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April 2006

April 28, 2006

ライフ・LAST

藤原竜也様 ありがとうございました。

4夜目のジョンは、完璧でした。

マメットの脚本、ポール・ミラーの演出・市村さん主演のあの作品のジョンとして、
マニアのわたしが望みうる、最高のジョンでした。かっこよく純粋で大人だった。最初から最後まで。

あなたが大好きだという第1場面で、あなたはもう変わっていた。14日に見た、先輩に憧れる初々しいジョンではなかった。

ロバートは共演者をこきおろし、ジョンは上手に調子をあわせる。そうしながら、ロバートの言葉がブーメランのように返ってゆく先を、ジョンは見ていた。2流の役者に、距離をおいて。
第1場面の最後に、自分が無造作に捨てたティッシュを大げさに受けをねらって拾うロバート。
それを見るジョンの、温度を感じさせない目。
あの目が、今日の芝居の主旋律を決めた。

剣先をわざとあげるジョンは、今までよりもさらに無造作になっていた。

忘れがたいシーン。兵士の衣装を付ける衣装部屋で照明が当たる前のジョン。
くらい中でジョンは、次の自分のセリフを練習していた。そこには、出を前に緊張しつつセリフを必死に確認する、舞台に魅入られた若い役者がいた。舞台の神さまとだけ向き合って。

小さな衣装部屋で髪をきめているジョンは、素晴らしくかっこよかった。
うしろでちょろちょろ動き、ジョンの髪型をまねて観客の笑いをとるロバートを、完全に、眼中の外に置いて、
鏡に見入るジョンには、男の子が大人の男になってゆく表情があった。

「そういう意味でおっしゃっているのなら、そういう意味で受け取ろうと思います」
ロバートへの独立宣言を、しゃらっと流して言ったね。いい感じだった。
続く舞台上で、ジョンが「セリフをとちったロバート」を実際の観客にわからせるためにする、ちょいとくさい場面、絶妙だった。あれ以上くさくてもダメ、あれ以下におさえると初見の観客にはわからない。ぎりぎりのところ。

「しお、しおみず、な?」救命ボートシーンのセリフ合わせで、大仰なセリフまわしに余計な解釈をつけるロバート。
ジョンは眉根をちょっと寄せて小さく反応し、言葉を飲み込み、あきらめて、最後にたたきつける。

過剰で無意味な解釈は芝居が出来ない言い訳だ。
出番の前に意味のないことを言い立てるその行為が、間違っている!
でも彼は、怒りを直截にぶつけない。

ロバートの空疎な演劇論を「そこの鴨肉とって」とかわす。一瞬もロバートを見ない。

そして、映画の話を受けている電話のそばで、チャチャを入れてくるロバートに聞こえないようにさらっと出る、ジョンの、「才能もね」
これがこの芝居のテーマ。
舞台の神に見いだされたジョンが、そうなれなかったロバートに、しゃらっといった小さな一言。
「才能もね」
ふたりの役者の二重写しの作品。神に見いだされたものとそうなれなかった者の、人間の目から見れば悲劇、神から見ればとりたててさわぐこともないエピソード。

手首を切ってしまったロバートの傍らに立つジョン。ふたりが映る鏡の向こうに、ふたりの同じでいてまったく違う、舞台の上にしかない人生がある。ロバートが惨めな自分を見ているとき、ジョンはふたりの舞台の上の命を見ていた。

はじめから終わりまで、舞台の神がジョンの傍らにいた。
ジョンは、ロバートの繰り言を聞く。シャークスピアのセリフを練習したい時にも。邪魔しているロバートの姿を、我慢でもなく無視でもなく憐れみやいたわりとも少し違う、舞台の神さまに「見なさい」と命じられてそうしているかのように、ただ見つめ、聞く。
最初から、どういうわけか、この場面が私は好きでした。竜也のセリフを浴びたいファンには欲求不満になって身もだえしたくなる、セリフを封じられたこの場面を、気に入っていました。予感があったのかもしれない。
4夜目、自分のセリフではなく相手のセリフでも芝居をしてしまうようになった藤原竜也を、わたしは感動して見ていました。

「まじかよ・・・」 3回目まで吐き捨てるように言っていたセリフを、ささやくように言った。最高に良かった。

私が見る最後のライフインザシアター。最高のジョンに会えて、4回を見た甲斐がありました。

1夜目と同じく、ただひたすら竜也を見ていた。作品を語る資格はありません。ロバートの立場で見ればまったく違う作品だとおもう。市村さんが2流の役者の哀れさや寂しさを思いっきり受けと笑いをとって演じていたらしいのだけど、申し訳ありません、ジョンを見ているわたしには、市村さんはナレーション&背景でした。
1夜目と違って、竜也は市村さんのペースにまったく動じていなかった。だからわたしも、市村さんのおこす観客の笑いが気にならなかった。むしろ、ディープなところで、自分が笑ってしまって・・・。

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April 25, 2006

演出

朝日新聞の夕刊(4月24日)にライフインザシアターの劇評が載っていました。パンフレットを読んだだけで書いているごとき内容ではなく、舞台を2回観ての評でした。

読売の劇評(こちらは舞台を観たとは思えないものでしたが、途中ねていたのかもしれません)にもあった「暗転が多すぎる」ことについて、さらにつっこんで「もっと観客の想像力を信じて良いのではないか」とありました。脚本の26場面をすべて暗転にしなくても良いのか・・・・しばらく考えてみました。つまり、演出の問題であるという指摘です。

千住で最初に感じた舞台のたたずまいへの違和感。役者が動き始める前に漂っていた妙な違和感。「ちがうぞ」という感じ。あの妙な感じは俳優のせいではない。ということは。

今回の公演は演出が根本的に大きな失敗をしているのかもしれない。

ふたりの役者の舞台感覚の温度差や、市村流の受けと笑いをねらう軽さと脚本のねらいの落差以上に、そもそも演出が大きな間違いをしてしまったのではないか。

劇中劇の場面を、実際の観客に後ろから見せることに、意味があったのだろうか。
この演出のために、観客にとって作品は完全に「バックステージ」ものになった。役者の舞台裏の人生を見せる演劇に。
しかし、この作品は26もの場面そのものに舞台という世界を語らせようとしている。場面は2種類。ジョンとロバートが役者として「演じている」場面と、ジョンとロバートが「演じていない」楽屋の場面。今回の、後ろから見る演出では、「ふたりが役者になっている姿」を正面から見せない。役者であるときのふたりの声も姿も輝きも、観客には見せない。演じているふたりを無理矢理演じていない側からみせている。観客の想像力をここで使っているのかもしれないが・・・。しかし、そのせいで、この作品は二重構造をもてなくなって、ただのバックステージものになってしまった。
これは根本的な間違いではないか。この作品はただのバックステージものではつまらない。映画なら表情のアップをみせるのだからそれでもいいけれど、演劇でそれをやってしまったら、単調だ。

舞台の上と楽屋に帰ってからでは、役者はまるで別の人格になったかのように変貌するだろう。役者として演じているジョンとロバートを見て初めて、観客は楽屋のジョンとロバートと対比できる。その、役を演じている(別の名前になっている)ふたりをみなくては、この作品を半分しか見ていないことになる。

うまくいけば、この作品で観客は二重の位置に、つまり、現実にこの作品を見ている自分と、ジョンとロバートが演じている舞台を見ている劇中の観客の、2重の意味を持つ位置に置かれる。観客は「観客というもうひとりの登場人物」として参加することで、演じているふたりと素のふたりに違う感情をもつだろう。観客は、楽屋のふたりのどんなため息もささいなやりとりも、ついさっき舞台の上で演じていたふたりと重ねて観るだろう。
そこには、役者が持っていきる「舞台の上と舞台から降りた」2つの人生がらせんのように重なり合うさまが見えただろう。想像力を駆使して、重層的な演劇の楽しみを味わうことができただろう。

最初に、あの書き割りを見たときのいやな感じは、これだった。2つの光源を持つべき作品を、1つのライトしか当てない作品にしてしまった。暗転も、極端な衣装替えも、単調になってしまったバックステージものを小手先でおぎなおうとしておきたこと。

たとえば、舞台の前に小さなせり出しをつくる。幕の後ろの床を少しあげる。これで、舞台は3段になる。幕の後ろが劇中劇のステージ、これを実際の観客はは劇中の観客となって観る。張り出しは楽屋。間のはばのせまい舞台が中間点。役者が3つの空間を移動するだけで、場面を変えることが出来る。

演出の根本的間違い。もうイギリスに帰っちゃったから、別の演出家にもう1度やってもらって欲しいくらいです。
それにしても、演劇って、こわい。たったひとつの解釈の違いが、いろんな可能性をぶちこわす。

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April 18, 2006

ライフインザシアター 3夜

日曜日 昼  世田谷パブリックシアター

竜也の気持ちが切なくて。

ジョンは舞台が好きなんだよ。舞台の上で役者をしていることが好きなんだよ。いつも全力で良い舞台にしたい。ロバートという人間を嫌いなわけじゃない。踏み台にしてのし上がろうなんてこれっぽっちも思ってない。舞台の上で生きてきた先輩として尊敬していたい。

だけど、ジョンは舞台で演じたい。演じるために生きている。楽屋でおしゃべりするためじゃなく。芝居のために芝居の話をするなら良い。でも、繰り言につきあう暇はない。若者にはそんなゆとりはもてない。

ロバートを軽んじたいわけじゃない。だけど、ちゃんと芝居をしてほしい。
舞台の上でくだらないおしゃべりを始めるなんて、最低だ。気持ちは分かる。あなたの人生を尊重したいとも思う。でも、今は僕を邪魔しないでほしい。

4月4日、1夜目のジョンは、途方に暮れて、立ちつくしていた。
10日後の4月14日、2夜目のジョン。初々しいかわいらしい若者が、観客の前で一人前の役者になった。
そのたった2日後の4月16日、3夜目のジョンは大人だった。はじめから、ただ舞台で演じたい、より大きな役を、全力で、やりたい。隣にいるロバートを嫌いになりたいのではないけれど、でも、黙っててくれないか。そして、人としてロバートの寂しさはわかる。だから、じっとロバートを見つめる、お疲れさま、と。

第4夜目、最終夜のジョンは、無垢で残酷な天使になれないだろうか。
ジョンがピュアな天使であればあるほど、残酷な舞台の神さまの姿がはっきりと見える。ライフインザシアターの最後はそんな芝居を見たい。
七色の声、七色の竜也。
無垢な天使の前では、人は自分のつまらなさ、醜さ、老い、からっぽさを「ソレガワタシデス」と、受け入れなくてはならない。
それでも人は生きて行ける。
人生は残酷だけど、幸福にもまた、満ちているし、舞台は残酷だけど、幸福にもまた、満ちているから。

藤原竜也様。

舞台の神さまがあなたを選んでいる。市村さんは傷つかない。彼には彼の幸福がある。ちゃらけて受けをねらい笑いをとって、薄い解釈で芝居を覆う。彼には彼の満足がある。
竜也、あなたは、舞台の神さまのもの。神があなたに望むままのジョンを見たい。

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April 15, 2006

ライフインザシアター 第2夜

世田谷パブリックシアター  10列目右サイド 竜也の立ち位置の反対側。

第1夜から10日。ネット上の情報で、芝居がどんどん変わっている、良くなっているのニュアンス。良くなっているという予測をもって、劇場へ。ふたりが舞台正面の「客席」に向かってカーテンコールをしている最初のシーンで、「やった、大丈夫」と確信。市村さんの少々もったいぶった貫禄あるお辞儀と竜也の初々しいはじけるような礼、ふたりがロバートとジョンになっている。

最初の楽屋のシーン。10日前に、もたついて竜也が下手に見えたふたりの会話。観客の笑いをとる市村さんのとぼけた間を、テンポよく自分の間で受ける竜也。竜也がすごく上手くなっている。10日前は竜也が重くて空回りしていたのだけれど、今日はジョンの上気したかわいらしさが伝わる。意味不明の客席の笑いもずっと減った。初々しいかわいらしいこの若者が、舞台の神の手で、自信に満ちた一人前の役者に変貌してゆく、その予感を感じさせてくれる意味をもつ幕開きになっていた。

第1次大戦(らしい)戦場のシーン。敵の銃弾の前に飛び出して犬死にする若者。無謀で未熟な若さ。思いっきりりきんで演じているジョン。無駄な死をはらわたで怒る老兵。もちろんロバートの見せ場なのだ。

剣の立ち会い。軽いフットワークでこなす若手には、老いてゆく先輩俳優のつらさは見えず、先輩の要求につき合いはするが、早々に飛び跳ねるように練習の場から去ってゆく。

ふたりの弁護士の場面。若手弁護士が自分の妻の不倫の相手が先輩弁護士だと知り、なじる。若者の怒りを老獪に受け流すベテランロバートの、これは観客をうならせるシーンなのだ。
しかし、裏切りを知った若者の鋭い怒りを演じるジョンに負けそうになって、「おさえてくれないか」と頼んだロバート。ふたりは無意味に張り合ったあげく、ロバートは肝心のセリフを間違える。「赤ん坊の夫が私だと・・・」と。「間違っている・・・」とおもわずつぶやいてしまうジョン。若者は初めて、歳をとってゆく先輩の俳優の姿を目の当たりにする。

車椅子の老人と少年。美しいセリフで舞台をリードしているのは少年を演じる若い役者だ。ジョンはロバートの過剰な老いの演技を受け流して、自分の演技をしている。

救命ボートで漂流するふたりの水夫。ひとりは何十年も海で生きてきた男、もうひとりは海も人生もまだ何も知らない若者。「雨ふらないかなぁ」という絶望の吐息、「あんたの話はもうたくさんだ」という爆発。若者はベテランと対等に演じている。いつのまにかふたりが天秤ばかりの両側に位置して揺れている。

貴族の宴会に手紙をもってゆく若い兵士。ロバートが意味ありげだが芝居に関係ない言葉をかけたる。そのために、出番の直前のジョンはセリフを忘れる。どうしよう。ロバートは何の役にも立たない。それどころかロバートと話している間に、出のきっかけまで聞き漏らす。ジョンはなきそうな気持ちで、とにかく舞台にでる。その間、書き割りの裏にいるロバートには、出もセリフもない。

ヘンリー5世。見せ場のセリフを練習するジョン。のぞき見するロバート。今度の芝居にロバートの役はない。若者はセリフを練習したい。演じたい。しかし、それをさせてくれない老人の繰り言をじっとただ聴く。ジョンはみじんも動かずロバートの言葉を聞く。まるで彼が今、本番の舞台にいて、相手のセリフをじっと注意深く聴きいっているかのように。

手術室。久しぶりに、ベテラン医師が緊張する若手医師をリードしながら手術を成功させるシーン。しかし、ロバートはセリフを忘れ、ジョンのフォローにものれず台本を求め続ける。ジョンはマスクと手袋を投げ捨てて袖に入ってしまう。

脚本家は、舞台のシーンに老若のふたりの役者の下り坂と上り坂を重ねている。
脚本家が選び出した舞台と舞台とを、ふたりが楽屋でつないでゆく。
脚本家が描いたこの作品の主役は、転がりながら大きな絵になってゆく舞台そのもの。

けれども、この芝居で、主役は竜也になった。
舞台の神の指先が、ひとりの才能ある若者をそっとつまんで光の世界につまみあげる。舞台の神の掌の上で人生を長い時間生きてきたひとりの男が、それをすぐ横で見る。光がいやでも目にはいる。光を浴びてゆく若者と、影に沈みながら光を眺める男。この作品はそういう芝居になった。

舞台裏のシーンで、市村さんは用意していた軽い芝居をしなくなっていた。竜也はジョンになってしまった。市村正親さんに遠慮していた藤原竜也は消えて、ロバートに向かうジョンになっていた。笑えるシーンはむしろ増えていて、その笑いは、ジョンとロバートのからみから生まれる笑いだった。
ジョンはもっと下品にロバートはもっと卑屈になってしまう可能性が大きい脚本を、ふたりは、残酷な神にこわされない人間の芯の強さをもった芝居にした。だから、後味の悪くない作品になった。面白かった。あと2回見るのが楽しみになった。

藤原竜也くんの、新しい魅力が生まれる瞬間に立ち会っているのかもしれない、幸福感。
芝居がクリアに変化してゆく楽しみ。作品の輪郭がくっきりと浮かび上がってゆく快感。
4枚のチケットゲットは正解でした。

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April 09, 2006

春夏秋冬そして春 キム・ギドク監督

映画は映像が動く。
映画では俳優が語る。
映像が動く分、絵画のように時間を止めて一点に潜り込んで行くことはできない。
俳優が語る分、俳優を味わう楽しみが映画の眼目になる。語られる事象や思索は作品の背景になる。
わたしには、それが映画の限界のように思えていました。映画に落ちて行けない理由だと思っていました。

キムギドク監督が放った矢は、わたしが「映画の限界、映画が到達できないところ」と勝手に思っていた領域のど真ん中を見事に突き抜けてしまいました。
どのシーンも「こうくるか」と、うめいて驚嘆して見るしかありませんでした。

何と言ってもまいったのは、後ろに見える木々や川岸が流れ動いてゆくさまでした。
筏の上のいおりは絶えず湖の上を漂っている。漂っている筏の向こうに見える対岸の森は静かにゆっくりと動いてゆく。しかも、川ではない、海でもない。小さな湖です。一方向を目指して疾走しているのではない。限りない水平線でもない。同じ森、同じ木々、しかし、一度として同じ見え方はしない。
映像でこんな哲学が語れるとは。まいりました。

その上、彼がフレームに入れる絵そのもののうまさは、極上です。
いつもほぼ中央に水面があり、現実の空気や光、筏の上に立つ庵や人、湖に突き出す大きな枝を広げた樹、対岸の景色が、水面にシンメトリーをつくります。
黒い枝の広がりの間から見えるのは輝く湖面。
白いもやがシンメトリーを消し白から黒の濃淡で山並みを映し出す。
夜の湖面に小さく浮かぶ庵の窓に輝く明かり。この上下対称には声を失いました。
すべてのアングルが完璧。無駄なもの余計なものは一切ない。あって欲しいものだけがあって欲しいところに配置されている。空間を区切る戸。観音開きする門扉。大きな岩山の仏塔に小さな子供の姿。山頂から臨む山間の指先ほどの湖と豆粒のような筏。
さらに光が完璧。ここで潤いが欲しいと思った瞬間に雨、色が欲しくなる瞬間に紅葉、まぶしさが欲しいときに凍った湖と日を浴びてひかる雪つぶ。

ただ生きているだけでは、こういう絵はみえません。こういう絵が見えるように生きるというのは、どう生きることなのでしょうか。

この映画の最も素晴らしいところは、清明な映像が人の業の重さを語るコントラストにあります。
茨木のり子さんの感想を聞きたかった。ル・グウィンの感想も聞きたい。これは、ゲド戦記に達してしまっていて、ゲド戦記を映画化する必要をなくしてしまっているように思いました。あえてゲド戦記とならべれば、戦うヨーロッパと受容するアジアとの対比になるのでしょうか。

この監督のほかの作品を見たいとは思いません。これがゴールでよいです。

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April 05, 2006

ライフインザシアター 第一夜

4月4日。北千住、シアター1010。7時開演。

この1ヶ月の間に相当悪い予想をたて、竜也の舞台の幸福を味わえないという覚悟をしてきた。市村さんの軽い(ちゃらけた)芝居に「乗り込んでゆく」という感じ半分、おしゃれをして竜也に会いに行く幸せな気持ち半分で、劇場へ。ほどよい広さと居心地の良さを感じさせる劇場。前方の席の傾斜がなく4、5列目あたりは少し見にくいかもしれない。今晩の席は16列目、後ろにあと4,5列しかない後方。センターよりやや左で、タツヤの立ち位置の正面。

大仰な音楽で始まる。正面に舞台から客席を見た書き割り。あ・・・ダメかもと思う。舞台空間のたたずまいから作品は始まっているから。「だめ」の覚悟が再確認される。

舞台上のふたりの役者がラストシーンの音楽の中で書き割りの客席に向かって、つまり、実際の客席にはおしりをむけておじぎをする。舞台のカーテンコールの場面から、ふたりの役者の「ライフインザシアター」がはじまる。

ふたりが舞台で演じるシーンと楽屋でかわされる会話が断片的に連なってゆく。短い場面転換は、あらかじめ予習してあったので違和感なし。脚本家が1枚の絵のために場面をコラージュしてゆく。その展開の早さはなかなか快適です。

芝居が半分くらい進行したころに、この芝居の主役がわかった。
芝居の主役は「舞台」そのものなのだった。役者ふたりは「舞台」を語るための狂言まわし。
この作品を「舞台を語る詩」だと演出家は言っていた、その意味がわかった。舞台の中の人の生が水滴のように連なって、舞台という水面を見せてくれる作品。

だから、市村さん、あなたが主役をやってはいけない。
竜也も主役ではない。
ふたりの役者の人生に過剰な意味づけをして演じてはいけない。

シーンの断片がしゃれたコラージュになって観客に軽やかな快感を与えながら、舞台にとらわれた役者たちのはかない姿、舞台が役者にあたえる麻薬、美しさの裏にある舞台の残酷さが1枚の絵になる。舞台は怖い神だ。しかし、ひとは大きな神に捉えられた小さき者として懸命に生きる。それゆえに、神が持つ残酷さも恐ろしさも、けして人をそこなわない。その姿を描く作品なのだと思う。

だから、市村さん、あなたが主役をやってはいけない。
竜也も主役ではない。
ふたりの役者の人生に過剰な意味づけをして演じてはいけない。
展開されてゆくシーンの連なりそのものに、かたらせるべき作品なのだと思う。

キレイ系舞台マニアの友人とわたし、はじめは市村さんと竜也のふたり芝居のニュースを歓喜をもって受けました。ところが、雑誌上などで市村さんの言動を知るにつけ、彼のことを「ちゃら市」と呼びはじめ、舞台を見てその呼び名は確定しました。そんなに頑張って笑いというより・・・「受け」をとらなくてもよいのに。じわっとわらい、じわっとこおりつき、小さな灯火のような幸福を見る、そんな作品にすれば、「詩」であったのに。

市村ファンにも、竜也ファンにも、物足りない舞台だったとおもう。カーテンコールの拍手に勢いがなかったもの。竜也の舞台でスタンディングしなかったのも初めてだった。でも、悪い予想をきっちり立てていたから、実はかなり満足している。2時間の8割方をオペラグラスで竜也だけを追って見ていた。あと3回、彼はどんどん深くなってゆくような気がする。市村さんに遠慮してる部分がどんどん取れてゆけばいい。

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