がニセモノかもしれないと疑う。見えていないものの存在を意識し、聞こえていないことを自覚する。だから、目を凝らし耳を澄ます。想像する。知的ということは、精神の作業です。

「スチール写真が映した戦後60年間」、社会派のドキュメンタリーを見ながら、涙がぼろぼろ落ちて、自分の美意識を知った。自分はこれを美しいと感じていると。50年たっても消えない朝鮮戦争捕虜の入れ墨をけずった傷。戦争がおかした愚劣の証拠。醜さの数々。もちろん、醜悪な行為を美しいと感じているのではない。正当化された記録にかくされている醜さを「知ろう」とする意思、それを美しいと感じているのだ。人間の持つ醜さに怒る、そこには知性の原石がある。

感受性の切っ先は、いつも、尋ねている。彼が彼女がその出来事が作品が、自身の正当性を疑ったかを。精神の作業をしたかを。

感受性がOKを出したとき、美意識が落下してゆく。

明日は岩波ホールに「亀も空を飛ぶ」を見に行こうと思う。

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September 20, 2005

四月の雪

昨日見たばかりの映像を、今日の明け方夢の中でまた見たがっている。

BYJ主演の映画だからではなく、この作品が求める観客のひとりは私だと確信を持てるからだ。

この作品は、多くの「映画で楽しみたい映画ファン」を、拒否しているようなところがある。

絵が好きだったり、焼き物が好きだったり、動かないものへ自分の感情が落下してゆく曲芸が好きな人の心は、こ
の作品の中に入る。自分の感情を見つめているもうひとりの自分を少し苦々しく意識している人間に、この作品はたまらなくおもしろい。ぶつぎれのカットの間にあるあふれるるほどの感情。あえて語らないシーンの連続は、語り尽くすシーンの連続に等しい。

しかし、そんな観客がどれほどいるだろう。映画が好きな人々の中に。一般的な映画として考えれば、この作品が酷評のうけても不思議でない。

映画に観客が求めるのは観客の感情を噴出させる作劇。楽しい、悲しい、ナミダ、怒り、幸福。日常から飛び立てる時間。それが要求されていることだとしたら、この作品は反則だと思う。感情を強引に引っ張ってくれる優しい手はひとつも用意されていない。

作品に対する拒否的な評ばかりを見ると、自分の「好き」に自信が揺らいだりもする。自分のテリトリーになかった映画という分野に、絵や舞台とは違い、確信がない。うつくしさへの感じ方に確信はある。他の人が感じていなくても私には感じる、という確信。でも自分の要求基準が映画の世界のメジャーではないこともわる。

要するに、この作品は映画ではないのだ。詩か、夜に見る夢か、1枚の絵・・・。それを私は何度も反芻する。そう、なんども反芻できる余白のある作品。反芻する幸福を与えてくれる作品。むしろ普通の映画にはそれが無くて、映画の作劇の強引さがわたしには苦手だった。

BYJは私を裏切らないと、思い知った幸福。
世の中のあきれるほどの彼のファンのひとりでいることに、メジャーになるはずのない私はとまどっていた。しかし、彼の存在の美しさを、この作品で感じることが出来る人はごく少数だろう。だから、安心して私は彼が好きと言える。自分だけの美意識で確実に彼を見ていると、確信できたから。

作品のシーンのひとつひとつについて語るのはもう1回かもう2回か見てからだろう。
妻に妻の不倫相手(妻が本当に愛している人間)の死を告げたあと、号泣する妻の声を聞きながら部屋を出る。バスルームに立ちつくすソヨンが「ケンチャナ」と言い、彼女を黙って抱く。妻の携帯のパスワードがわからず携帯を投げつける。ひとつひとつのシーンが美しい。BYJが美しいのではなくて、シーンが美しい。シーンが美しい中に彼がいる。初めて彼をそんな風に見ることができた幸福を、ホ・ジノ監督に感謝している。

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September 18, 2005

覇王別姫

上海から来たバレエ&中国史劇。

「踊り」系は観劇料金がとにかく高い。たくさんの踊り手が必要なのだから仕方がないのだけれど。今回は音楽は生オケラではなくてテープで、それはちょっと興ざめではある。

よかったのは女性プリマ(虞美人)とすう(項羽の愛馬)役の男性ダンサー。

振り付けと構成が凡庸で、退屈だった。
わたしは、美しいものが見たい。美しさは知的インスピレーションと神が降り立つ奇跡の上に、湧き立つ。
今日の舞台にはそのどちらも感じられなかった。
それなりにきれいな群舞や照明。でもそれだけ。

数日後に新聞にカトケンの「審判」の記事。「この作品をやりたくて事務所をつくった」というそのコメントだけで、この作品に私が共鳴できる美しさがあることを感じる。

美しさを積んでゆこうと思う。美しさを感受できる自分の生きたしるしを、そこにだけ残そうと思う。私と彼らの秘密で良い。

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September 11, 2005

徹子の部屋・BYJ

わたしは、俳優としてのBYJが、好きで、いえ、BYJが作品で作り出す人物が好きで、今まで毎回彼が演じる人物にすとんと恋してきた。

だから、素顔のBYJには恋していない。
その理由を今日納得した。

彼は外見も心も完璧にいい人なのです。こんな人が本当にいるなんて。
神様は彼を聖職者(神父か牧師か)になるようにつくって地上に送り出したのに、俗世の地上は彼を神父とか牧師なんかにはさせずに俳優にしてしまったんだなぁ、と。
聖職者には恋愛できません。しては、彼を苦しめることになります。特に神父は。

でも、彼は俳優になってくれたから、演じてもらいたい役があるの。
市井の人としてまじめに生きていた人間が、突然神の啓示を受け、女たち子供たち病人や社会に捨てられた人々に神に愛されていることを教え語る。しかしそれは秩序を壊すこととされ、かれは秩序破壊者として追われつかまって処刑される。その彼には彼を慕う人々とは別に愛する妻がいる。彼は妻を苦しめる生き方になってしまった自分の人生に苦悩して神を恨む言葉を発してしまう。処刑されたあとやっと妻は彼を自分だけのものにしてかたわらにおくことができる。イエスとマグダラのマリア。BYJのためにあるようなストーリーだと思いませんか。

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September 10, 2005

ドレッサー

パルコ劇場。イギリス第2次大戦戦時下の劇場が舞台。老いて演技が危ぶまれる俳優と俳優を支え舞台へ送り出すドレッサー(付き人)。

リア王を演じる老俳優に平幹二郎。俳優の世話をする「忠実な」ドレッサーに西村雅彦。

ヒラミキの圧倒的な存在感を堪能。彼もまた七色の声七色の表情の持ち主だった。年老いて最初のセリフを確かめても確かめても忘れ自信を失った哀れな老人が、鏡の前に座り化粧を始めたとたんに目に光が射し口元に傲慢で不遜な笑みを浮かべる。彼を気遣うドレッサーをののしり、使い走りをする小娘に色目をつかい。

老俳優のわがままに18年間つかえつづけたドレッサーは、俳優の自尊心をくすぐって彼をほめあげ、ありもしない観客や妻の絶賛の声をつたえ、舞台監督や妻の地位をねらう小娘や夫への嫌悪を募らせているだけの妻を俳優の空間から追い出し、彼を観客の前に送り出す。

イギリスの階級差は根深い。俳優にとって付き人は人間として数えない召使いでしかない。
そして、俳優を客の前へ送り出せるのは自分だけであるという強烈な自負心がドレッサーをささえても、その心の下には見下されたものの持つ憎悪が隠れている。自分さえ気づいていない憎悪。

脚本は完璧に私の好み。ヒラミキは観ていて楽しかった。俳優をたっぷり楽しむのが演劇の幸せ。その幸せをかれは十二分に観客に与える。

しかし、完璧な脚本からなる作品の意図を、プロデューサーは、演出家は、そしてドレッサー役の西村雅彦は、理解していなかったと思う。西村雅彦は下手な役者ではない。器用にたくさん動き長ぜりふを連ねた。でも、彼の持ち味の軽さや表現しようとしていたと思われる洒脱さは、この役には不向きだったように思う。彼のたくさんのセリフや所作が、ドレッサーを召使いとしか扱わない俳優とぶつかってゆかない。だから、小さな携帯用の酒瓶に入れた酒を飲むドレッサーに意味を与えてくれない。老俳優を演じるのがもっと軽い役者だったらうまくいったかも知れない。石坂浩二とか宇津井健とか。ただ、老衰と色ぼけ欲ぼけだけの老人を演じていたら、ドレッサーの軽妙さが引き立ったかも知れない。しかし、ヒラミキの厚みある演技と存在感には「軽妙さ」は太刀打ちできなかったと思う。

老優が死んだとき、「このあと舞台をどうするんだろう」と思った。ステージのベッドの上でヒラミキは圧倒的に「死んで」いる。彼以外の役者がいろいろとしゃべる。長い舞台だったからついうとうととする。それから、西村雅彦のドレッサー(付き人)がドレッサー(鏡台)の鏡に向かって何かしら言って。それがラストシーン。
えっ?! ラストは主役で終わらないと、だめでしょう。

しばらくして、主役はドレッサーだったのだと気づいた。そもそも題名がそうなんだから。なんで、そう思ってみていなかったのか。老優という存在が失われてからの時間は舞台の上に緊張感が高まるべき時間だった。ついに老優という暴君がいなくなったときに本当の主役が姿を現すその瞬間がラストシーン。しかし、そう受け取れずに幕が下りてしまった。西村雅彦は最初から最後まで「主役」を演じられなかった。これもまた舞台の残酷。

それでも、「金返せ」の不満はひとつもなかった。舞台らしさを充分味わった。役者を味わい、舞台の成り立ちの底深さを知った。演劇を充分味わって楽しめた夕べだった。

はねてから、一緒に観た友人と会話。
「真田くんにやらせてみたいね」「根深い階級差ではなくて、主従に男色の気配が出て日本の観客にはそちらの方がよくわかる」「座長夫人を大竹しのぶ。3人の濃密な舞台。」「観てみたい!」
ただし、観る方にも気合いと根性が必要。

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