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June 21, 2006

Death Note

6月27日。公開から10日目に、我慢の限界で、観にゆく。その間、ついつい200を越えるヤフーのレビューを読んでしまい、ちょっと予習しすぎ。

200を越えるレビューのもっとも秀逸なひとこと。
「原作ファンというのは、似てる似てないが役者の評価なのか? 俺は原作知らないから、顔や雰囲気が似てるとか似てないは全く関係なし。映画として見た場合、特に中盤以降は藤原竜也の表現力で充分楽しめた。
後編、L(松山ケンイチ)の演技で夜神月(藤原竜也)と真っ向勝負できるかやや不安になったが、そこらへんも気になるから後編も観にいくことにした。」
これ以上、言う必要がありません。

映画の監督は、役者に要求してゆべきく明確な演技イメージを持たずに、作品をつくるのだろうか。
少なくてもこの映画の監督にはない。彼は役者にただ垂れ流しの演技を許している。彼には、カット割りやアングルが映画監督の仕事なのだろう。脚本を映像化することが仕事で、編集で勝負するつもりなのだろう。
監督が役者に表現を要求しない。映画は演劇ではないから? しかしそれが、作品を安っぽくしている最大の原因ではないのか。自分で演じることが出来る、またはなれる、役者以外のすべての人物の安っぽさ。
役者に何を演じさせるかは、監督の仕事ではないのか。

原作モノが安っぽくなるのは、監督が役者に表現を求めず、似ていることだけを、つまり物まねを、要求してしまうから。

脚本は上手くできていた。藤原竜也は脚本に応えて夜神月になっていた。

だけど、監督が望んでいる映像は、エルとリューク、警視庁や夜神家の食卓、マスコミ、犯罪者が死ぬ場面、どの映像もマンガだった。正確に言えば、マンガの実写化だった。

この作品の最大の誤算は、この監督で、藤原竜也をキャスティングしたこと。
監督と主演俳優の、作品に何を求めるかのスタンスが正反対なのだから。藤原竜也くんの指先と字を、監督はそのまま使った。映像の緊張感を考えたら、当然吹き替えでしょう? たとえばピアニストの役で俳優の指先をそのまま使う? 作品のあらゆるところに見えるこの種の甘さのために、夜神月になっていた竜也の緊張感が作品を貫くことが出来なかった。
逆に、原作とは全く別な夜神月になっていた藤原竜也の存在そのものが、マンガ的な「似ている快感」を楽しむことを邪魔している。松山ケンイチのエルを使うなら、ライトはもっと、「似ている」俳優か、いっそリュークと同じCGがフィットする。マンガをマンガ的映像で実写化できただろう。

作品として一体感を持たせるためには、どちらかに、あわせないと。
(もっとも後者に合わせた映画なら、私は見に行っていないのだけれど・・・。)

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Comments

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