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February 2006

February 19, 2006

マラーホフ 眠れる森の美女

上野 東京文化会館

文化会館は4列めまでは段がないので、4列めは前の人の頭が一番邪魔になる席でした。

日本人のバレエダンサーたちは、正確な美しい踊りで、ヨーロッパのダンサーに遜色ないと感じました。

オーロラ姫の振り付けは、回転と静止の連続で難度の高さを感じさせましたが、演じる吉岡美佳さんは振り付けの要求に良く応えていたと思います。回転の軸が少々ずれること、静止がややぐらつくことは、かえって、その技が非常に高度であることを、初心の観客に知らせてくれました。

マラーホフのジャンプはまったく音をさせない優美な着地で、目を奪いました。高さはそれほどではありませんでしたが、手足の伸びやかさと着地の美しさは、さすがでした。

眠れる森の美女は、メルヘンの世界を堪能させる衣装とダンサーたちの踊りが楽しい演目です。バレエって楽しいと素直に感じられて、14000円は高くないと思いました。

さて、そして、わたしが思ったことは、バレエもサーカスの一種であると言うことでした。ダンサーの神技を観客は息をのんで観たいのです。音楽と衣装が美しさを演出するその真ん中には、ダンサーの人間業を越える一瞬の連続。舞台の中心に神と悪魔がひとすじになって降り立つ瞬間を。
バレエにも、サーカスにも、歌にも、観客の最も高い満足には天才が必要です。多くの上手な演じ手たちの中でなお、唯一の存在になる天才が。バレエで言えば熊川哲也、踊りの玉三郎、狂言の万作、シルクドソレイユの演じ手たち。かつてのサラブライトマン。

そして、もう一つ思ったことは、同じ舞台芸術であっても、演劇だけは天才を必要としない合意で成り立っているのだろうか、ということです。竜也は必要とされていないのだろうか、と言うことです。わたしたちは竜也の舞台をみたいのだけれど、演劇の枠の中にそれはないのかもしれない。少なくとも、現代演劇は、集団のアンサンブルの上に成立させられているもののようです。バレエを観て強く感じたことは、この舞台芸術は天才の出現のためにある、ゆえに、天才がめったに現れない以上、通常の公演にある種の退屈さが生まれてしまうことはやむをえない。

しかしながら、、演劇だけは、戯曲に感性よりも知性が求められる。つまり、頭で解釈して表現し、観客もまた、感性よりも知性で理解することを是としている。ゆえに、そこに、天才を必要としていない。美の奇跡を究極の目的としていない唯一の舞台芸術かもしれない。

しかし、その点に、現代演劇の不幸があると、私は思います。歌舞伎は美しいです。落語も、話芸の究極に美しさが表出する。テレビは美を追究しないでしょう。現代演劇もそちらがわにいったのでしょうか。しかし、そちらの世界に分類されるものになってしまったとして見ても、演劇は敗北していると思う。テレビや映像作品の生理的な刺激には負けるに決まっている。さらに真実を伝える映像の力には知的興奮という点でも及ぶべくもない。それは、クラウディアの最後の写真1枚で照明されていた。
舞台に美を求めないとき、在るのが知性だけだとしたら、観客は退屈する。
演劇は、格闘技のライバルとなる道を、むしろ進むべきだった。

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February 04, 2006

クラウディアからの手紙

クラウディアからの手紙

昨日、世田谷パブリックシアターで2つの発見をしました。

佐々木蔵之介さんは素敵な役者さん。彼は派手ではありませんが、ふわっとした意外に軽やかな華があります。このごろ端役でTVドラマでも見かけますが、舞台の方が良さが光ります。彼に自由に演技をさせたら、舞台が心地よく回転しそうなそんな予感をさせる役者さんでした。

それから、もう一つの発見は演出が舞台にとっていかに重要かと言うこと。
昨夜の舞台。役者がのびやかな演技をさせてもらえないあんな舞台を始めてみました。秩序はありました。演出家がやりたい通りの動させるための動作、発声の量、立ち位置の指導などは行き届いていました。演出家が言いたかったことは「邪悪なソ連という国家体制」と「真の日本人の高貴さ」の対比だったと思います。それは、よくわかりました。演出家が見せたいものは、わかりました。観客が見たいものを見せようと言う志ではなく。
でも、それって・・・。演劇をする意味があるんでしょうか。演劇「に」する意味はあるのかもしれませんが。

はじめのシーンから、後方の役者たちに無機的で統一された動きをさせていました。まるで、TVの画面上のCG映像のように見えました。あきらかに演出家の強い意図で人間たちが動いている。でも、あんな画像を見せたいのなら、映像作家になってPCでいくらでもコラージュすればいいじゃない。音響も無機的で破壊的な高音が折り重なってゆく。映画館のホラー映画の音響のように。それなら、映画を作ればいいのに。なぜ、この作品を演劇でつくったのか、まったく理解できません。

最後のシーンは決定的でした。作品のもとになった蜂谷弥三郎さんの写真が大きなスクリーンに映る。ながながと3時間近くも観客を拘束して芝居を見せたあげくに、はるかに強い力を持つ本物の写真。これをラストシーンに持ってくるなんて。これは、演劇の敗北宣言ですか。

一体何故、これを演劇にしたの? 
私は演劇の神さまに代わって、立って叫ぶべきだったでしょうか。

楽日前の舞台だというのに、挨拶に並んだ役者の誰ひとり晴れやかな顔をしていなかった。
それは、この3時間が、舞台をする意味を持つ行為ではなかった、と言うことの証しに思えました。

高橋恵子さんと齊藤由貴さん。この作品れを演劇にするつもりなら、キャステキングは逆だったと思います。
日本で待つ妻は、主人公にとって、明るくて歌が好きな芯の強い若い娘のような妻です。一方、ロシアで彼を支えた女性は、主人公にとって、人生の苦しみを嘗めたあとほんの少しの安堵を求め合えた、人生の後半を生きた女性です。彼女自身と彼を支えたのは彼女の若さではありません。人生の苦しみを知ってうえでなお幸福を求める彼女のいさぎよい強さです。最後に主人公は、彼の心の中では永遠に若くありつづけた妻の元へ、年老いたパートナーの女性を置いて帰ってゆく。クラウディアが年老いた女性だからこそ、彼が心の中に持ち続けた若い妻への思いを理解したし、彼を帰したのです。それが、まるで逆のキャスティングでした。日本人男性なら、やっぱり最後は若い愛人の元を去り、本妻の元に返ってゆく、という、そんなお話になってしまっていました。
逆です。男は苦楽をともにした女房より若い女の方が良いのねっていう話にした方が、はるかに演劇になり得たでしょう。2人の女優さんの個性も生きたことでしょう。

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