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April 25, 2006

演出

朝日新聞の夕刊(4月24日)にライフインザシアターの劇評が載っていました。パンフレットを読んだだけで書いているごとき内容ではなく、舞台を2回観ての評でした。

読売の劇評(こちらは舞台を観たとは思えないものでしたが、途中ねていたのかもしれません)にもあった「暗転が多すぎる」ことについて、さらにつっこんで「もっと観客の想像力を信じて良いのではないか」とありました。脚本の26場面をすべて暗転にしなくても良いのか・・・・しばらく考えてみました。つまり、演出の問題であるという指摘です。

千住で最初に感じた舞台のたたずまいへの違和感。役者が動き始める前に漂っていた妙な違和感。「ちがうぞ」という感じ。あの妙な感じは俳優のせいではない。ということは。

今回の公演は演出が根本的に大きな失敗をしているのかもしれない。

ふたりの役者の舞台感覚の温度差や、市村流の受けと笑いをねらう軽さと脚本のねらいの落差以上に、そもそも演出が大きな間違いをしてしまったのではないか。

劇中劇の場面を、実際の観客に後ろから見せることに、意味があったのだろうか。
この演出のために、観客にとって作品は完全に「バックステージ」ものになった。役者の舞台裏の人生を見せる演劇に。
しかし、この作品は26もの場面そのものに舞台という世界を語らせようとしている。場面は2種類。ジョンとロバートが役者として「演じている」場面と、ジョンとロバートが「演じていない」楽屋の場面。今回の、後ろから見る演出では、「ふたりが役者になっている姿」を正面から見せない。役者であるときのふたりの声も姿も輝きも、観客には見せない。演じているふたりを無理矢理演じていない側からみせている。観客の想像力をここで使っているのかもしれないが・・・。しかし、そのせいで、この作品は二重構造をもてなくなって、ただのバックステージものになってしまった。
これは根本的な間違いではないか。この作品はただのバックステージものではつまらない。映画なら表情のアップをみせるのだからそれでもいいけれど、演劇でそれをやってしまったら、単調だ。

舞台の上と楽屋に帰ってからでは、役者はまるで別の人格になったかのように変貌するだろう。役者として演じているジョンとロバートを見て初めて、観客は楽屋のジョンとロバートと対比できる。その、役を演じている(別の名前になっている)ふたりをみなくては、この作品を半分しか見ていないことになる。

うまくいけば、この作品で観客は二重の位置に、つまり、現実にこの作品を見ている自分と、ジョンとロバートが演じている舞台を見ている劇中の観客の、2重の意味を持つ位置に置かれる。観客は「観客というもうひとりの登場人物」として参加することで、演じているふたりと素のふたりに違う感情をもつだろう。観客は、楽屋のふたりのどんなため息もささいなやりとりも、ついさっき舞台の上で演じていたふたりと重ねて観るだろう。
そこには、役者が持っていきる「舞台の上と舞台から降りた」2つの人生がらせんのように重なり合うさまが見えただろう。想像力を駆使して、重層的な演劇の楽しみを味わうことができただろう。

最初に、あの書き割りを見たときのいやな感じは、これだった。2つの光源を持つべき作品を、1つのライトしか当てない作品にしてしまった。暗転も、極端な衣装替えも、単調になってしまったバックステージものを小手先でおぎなおうとしておきたこと。

たとえば、舞台の前に小さなせり出しをつくる。幕の後ろの床を少しあげる。これで、舞台は3段になる。幕の後ろが劇中劇のステージ、これを実際の観客はは劇中の観客となって観る。張り出しは楽屋。間のはばのせまい舞台が中間点。役者が3つの空間を移動するだけで、場面を変えることが出来る。

演出の根本的間違い。もうイギリスに帰っちゃったから、別の演出家にもう1度やってもらって欲しいくらいです。
それにしても、演劇って、こわい。たったひとつの解釈の違いが、いろんな可能性をぶちこわす。

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