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October 08, 2005

天保十二年のシェークスピア

2005年10月6日 シアターコクーン。

電話1時間、早朝にビルの外階段で2時間半、TDLを3時間抜けて、タクシーをとばすこと2000円、駅通路で1時間半。チケット獲得のなかで他に類することのない燦然と輝きを放つ努力の結果を握りしめ。前から6番目左側の座席は、劇が始まってみれば、タツヤの立ち位置のほぼ正面。すてき。

これはつまり、ニナガワの70歳のご祝儀舞台。おそろしく豪華で絢爛でかっこよく老練で芸達者な、「楽しもう」を全面に出した大人のための大人の学芸会。

自分が志した世界で功成り名を遂げた人が、これまでの世に出した作品たちを言祝ぐための、舞台。

脚本自体、シェークスピアの全37作品を1つにパロディ化すること、つまり高度な遊びが目的。さらに演出家が使いたい役者をオールキャストする遊びが加わって、豪華な学芸会が実現したわけです。

白石加世子さんはかわいい役者ですね。出る場面出る場面「出たな妖怪」なのですが、この舞台のもっとも重要な要素を理解し尽くしている。妖怪のかわいさ、老婆のかわいさ、魔女のかわいさ。舞台の求めている表現を的確に演じ、素材、味付けどちらも言うこと無し。

比べると夏木マリはまだ、白石加世子さんの域には達していません。彼女の方が美人なのがマイナス要因になっているのでしょうか。性悪な次女お里を上手く演じていましたが、悪巧みをしながらもマクベエが主を裏切り悪事にはまりこんでゆくようになった色香と女の可愛さ、これをちらっとみせて、どきどきさせて欲しかった。お里の軽さだけが目に付いてしまった。マクベス夫人はやはり大竹しのぶにやってほしいです。この役には軽妙なずるさの中に観客を一緒に悪巧みの沼に入り込ませる女のかわいげのおそろしさがあると面白い。

高橋恵子さんは、これが彼女の最大限と思います。花見の場面で死ぬのですが、その直前に弁当の団子らしきものを食べ続ける演技は、演技とは思えぬおかしみがにじみ出ていました。舞台には、彼女のような美人がとにもかくにも必要ですから、彼女はその必要に充分応えてくれました。しかしながら、松坂慶子サマがこの役を演じれば、さらに舞台に興が添えられたのかもしれません。

ヤクザの親分子分衆は、顔の演技を極限までなさっていて、みるものを楽しませてくれること大でした。

高橋洋くん、今回もタツヤにからまないように「彼の場面」を用意してもらって正解でした。短い場面でしたが高橋くんの可愛さを他に邪魔されずに味わえました。彼は長丁場を引きつける役者としての「地力」には欠けるように思いますが、短いサビの部分を聞かせる力は十分ありますね。顔立ちのきれいな、演技にくさみのないいい俳優さんです。

さて、いよいよカラサワくんです。三世次はリチャード3世です。わたしがこの(舞台マニア)界に入るきっかけを作ったあのリチャード3世です。ですから、どうしても、役に対する要求水準が高くなります。しかも、この作品の主役。となれば当然、高いところを要求します。
カラサワくんはせりふも立ちも見苦しいことが1つもない役者さんです。三世次のぎらぎらした目の輝きを観客の正面から見せる表情も申し分ありません。親分、兄貴分を陥れる巧妙な嘘の小ずるさ、夫を殺され三世次を敵と憎むお里を口先の言葉1つで心変わりさせるたくみさ、どちらも見事でした。しかも、人間の心にある醜悪な悪事をこの舞台が求める軽さで演じていました。それはブラボーと言っても良いほどでした。
しかし、・・・・しかし。

カラサワくんの三世次には崇高さがありませんでした。ニナガワさんがそれを拒否したのでしょうか。崇高なシェークスピアを猥雑な任侠劇に仕立てて、人間の軽さと、悪事の持つ愛嬌を全面に出そうと。カラサワくんはその演出意図に忠実に従った・・・けれど、演出家の意図を役者が超える瞬間を、観客は見たいのです。いえ、わたしは、見たい。リチャード3世はすべての観客を敵にまわす主役です。すべての観客を敵にまわしながら主役で居続けるのは、人生の絶対的な哀しさ、人間の心から悪は無くなり得ないという真理を観客に突きつけるからです。だから、彼を見ている者たちは彼から目をそらせなくなるのです。カラサワくんの三世次には、それがありませんでした。脚本が要求していないのでしょうか。演出家が排除したのでしょうか。彼は、天才系の役者ではあちません。上手い、格好のいい、器用な俳優さんです。けれども、演出や脚本の意図を超える、神のまたは悪魔の瞬間を持ち得ない。これだけの雑然とした大舞台の主役をするには、もっと強烈な何かを見せて欲しかった。

そして、タツヤ。
舞台終わりのあいさつで、タツヤはかわいかったねぇ。かわいいねぇと、つい言葉が口から出てしまうほど、かわいかった。またも、彼は作品の意図、演出家の意図を完璧に理解していました。狂気を軽く、お手軽な色恋を愛嬌たっぷりに、すべての観客が楽しめる「生きるべきか死ぬべきか」のパロディを軽々と、演じていました。でも、それだけでは終わらなかった。
賭場の片隅に立つ姿の美しいこと。舞台上の他の役者たちによる進行が、彼の周りだけ止まっている。父の死の真相を知って狂気を装い女ぶりをしてすわる媚態。女役もやらせたい!スポットライトを浴びているのではないのに、彼が光を一身に浴びているように見えるのでした。ただ楽しいだけの学芸会ではない、見る喜びを味あわせてくれる、4時間の舞台中唯一人彼だけが、「うっとり」をくれたのでした。

篠原涼子さんについては、とくに言うことはありません。高橋恵子さんと同様、舞台には若い綺麗な女優さんが必要です。長丁場を懸命に演じていました。

ただ、もしも、お光とおさとの二役を篠原涼子さんでなくタツヤにやらせたら。

作品は全く変わるでしょう。父と恋人と双子の妹と夫を殺された、ひとりの美しい娘(すじとしては双子の2人の女ですが)の4重の復讐劇。それが物語の縦軸になります。つまり、主役が作家の意図を超えてしまう。底辺で生きる百姓たちの叫びと、さらに踏みつけられる女の切っ先鋭い復讐が二重になって、それは美しいラストシーンになることでしょう。4時間がどきどきしっぱなしの作品。考えただけでも、わくわくします。

・・・ニナガワさんは今回の「成功」を壊すような冒険は、しないでしょうか。

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