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May 2006

May 27, 2006

MYTH

青山円形劇場。となりの青山劇場でメタルマクベス。

今日は山手線に乗っているときから眠くて。暗いところで座るには気分も体調もかんばしくない状態で劇場へ。

中央に低い丸いステージ、客席がこれを囲む。一番後方の席でも前から4列目。4層の観客に囲まれた空間。舞台の向こうにも観客が見える。向かいの客、横の客。照明を間違うと、または、舞台に集中できないと、客を見に来たみたいになるぞ。

作品。
主人公の若者。父に捨てられた母子家庭に育ち、定職なく、お金無く、母はとうに亡くなり、ずっとあっていなかった父が先日亡くなってその遺産として古い家を残された。遺産の管理をする弁護士。主人公の幼なじみの若い男。同じ母子家庭だったことが友人でいる理由。こちらも定職無くニートかフリーター。そして、遺産の家を処分しに来た主人公の前にあらわれた父。この父は主人公とその友人にだけは見える幽霊。ただし、他の人物と同じように舞台上にいる。

この4人の会話で、
主人公が幼いときに失った父への押し殺していた葛藤が表出し、最後に、長い間とらわれていた葛藤と自分がつくっていた閉塞から解放された。
という、お話。それだけ。それだけにむかって1時間40分4人が劇をやっていた。

父の幽霊、ではなく、幽霊である父。まことにお手軽な存在感。(今の若者たちにとって、お話の中の幽霊はこんなふうにお手軽という事実の方が面白いテーマになる)友人も実体はなかったので存在を簡単に消せる。両者から出るお約束されたゆるいミステリアスな味付けだけがこの作品の調味料。
この作品を、生きている父、生きている友人とぶつかる話にできなかったところが作品のぬるさのすべて。生きている人間だとその存在は重い。現代日本のあちこちに簡単に存在している幽霊や仮想人間なら重くぶつからないですむ。ぶつかって主人公が傷つかずにすむ。主人公、幽霊父、仮想友人のどの内面を深く掘り下げることもしなくてすむ。
しかし、若者自身がつくりだしてしまっている閉塞というテーマの、その原因が父の喪失、その結果が友人の創出という作品なのに、その父をお手軽な幽霊父にして、友人をぼけの笑いを取るだけのキャラクターにして、どうするの?主人公が傷つかないようにつくった戯曲って、戯曲の価値ある?
半分寝ていたのに話が分かってしまう舞台。ちょっと文章が書ける高校生あたりの小説風を、活字読むのが嫌いな人にわかりやすく見せました、という劇。それを5000円で見せないでほしい。

幽霊父以外の3人はラ行ヤ行サ行などを発声できていなかった。ピアニッシモのせりふなし。フォルテのセリフもなし。ビブラートも無し。ゆえに会話からメロディが生まれえず。若者ふたりは立ち姿に緩急がなく緊張感なし。動きのキレ、スピード感無し。演出家が鍛えないと役者ってこうなるのか。
どう見えるか、どう聞こえるかを全く考えない。、様式を理解できなかった現代日本演劇の演出家が高校演劇部の部長の延長にしかいないことをまざまざと見せてくれた。鍛えられない役者はかわいそうです。


実は、
一番嫌だったのは、観客の反応でした。PC上やノートの落書きや手紙に頻出する「(笑)」の文字。セリフや動きにたくさんこれを感じて、そして、観客はお約束通り笑っていました。まさに、この劇場空間が用意したままに観客を見に来てしまいました。

私はエンターテイメントにおける上質の笑いは好きです。落語も狂言もシルクドソレイユのクラウンもシェークスピアの饒舌さえ、お金を払って味わいに行きます。しかし、今日は、あふれる(笑)で互いにおもねりお約束だけの楽しさを演出しているここ十数年のケータイな日常を、お金を払い時間を使って見に来てしまった。今日は、わたしが、観劇の選択を完全に間違いました。わたしが幸福感を感じる世界ではなかった、これはこれで好きな人たちが大勢いるでしょう、ただ、舞台の世界にさえこれがあふれている日常に恐怖を感じてしまって。

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May 26, 2006

オレステスへ向かって。1. 

デスノートのヤフーの映画レビューを見るのはもうやめようと今日決意しました。
ブログで藤原竜也を捜すのももうやめてしまいました。
わたしは真性のファンではないと自覚しています。
私の喜びはわたしだけのもので、それはほかの人たちのさまざまとは無縁のことだからです。バーチャル空間(現実とよばれている人々との共有世界)では許されない態度でも、こちら側の世界では、一人一人の感受性が一人一人の世界をつくっている。そこにある輝きは、私だけに見えてるもので、それでよい。わたしは、藤原竜也が好きなのではなく(好きなのですが)、竜也の舞台を見て自分の中に起きる化学反応が好きなのです。その時生まれる強い幸福感に掴まえられてしまったのだと思う。

ゴッホの絵に落ちるように、竜也の舞台を見たい、それだけのように気がします。
それで自分が幸せになれることを知ってしまった時から、この幸福がはじまりました。

見て、眠って、書く。

5月27日。土曜日。3時に目覚め、4時に床を出て、4時半に出発、1時間かけて地下鉄で東京の西南の端のチケットぴあへ、寒い通路で4時間半まち、先頭から6番目、多分、開始2分で入力し、オレステス千秋楽の前前日のチケットが取れませんでした。

とれれば、素晴らしい小旅行だったのですが、取れなかったこの経験も、なんだか、面白かったのです。

もちろん、悔しい。というより、すでに4回分は確保していても、まだ、行きたい。行かなくては、と思っている。なんなんだろう、この強く引く力は。竜也の舞台を見ると、無性に書きたくなる。自分の中におきたイメージを表出したくなる。すぐれた画家の作品を浴びたときと同じ。多分それ以上に持続する。イメージが生まれてゆく瞬間に、すごく、集中できるのです。しかも、幸福感の中で集中できる。そうなれる作品(舞台や絵などの)は、それほど多くない。

演劇の神さまにたくさんお願いして、でも、昨日、取れなかったのだけれど、これはまた、別の面白い経験の布石かなとどこかで思ってる。神さまがいつもいる、この感覚、多分私は一生もってゆくのだろう。

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May 10, 2006

敦ー山月記・名人伝 

昨年見逃して悔しい思いをした、今年9月に再演と聞き、ぜひ見に行くつもりの舞台。

万作の年齢を超越した深い美しいたたずまいに、引き込まれてゆく。
よくぞ、山月記を万作でつくってくれたと思う。

しかし・・・絶句。
ライフインザシアターと同じことがおきていた。よけいな演出がでばって、観客の感受性の喜びをぶちこわす。

たくさんの敦がセリフを重ねる演出はうるさくて、万作の李徴の邪魔をする。
なかでも萬斎のセリフの節がいけない。初めは狂言演者の宿命かと思ったが、万作の李徴には邪魔な抑揚がない。萬斎のセリフは鹿賀さんのジキルを思い出させる。耳に障る。音が邪魔で動きに見入れない。
李徴と友人がただふたり語り合う場面は、素晴らしい。静寂の中に響く声に友人同士のいたわりや恥じらいや許される甘えがあって、とらになるしかなかった李徴の孤独に涙しそうになる。
それなのに、多くの敦が登場するととたんに、緊張が散る。
天才がいない舞台ならね、これでいい。高校演劇でしょっちゅうやっている演出だ。みなが声を合わせて、ハーモニーで空間を満たす。だけど、天才を味わいたい舞台でそれをやってはいけない。ギエムの踊りによけいなバックダンサーはいらないでしょう?

クラウディアもそうだったけど、なぜ、演出家は自分が出張るんだろう。なにか目新しいそうなことをして喝采を求めてしまうのだろう。むしろ、明確な解釈のもとで舞台の時空から無駄をそぎ取ってほしいのに。お茶やお花の美しさを生身の人間の舞台に求めてほしい。

名人伝。スクリーンに映された「矢」「虱」といった文字たち。大人相手でやることですか?萬斎はテレビ界の人として、才能を発揮してください。少なくとも、万作さんの舞台であれをされなくてよかったです。

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May 06, 2006

2つのハムレット ビデオ

2003年に2つのハムレット公演があったのでした。

7月に世田谷パブリックシアターで萬斎のハムレット。演出、音楽、衣装、舞台大道具等ほとんど外国勢(イギリス人ではないかと思う)。重厚にして豪華。ゴシック調の衣装。美々しくおおがかりなセット。
11月にシアターコクーンで蜷川幸雄演出。竜也のハムレット。網で囲まれた黒い空間。モノトーンの衣装。

2つのハムレットを、くらべて、語ることができません。

先に竜也のハムレットを見てしまっていたから、それが、私のスタンダードになってしまっていた。
だから、比べて論じることが出来ない。この2つの舞台はそういう次元におけにない。
萬斎のハムレット。重厚にして難解で、豪華にして複雑で、迷路のような絵巻物で。こちらが世間一般のシェークスピアだったのか・・・、知らないと言うことはおそろしいことだったと、自分にため息をついた。

狂言の世界だけでなく舞台の世界の輝く星の萬斎・・・・けれども、
萬斎様。
これからも、テレビで、映画で、あなたの才気を存分に発揮してください。才気あふれていることは、わかった。それを好む人が多くいるだろうこともわかる。でも、

美しさは、あんなふうにこれでもかと飾り立て張り上げればよけいに、逃げてゆく。

シェークスピアがいかに難解で退屈で饒舌か、心底わかって、大がかりな演出をすればするほど言葉の目くらましに視覚の目くらましが重なって息苦しくなるということが、しみじみわかって、ほとんどの役者が「コトバコトバコトバ」の海でおぼれてゆくということが、鳥肌立つほどにわかって、

竜也のハムレットの香気。
藤原竜也という役者の行く道がいかに孤独か、思い知らされて、
わたしは切なくなった。

戯曲の中に何度も出てくる言葉、「高貴な魂の持ち主」
ハムレットをそういう物語にしたのは、
シェークスピアなのか、蜷川幸雄さんなのか、藤原竜也という若い俳優なのか。シェークスピアがそう書いたのか、蜷川さんがそうつくったのか、竜也がそうなったのか。3者がそろってはじめて、ハムレットは香り立つ。

どうか、藤原竜也をつぶさないでください。
シェークスピアをあんなふうに演じてしまうことが、普通に出来ることでないのだとしたら、彼は間違いなく神の領域にあるのですから、わたしたちに彼を観る幸せを与え続けてください。

萬斎のハムレットを見て、竜也のハムレットばかりをおもった。

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May 05, 2006

イッセー尾形

GW真ん中の原宿。昼下がり。改札制限。表参道ヒルズもうでの人、人、人。狭い歩道は、バーゲン会場へ向かう通路のようでもあり、昼日中ののんびり感も漂う。
原宿クエストホール。エレベーターが開くと、小さな受付テーブル、開演を待つ人混みの奥にカウンター。ワインと冷たいお茶の入ったビニールコップが並ぶ。足許には座布団と小さなテーブル。
舞台を見に来て初めて受けるサービスでした。わたしはこういうちょっとした思いつきの「よかったらどうぞ」というサービスは好きです。舞台の上の緊張感をそぐ余計な「サービス精神」は好きではありませんが。

照明がすっと落ちて真っ暗、3呼吸くらい、突然明かるくなって、中央の四角いガラスケースのうえにしわくちゃ婆さんがいる。この呼吸、気持ちがいい。嫁さんの出産とじいさんの葬式がいっぺんに来た家で、産気づくのを待っている産婆。しゃべる婆さんの顔をさんざん堪能して場面が終わり拍手、のあとだ。
婆さんがそのまま舞台左前の照明に浮かぶドレッサーへ。鬘をとり、顔を拭き、割烹着を脱ぎ、イッセー尾形の上半身があらわれると、彼はワイシャツを着て、ケータイを首からぶるさげ、ズボンをはき、ネクタイをしめ、チューブからジェルをにゅっとつけたブラシで髪をオールバックになでつけて、あらわれたしょうもないサラリーマンのおやじが舞台中央へ歩く。
このあと、この変身がすべての場面の間で繰り返される。今日の一番の見せ場はこれだった。こんなことを言うと今日のすべてを新ネタで仕上げてきたイッセーさんにもうしわけないとも思うのだけど。

昨年のヒラミキのドレッサー、今年の市村さんと竜也のライフ、そして、今日のイッセーさん。期せずしてバックステージもの3連発になって、ヒラミキの魔物がつく一瞬の眼光、思いっきり受けをねらった市村ロバート、ジョンになった竜也・・・そして、今日のイッセーさんが素の真剣を見せて締めくくってくれた。ライフでジョンが見せてくれたあの姿って、本当にカッコイイものなんだと思った。芝居に向かう集中の空間。イッセーさん、かっこよかった。

昔の上司と一緒に辞表をだすはめに陥ってしまったサラリーマンと、広島から京都の修学旅行に来た中学生が、とても楽しめました。
さまざまな舞台を見るにつけ、彼らは演じている姿を見せているだけのはずなのに、演じている人間そのものを感じてしまう。舞台っておそろしいし、だからやめられない。その人の素の生活や性格を何一つ知らないのに、志の輔もイッセーさんも竜也も、好きだな、とまるでパートナーを信頼するような気持ちで思える。彼らがつくっている舞台の上の姿を見ているだけなのにねぇ。

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