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June 2006

June 23, 2006

W杯ドイツ大会  

ブラジル戦が終わったとき、ヒデはピッチに仰向けになり、ブラジル選手と交換したカナリアンイエローのウェアをかぶって顔を覆い、空を向いていた。カメラがその姿を映したとき、わたしは見ていられなくて画面を切った。現場にいたら、彼がそうしている間ずっと、凝視けていたと思う。でも、TV画面では見たくなかった。

わたしは、サッカーのことはろくに知らないし、語ることが出来る何の知識も経験もないのだけれど、ゲームを見て面白いか面白くないかは、感じることができる。イングランド-スウェーデンは面白かった。それから日本とオーストラリアの戦いは忘れないだろう。最後の6分に、手にしていたものをみんなこぼしていった彼らの戦い。ヒデがバテバテの中でなお、ただひとり不器用なほど懸命に走りシュートを打っていたクロアチア戦。彼がいかに孤独か、彼についてゆこうと考えているチームメイトがいかに少ないか・・・、サッカーはひとりではできない。ヒデにとってブラジル戦はラストゲームなのだと、だから、ブラジル戦がおわったとき、彼がどんなふうに敗北の中にいるか、想像できた。
わかっていたとおりの、姿だった。

和をもって尊しとなすこの国で、多くのものが、馴れ合うことに堕してゆく。見えているとおりに生きる人間たちの中で、ほかの人に見えないものが見えてしまうほんの一握りの彼らは、生きてゆく隙間さえ与えられないのだろうか。

この人は確かなことが見えていて、そこにまっすぐに向かっていると感じたから、ヒデを好きになった、もうこのピッチに戻ることは無いだろうって言うときにね・・・。

彼の孤独。


そんなふうに、サッカーを感じた大会で、日本代表の敗退が決まったころに、サッカーを見るのが楽しくなったの。
サッカーって、ピッチの上にたくさんいる選手の動きはボールが無いところでは緩慢に見えるし、ボールは行ったり来たりするだけだし、選手を見ていてもボールが来なければつまらないし、点が入るのは90分でせいぜい2,3回。実は、それほど面白くなかった。勝ち負けだけを見て応援するのは簡単だったけど。

見るべきものを見ていなかった。見るべきものを、ひたすら追ったとき、全然違う世界になった。

サッカーの主役は選手ではない。
ボールなのね。
ボールがひたすら動き、進み続け、止まり、急転回し、飛び、空気を切り裂き、シュートとなって放たれる。
シュートに至る軌跡のひとつひとつが、ひとりの少年だった。たくさんのキラキラ輝く少年が、90分間、ピッチの上にゴールに向かって放たれてゆく。ゴールをめざすボール、それはたったひとりの女性を手に入れようとする少年。それが、サッカーだった。もっとも大切なごほうびを得るために、ボールは、90分の時間と人間が走り回るのは過酷なほど広いピッチを、飛び続ける。
上手いチームはいつもボールの行く先に選手がいる。彼らがボールの進路を変えスピードを変えゴールへの美しい軌跡を司る。美しい軌跡のための過酷な戦い。ピッチにいる人間は、トップスピードで走り続け、集中して予測し続け、ボールを蹴る一瞬にバランスを保つ。

日本代表が敗退した日に、サッカーを見る楽しみに目覚めてしまったなんてなぁ・・・。
日本の男の子たちは、確実に入るとわかっていないと、シュートを撃てないのね。
女の子の愛を勝ち取る無謀な自信が、ないのね。

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June 21, 2006

Death Note

6月27日。公開から10日目に、我慢の限界で、観にゆく。その間、ついつい200を越えるヤフーのレビューを読んでしまい、ちょっと予習しすぎ。

200を越えるレビューのもっとも秀逸なひとこと。
「原作ファンというのは、似てる似てないが役者の評価なのか? 俺は原作知らないから、顔や雰囲気が似てるとか似てないは全く関係なし。映画として見た場合、特に中盤以降は藤原竜也の表現力で充分楽しめた。
後編、L(松山ケンイチ)の演技で夜神月(藤原竜也)と真っ向勝負できるかやや不安になったが、そこらへんも気になるから後編も観にいくことにした。」
これ以上、言う必要がありません。

映画の監督は、役者に要求してゆべきく明確な演技イメージを持たずに、作品をつくるのだろうか。
少なくてもこの映画の監督にはない。彼は役者にただ垂れ流しの演技を許している。彼には、カット割りやアングルが映画監督の仕事なのだろう。脚本を映像化することが仕事で、編集で勝負するつもりなのだろう。
監督が役者に表現を要求しない。映画は演劇ではないから? しかしそれが、作品を安っぽくしている最大の原因ではないのか。自分で演じることが出来る、またはなれる、役者以外のすべての人物の安っぽさ。
役者に何を演じさせるかは、監督の仕事ではないのか。

原作モノが安っぽくなるのは、監督が役者に表現を求めず、似ていることだけを、つまり物まねを、要求してしまうから。

脚本は上手くできていた。藤原竜也は脚本に応えて夜神月になっていた。

だけど、監督が望んでいる映像は、エルとリューク、警視庁や夜神家の食卓、マスコミ、犯罪者が死ぬ場面、どの映像もマンガだった。正確に言えば、マンガの実写化だった。

この作品の最大の誤算は、この監督で、藤原竜也をキャスティングしたこと。
監督と主演俳優の、作品に何を求めるかのスタンスが正反対なのだから。藤原竜也くんの指先と字を、監督はそのまま使った。映像の緊張感を考えたら、当然吹き替えでしょう? たとえばピアニストの役で俳優の指先をそのまま使う? 作品のあらゆるところに見えるこの種の甘さのために、夜神月になっていた竜也の緊張感が作品を貫くことが出来なかった。
逆に、原作とは全く別な夜神月になっていた藤原竜也の存在そのものが、マンガ的な「似ている快感」を楽しむことを邪魔している。松山ケンイチのエルを使うなら、ライトはもっと、「似ている」俳優か、いっそリュークと同じCGがフィットする。マンガをマンガ的映像で実写化できただろう。

作品として一体感を持たせるためには、どちらかに、あわせないと。
(もっとも後者に合わせた映画なら、私は見に行っていないのだけれど・・・。)

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June 14, 2006

ジゼル 熊川哲也

眼に幸せ、気持ちの良いおはなし、叙情。
そういうことを、求めています。
しばらく演劇が続いたあと、熊哲Kカンパニーのジゼルを見て、
バレエが、言葉の代わりに体の線と動きとでつたえる物語(演劇)なのだと、
幸せな気持ちで認識しました。こういう幸せを味わえることが、バレエの公演でもめったにないにしても、この夜は幸福でした。

ジゼルは物語としてはシンプルですから、言葉を使えば言葉が余ってしまうかもしれません。
アルブレヒトとジゼルの初々しい喜び、裏切るつもりではなかった痛切な裏切り、ジゼルの魂を狂わせる悲痛。
ウィリ(死霊)たちの、悲しみを越えた静寂、そして生者にむける時を刻まない愛。

竜也がセリフでする事を、熊川哲也は踊りでする。それは実にシンプルな違いで、ふたりの間に何の差異も感じられないほどです。際だって叙情がたつ。ほかの何ものも見えずにいてよし、となる。

その上に、昨夜のジゼルの幸福はシンクロの美しさでした。
ジゼルを踊るヴィヴィアナ・デュランテ。身長は日本人ダンサーより小さく、とりたてて手足が長いわけでもない。身体的に日本人より恵まれているわけではない彼女が手を輪にして伸ばすそのさまは、伸びやかに美しく蝶の羽が震えるよう。足を跳ね上げるその線の、速く、それでいて止まる寸前の優しいこと。
アルブレヒトとジゼルの、シンクロする体の線はまるで1つの心が2つの線で重なり合うかのようでした。「すごい」となんども口にしてしまった。ふたりの線の、角度も動きも高さも寸分も狂わずシンクロするさまは、バレエを見て初めて味わう快感でした。こういう美の快感があるのが驚きでした。

群舞も綺麗だった。ウィリの夢幻のような白いチェチェの揺れるさま。日本人のダンサーが多かったと思うけれど、レニングラードの白鳥より、NYシティバレエより、観客の心をとらえていました。群舞で踊りのさなかに拍手が湧くのは、実に気持ちの良いことでした。
それから、舞台背景、衣装、照明。彩度を統一し、茶、朱、柿色、サーモンピンク、色彩のグラデーションをつくる衣装。木漏れ日と、最後にアルブレヒトが浴びる夜の終わりを告げる一条の明けの光線。

熊川哲也さんがもっと踊って欲しいとは願いました。ソロで踊ったのはわずか数分もあったかどうか。そのわずかに、神をも恐れぬ跳躍。ソロに入る時には客席に緊張がはしり、恍惚の数分が終われば「このためだけに18000円・・・。」と嘆息。それでも、その時空間のためにまた間違いなく、18000円払うでしょう、まったくもう・・・。

藤田嗣治の時にも思った。
美しいものに興奮できる幸せを時々味わえば、また、しばらくしのいでゆける、と。
絶対取りたいチケットがまた増えて、幸せなんだか、苦労なんだか。

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June 12, 2006

新感線3連発 阿修羅城の瞳

DVD。2003年。新橋演舞場。
エンターテインメント、に尽きる。現代の歌舞伎や小劇場系や新劇、あるいは特定ファンに支えられている演劇興行が置き去りにしてきたものを、確実にとらえている。ハレ、祝祭、祭り、演芸、に忠実な仕様で。

演出がうまいから、舞台の役者を味わえる。音楽と照明と役者の緩急がほんとにうまいよね。

染五郎は翌年(2004年)のアマデウスのモーツアルトより全然良い。同じようにちゃらけたヒーロー役なのだけど、この人はミューズ(芸術)の女神ではなくて、ヴィーナス(男女の愛)の掌で遊びたい人なのね。

でも、染五郎よりも、橋じゅんが好きになってしまった。圧倒的にうまい。回転の速いうまさに快感を覚える。小朝を聞いていたときに近い。あれよりも嫌みがない。新感線で一番見たい役者になった。この舞台で唯一、見ていて興奮した。

内藤剛志と近藤芳生も、出過ぎず、引きすぎず。どう演じるのか、演出とよく意思が通じている快適さ。

天海祐希は、好きだと思っていた役者さんだったのですが、ダメでした。スチールだけで好きだったのでした。
顔立ちがキレイだし、セリフも姿も表情の見栄も堂々としているのだけれど・・・・堂々としすぎているのがかえって邪魔?
この舞台の泣かせどころは阿修羅=恋の落ちた椿の、彼女の役なのに、そこで、すこしも泣けなかった。
宝塚の男役出身の限界なのかな。

でも、松たか子でも同じだったような気がする。顔立ちがきれいなのと、(舞台の時空で)存在が綺麗なのは違うのね。

これみよがしでない、自覚されていない、しかし表出してしまう弱さや哀しさや表現するのは、女優には難しいことなのかな。それこそを、見たくて、劇場に向かっているのだけれど。

男優のほうが、見せてくれる。松井誠さんもそうだった。竜也も。今回は染五郎も見せてくれた。
かつての演劇の多くは女役を女性が演じない。古代ギリシアも歌舞伎もシェークスピアも京劇も。
これは、もしかしたら・・・・。
演劇における、とてつもない命題?

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June 09, 2006

メタルマクベス

観る前は、劇団新感線。+脚本クドカン。+松たかこ・内野聖陽・森山未来。
見終わったら、原作シェークスピア。+演出いのうえひでのり。+北村有起哉・上条恒彦・橋本じゅん・高田聖子。

客席千人規模の青山劇場(シートが座りやすくて傾斜も良い)を1ヶ月満員にするパワーを持った公演でした。

「何度でも見る」「払った分は満足」「金返せ」の違いを知っている友人に勧められて、チケット完売、オークションでも高めの公演に当日券並びでトライ。
発売2時間半前に到着で6番目。微妙な着順。そのあと1時間近くうしろに誰も並ばず。
ところが、1時間40分前あたりからどんどん人が増えて、発売の時には40人以上に。
一般的には、「まってもいい時間」て、1時間半とみた。だから、その前に来ればいいわけです。ただし、どうしても、というマニアたちは一晩でも平気で並ぶ。こちらは厳しい戦いです。
結局、14、5枚当日券が出て、(前にならんでいた5人のうち、並び席にこだわって後ろの席を取ったペアが2組。ラッキーだった)、中央通路すぐ後ろ、舞台全体が見やすい絶好のポジションをゲット。12000円は高かったけど。

4時間、退屈する間のない舞台でした。大阪系の笑いに客席が引いていた場面が若干あったけれど、あれはクドカンの趣味なのでしょうか、新感線の血なんでしょうか。しかし、全編4時間、せりふをたたみかけ、歌と踊りと照明を絶えず繰り出し、役者を舞台全部を使って動かす。役者の動きとセリフも適度にキレがあって、舞台全体の統一感がある。テンポも良い。座っている観客を寝かさない、というコンセプトに満ちた舞台。ああ、これなら、ふだんあまり舞台を見ない人も含めて、いろいろな観客を満足させるだろうと、その人気に納得。江戸時代の歌舞伎は案外こんなふうだったかもしれない。日常を忘れさせる空間。

シャークスピアの造形の力を感じた。思ってもいないものを手に入れるチャンス、裏切りのささやき、してはいけないことをしてしまったあとの仮借、知られてしまう恐れ、名声や人生の基盤をうしなってしまう恐怖、人生で経験する可能性のあることを、正面から見せる。けれど、シェークスピアは今の日本には重すぎる。だから、クドカンといのうえさんは、今の日本人の多くが一番哀しさを感じることを中心にした。「自分の小ささ」を。
それは、観客のこころをとらえたと思う。「小さい自分」の哀しさを、舞台はちゃんと見せていた。

松たかこはオイルやメタルのような、若くて軽くて単純な(おっと失礼、一途な)役が似合う。内野さんの甘ちゃんでナルシストのマクベスと息もぴったり。ふたりの掛け合いはすべてがマンガのぼけとつっこみ、アニメ声優の発声、お笑い系の動きで、観客は何かを考えるのではなくひたすら面白さを浴びる。

未来くんをみたかったのだけれど、この芝居の中でいちばんぼけとつっこみのキャラクターとして使われて、未来くんには合わなかった。歌って踊れるジャニーズ系の軽い子を使えば良かったのに。この舞台で彼を使う意味を感じなかった。ダンスをみせる舞台ではないのだから。

上条さん、橋じゅん、の2人はほんとにうまい。この2人が出ていると安心する。重いセリフも軽いセリフも、難なくこなす。
北村有起哉くんは、唯一笑いをとる必要のない役で、セリフも立ち姿も動きもよかった。硬質な感じが好もしい。オレステス、楽しみだなぁ。

だけど、
4時間飽きずに見続けながら、ずっと、違和感も感じ続けた。楽しみ切れていない自分。何故なのだろう。
メタルは観客に面白さをサービスし続けた。私のほうから集中する必要が全くなかった。完全に受け身でいられる。私にとって、演劇ではなくショーだった。

私は、自分から集中したいのだと思う。自分が美しさに落ちてゆきたい。一枚の絵の前で30分集中しているときに至福を感じる。相手が相手のメニューとペースで変化を与え続けてくれるショーの楽しさでは、恍惚に近いあの幸福感の世界にはゆけないのだ、と思い知った。

目を釘付けにする存在はめったにいない。だとしたら、脚本と演出の力で、音、光、役者の動き、笑い、セリフのくすぐりで、たたみかける。これは間違いではないのだと思う。重い作品を軽さと笑いで味付けしながら、演じる時代の焦点をはずさない。すごい力量だと思う。

なのに、満員の観客に存分に非日常を味あわせているのに、なんだか、興奮していない自分がいた。
面白かったのだけど、それだけだったのです。
新感線の天保との違い。井上ひさしとクドカンの世代の差なのかもしれない。「面白い」が手段だった時代と目的になった時代と。

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June 04, 2006

劇団新感線 天保12年のシェークスピア DVD

劇団新感線 2002年公演。この長い戯曲を若い劇団が堂々と真っ向勝負で上演したことに拍手。

実際の舞台を見ていない新感線が圧倒的に不利なのにも関わらず、2本の天保を比べて芝居として出来映えは新感線の勝ち!

前半は、お里、お文のバランスの良さで新感線の圧勝。
(くやしいけど、)阿部サダヲの王子が前半の作品全体のスパイスになっている。
後半は上川隆也の柔らかい色気が舞台を引っ張る。
様式の美しさを女性の踊りに集め、生バンドの音がリズムをつくる。
鏡に銀片が舞う三世次とお光のラストシーンは、あれは、蜷川さんがやりたかったことのように感じた。
そして、最後の竹槍をもつ抱え百姓の群れ、全共闘を知る世代には、あのたったワンシーンで充分。
さまざまな場面でそれ以上語らせてしまった蜷川さんのこだわりが、かえって舞台を長く感じさせちゃったね。

若くて達者な役者たちが、脚本の壮大な流れに逆らわず、リズム感良く仕上げた。ひとりひとりのスターとしての存在感や面白さより、役者全体のバランスを重視して観客に作品全体を分かり易くつたえようと言う意思を感じた。アンサンブルプレイに徹して、長い、しかし、良くできた脚本の面白さが充分伝わってきた。

蜷川さんの天保は蜷川さん70歳のお祝いのオールスターキャストの舞台。作品としてよりも、役者を見せた。生で見ているわたしは、賭場の場面に立つ竜也を味わっただけで満足なのだけれど、前半の夏木マリと高橋恵子の掛け合いは下卑た感じがうるさかったし、後半のカラサワくんは自分の欲望を満たしてゆくほどになんだかしょぼくなっていったのが不思議だった。
それぞれの役者が作者の井上ひさしより、演出の蜷川幸雄を強く意識してしまって、自分のパートだけを気張りすぎて、作品全体のまとまりがなくなってしまっていた。

まぁ、沢口靖子はあんなものだと思うよ。台無しにしていなかったのは、大阪のテイストが合っていたから。
彼女の存在が新感線の天保を大衆演劇風にしていて、それもありかなと思った。町内自慢の美人が祭りでスタアになって町内会のみんなが喜ぶ、ていう感じ。もっと、役者として上手な女優を使うと、作品が少し重くなる。または、逆に軽やかになりすぎる。

というわけで、同じ脚本をさまざまに演じる演劇は面白い。歌舞伎の面白さもこれかもしれない。天才がいるときは天才のために、いないときはバランスとリズム。バレエと全く同じですね。

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June 02, 2006

言葉、言葉、言葉

今村昇平さんへの追悼記事。名前を覚えている数少ない映画評論家秋山登氏の言葉。
「近ごろの日本映画の傾向を一言で言うなら<緩い、ぬるい、甘い>である。重くて厚くて濃い今村「重喜劇」が映画史の中に消えたのはいかにも寂しい」

翌日のカンヌ映画祭報告記事。今までに9本をカンヌに出品してきた仙頭武則プロデューサー
「国際映画祭の場では日本で当たった映画はダメだと見る向きさえある、・・・何がしたいのか、何が良いものかという価値観を、作り手は明確に持つべきだ。類型化した感情を、等身大の人物に、説明的に語らせる映画が多い」

カンヌの作品選考責任者ティエリー・フレモー氏が、記者の良い映画とは、の問に
「ピカソの絵画ゲルニカ。見て美しく、芸術性があり、メッセージがこもった作品だ」

茨木のり子さん
「自分の感受性くらい自分で守れ、ばかものよ」
あなたが残してくれた言葉を、噛みしめる。

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