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March 11, 2006

ふたつの身毒丸 DVD

演出蜷川幸雄 原作寺山修司 脚本岸田理生 音楽宮川彬良 撫子白石加代子
身毒丸武田真治 
演出蜷川幸雄 原作寺山修司 脚本岸田理生 音楽宮川彬良 撫子白石加代子
身毒丸藤原竜也 

たったひとりの違い。演劇の最高の楽しみ。

原作者は、母親を渇望し続ける。
「おかあさん、もういちど僕を妊娠してください」
彼の心が出ることを望んでいない悪夢へ、彼は行きつ戻りつする。

演出家は、家にあるものと家にいてはいけないものを、同時に見る。
家には家の柱の父親があって、家の光の母親があって、親に従う子供たちがあって、ご先祖様が並ぶ仏壇があって、銀行にお金があって、家族の食事にちゃぶ台がある。「あれがあって、これがある」
女は家にいてはいけない。家に女がいれば、家は崩壊する。
壊れてゆく家に、「わしにはもう、家のハンコがないんだ。」と父親が言う。
家をくずした女に、「さあゆきましょう。忘れられるために出てゆくのです」と男が言う。

脚本家は、切ない恋を悪夢の中におき、家と男の間に撫子をおき、母親と女の間に身毒丸をおいた。
2人の想いは悪夢。しかし、悪夢は甘く、甘いは悪夢。まるでマクベスの魔女のように。
撫子が遠いさすらいから戻ってきた恋人にこたえる。
「もういちど、もうにど、もうさんど、できることなら、おまえを産みたい」

音楽と照明と大道具と役者たちは、回転舞台を回り続ける。悪夢の中にいる者たちは、悪夢を見ない。閉じられた甘美な空間が回り続ける。

白石加代子は、舞台をまわす巫女。
売られた旅芸人、買われた母親、恋に落ちた女、拒絶された夜叉、成就した恋人が、舞台をまわしてゆく。

そして、たったひとりの違いが始まる。ふたりの身毒丸に、ふたつの物語。作者も演出家も脚本家も大道具も照明も音楽も役者たちも巫女も同じなのに、作品はまったく別のものになる。

武田真治は悪夢から目覚めようとする青年。子供の夢を見たくない大人。
彼は幕が開いてから幕が降りるまでずっと、見たくない悪夢の中で、とまどい彷徨する。観客は自分が見せられている悪夢の輪郭をくっきりと、かれの苦しさを窓にして、見る。
「あの、つかぬことをうかがいますが、この近くに鉄道線路はないでしょうか。どう歩いても、線路がみつかりません。ねぇ、きみ、僕は迷子になってしまったのか」
舞台の主役は、作者と演出家と撫子。舞台が終わったとき、身毒丸は狂言まわしだったと観客は気づく。武田真治は、観客に差し出された美しい生け贄だったのだと。さしだされた生け贄だけがそれを知らない。

竜也は悪夢を見ていない。
幕が開くと身毒丸の舞台が始まる。舞台のそこかしこに、甘美な夢がいて、撫子をみつめ、撫子の視線を受け、撫子を拒絶し、撫子を求める。舞台のそこかしこに在るただ一点。観客は、甘美な夢を見つめ、彼から発せられる光をあびて、舞台からは母親も家も悪夢も消える。
「さあ行きましょう。顔を失くして、名前を失くし、忘れられるために出てゆくのです」
その瞬間、神に心を差し出しているのは、観客の方なのだ。
撫子に恋をした身毒丸に、落ちてゆくのは観客の心なのだ。
原作者も、演出家も、巫女さえ消えて、そこに身毒丸だけがいる。

演劇はすてきです。たったひとりの違いで、舞台が別の作品になる。なんて、知的な美しさだろう。わたしはうっとりと、その美しさを見るのです。

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