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August 2006

August 31, 2006

オセロー 能楽堂シェークスピア

8月29日 梅若能楽会館。りゅうとぴあ能楽シェークスピアシリーズ。

残念ですが、
楽しさがありませんでした。3時間近いシェークスピア。幕間の休憩時間に、あぁまだ1時間半もあるのか、と思っていました。

シェークスピアの戯曲はおもしろい。本で読むより、役者が舞台で演じる方がおもしろい。
目の前で進行している劇をみながらそう感じているのです。戯曲のおもしろさを感じるのです。それなのに、そのおもしろさが演劇として伝わってこない。進行している舞台の空間に、楽しさを見つけられない3時間。

イアゴーの植本潤はせりふに負けて、出だしで前代未聞の「すみません、やりなおします」。
これはもう致命的。いっぱいいっぱいなのが、見ていてつらくなるほど。ところが、そのせいで、この劇中の隠された主役はイアゴーなのだ、と痛感。イアゴーができていないとこの作品は意味をなさなくなることが、はっきりとわかりました。

後半のオセロ、高潔なはずの男がつくられた嫉妬にはまり転落する。
このとき、観客には見えているイアゴーの嘘が、舞台上のオセロには「真実」でなくてはならない。そうしないと、作品が普遍的な悲劇ではなくて、だまされ男の喜劇になってしまう。
谷田歩さんのオセロに、ただ、怒り、がなりたてるだけではなく、むしろ、彼に見えている「真実」に彼の内面がむしばまれてゆく様を、みたかったのです。
イアゴーとオセロの役者に、悲劇を演じてほしかったのですが、それが本当に難しいことなのだと言うことが、今日の舞台でかえってよくわかりました。  

役者の責任ではなく、「能楽風」には、オセロという作品の選択が間違いだったではないでしょうか。
役者はそれなりに発声しているし、懸命に演じようとしているように見えました。けれど、役者が動きを封じられて、せりふだけで演じようとして、長い饒舌なシェークスピアのせりふをしゃべり続ける。せりふは身体表現なのに、「能っぽさ」を指向した演出が、役者の持つ身体表現を殺していました。
ケラの「噂の男」と正反対で、リズム感スピード感を排除。若者に支持される今風の舞台への対抗だったのかもしれません。せりふの応酬の中に静謐な空間を作ろうとしたのでしょうか。しかし、そうはなっていませんでした。狂言は能と違ってせりふがあるけれど、舞台空間がすばらしく緊張します。その緊張は快感です。今日の舞台は苦痛を伴う緊張でした。(まじめに一生懸命やっても、つまらないものはつまらないんだと思うと、いたたまれなかった。)

今日の舞台の収穫は3つ。

市川笑也さんは美しい女形ですね。
国立劇場出身だから歌舞伎座の演目に呼ばれないなんて、そんな馬鹿なこと。玉三郎の次の世代がいない。笑也こそ、次の世代の中心におくべき女形なのに。今日の舞台は、市川笑也を見たのが収穫。でも、歌舞伎で見たいです。

さらに、
シェークスピアはむずかしい。萬斎のハムレットで思ったことが、またくりかえされました。
語られている内容が難しいのではなく、それを表現する到達点にゆくまでにハードルが多すぎるのかもしれない。膨大なせりふ、表裏のある人物たち、せりふに隠された人物の過去。
見ているものは饒舌な言葉の量に嫌気がさす。集中力を失って、状況を変える一言をききもらす。

そして、
オセロの戯曲のおもしろさを知ったのが最大の収穫。
オセロはイアゴーなのです。ふたりは表と裏をなすひとつの存在。
イアゴーは陰です。彼は陰だから、光のあたった表側にいオセロを憎む。自分が取って代わるためにあらゆることをする。
オセロは純真無垢な光。自分の中の闇を知らず、自分の中にある闇に気づけない。暴露された悪事を自分の中ではなく、愛しているはずの「他者」デズデモーナのなかに見つけてしまう。
自らを疑わずに他者を疑ってしまうとき、もうそれは光ではなくなる。オセロは消えるしかない。
光が失われたとき、光によって存在していた闇も消える。イアゴーもまた消えるしかない。

だから、お願いです、蜷川さん!
オセロを真田くんに、イアゴーを竜也にやらせてください。この二人しか、膨大のせりふに負けることなく、饒舌なせりふを超えて、人間の二面性をあぶりだし、闇によって失われてしまう光と、光によってしか存在できない闇を、表現できる役者はいません。

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August 30, 2006

志の輔 独演会

記憶のために。

今年はじめのPARCO落語がとても良かったので、すごく期待して行った。

JR緑の窓口での不条理。いいかげんにしろ、の客たち、でも、現実の世界に本当にいるであろういやな客ではなくて、落語らしいとほほの困った客たち。そうだよねぇ、本当の不愉快は笑いにならない。たぶん、タケシやケラの残酷な嗤いの中にでてくる。

志の輔いわく。講談と落語の違い。どちらも一人でする話芸。でも、落語はほとんどすべてが「せりふ」。そして、講談はほとんどすべてが「ナレーション」。なるほど、そんな風に考えたことなかった。落語は演劇の脚本なのね。講談は小説の語りなのね。

ゴルフの枕はおもしろかった。近々ゴルフを題材に新作を作りそうな予感。きっとすごくおもしろいぞ。

あったかい人情話を聞きたかったので、今日は少し期待に届かず。でも、橋じゅん、カトケン、志の輔、3人ともほんとに巧い。天才の舞台ではないけれど、舞台の満足を堪能できる職人たちに間違いない。

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August 28, 2006

詩人の恋

加藤健一、畠中洋の 二人芝居。 本多劇場にて。

小細工なし、正真正銘の演劇でした。

加藤健一の歌、畠中洋のピアノ、達者で巧くて、初演からずっと声楽の練習を続けてこの再演にそなえていたと聞けば、役者はこうでなきゃ、とうれしくなる。若い高慢なピアニストと日の当たらない初老の声楽家の感情が、役者の正確な発声と弛緩のない動きで丁寧に描かれてゆく。これが演劇。気持ちの良い、まっとうな舞台でした。

若いスティーブンが老声楽家のリードで、「詩人の恋」の最初の曲を歌う場面。
嫌々声を出すスティーブン。
マシュカン教授は、スティーブンのいらいらにまるでつきあわず、強引にレッスンをすすめる。
詩の中に畳み込まれている感情が、ピアノの音色の中で、ときあかされてゆく。詩は五月の花をうたうけど、それは目の前にある春ではない。哀しみの中で思い出されている春。人生の哀しみをくぐって、思いでのなかにだけある春。
言葉を知ろうとしていなかった若いピアニストが、言葉に込められていた人の思いを知って、はじめて、ピアノの音色が感情を持ってゆく。
美しいシーンでした。

第2部で明かされてゆくマシュカン教授とスティーブンの「ユダヤ人」としての悲痛は、わたしは少々苦手なのです。(これはこの舞台とは関係ない私の個人的な心情なのでしかたない。)
しかし、カトケンは私の苦手意識を超えて、マシュカン教授のたくさんの感情のひだをたっぷりと見せてくれました。けちで卑屈で心に深い傷を負い、音楽を心から愛し、詩を深く理解し、オーストリアで人生を送る、収容所で死ななかった生き残りのユダヤ人。ウィーンでは哀しみは癒されない、しかし、ウィーンで音楽への愛を抱き続ける。

人はなぜ芸術を求めるのだろう。音楽や詩、絵や舞台を求めるのだろう。

カーテンコールでカトケンは、笑顔でその問に答えていた。体が生きるために必要ではないけれど、心が生きるために必要なんだって。

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噂の男

堺雅人くんをみたくてチケットを買い、ケラの演出は自分にはだめかなと思って期待を消し、でも、橋じゅんはよいかもしれないと、RARCO劇場へ。

予想を裏切らない予想通りの2時間。役者を堪能。

橋本さとし、橋本じゅん、山内圭哉、八嶋智人、堺雅人。

橋じゅんが、圧倒的にうまくて、小朝の回転の速さと志の輔の人間味を足して2で割ったような心地よさ。
前半では売れている相方への屈折をマネージャーをいたぶる残酷で表し、後半では相方の死で廃人になった惨めな姿で人の愚かさと哀れを演じながら、最後に、人はずるくそれゆえに哀しいことを暴露して、ラストをみんなもっていっちゃった。今日の舞台は、橋じゅんを堪能して、チケット分満足。

山内圭哉もうまかったな。処世術だけで生きる芸人のバックステージの姿、でも「ぼんちゃん」が結局ただ一人常識的な言動をし続ける。まともな人間は、小心に長いものに巻かれながら、ちゃっかり自己主張してるし、いざというときは常識的に動く、そんな日本のおおかたの人々のすがたを実に気持ちよく演じてた。

橋本さとしは、前半の、「アキラ」が良い人だった場面はうまかった。相方のわがままに当惑する売れっ子芸人。ただし、後半、「アキラ」の、人に見せない残酷さ、結局かわいいのは自分だけという醜い姿を演じきれていなかったね。そこが、この作品の肝だったんだけど。善良な人気者の「嘘にまみれた姿」を、もしかしたら橋本さとしは嫌いだったのかもしれない。橋じゅんの方が、造形された人物像を「良い悪い」の判断を無視して演じる。ただその人間になってしまう。だから、存在が圧倒的に迫力を持つ。

八嶋智人も悪くなかった。

で、堺君はね、この芝居の演出家に一人だけあわなかった、というより犠牲者になった。
ケラは音楽、しかもメロディーではなくリズムの人なのね。舞台はスピード感とリズム感で観客を興奮させる。
でも、絵画的センスはない。メロディーで語ることにも興味ない。絵画的な美しさや声でドラマを語る演出はない。それは堺君の良さを使わないということだった。

脚本は15年前の事故と15年後の新しい仕組まれた事故の二重構造のはなしを螺旋状にすすめる。かなり集中力の必要なはなしで、筋を追う快感を楽しむ・・・が、
演出のケラは話の筋を追う楽しみではなくて、残酷な笑いを次々と手品のように披露する、観客にとって受け身の笑いで舞台を満たしていた。死体や血やいじめを5分に1回くらいの間隔で配置し、生理的な刺激で「笑わせてもらいたい」観客をくすぐる。これが今風の人気舞台の味なんだろうな・・・と感じつつ、これなら、TVのバライティー番組やお笑い番組で十分ともおもう。

笑いはあったけど、幸福感はなかった。役者をあじわったけど、作品は味わえなかった。

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August 14, 2006

王の男(DVD)

芸人(韓国のことばで広大クォンデ)チャンセン役カン・ウソン。
女形コンギル役イ・ジョンギ。
王ヨンサングン(燕山君)役チョン・ジニョン。

DVDで2度見た。来春(正月)日本でも公開されるという。映画館でもう1度見る。

名人と若い女形の、ふたりの芸人の螺旋のような心の結びつき。綱の上で、綱の下で、路上で、追手から逃げる草原で。
「相方と心を繋げて芸をするのに目がくらみ・・・」
芸に目が眩む。その通りです。わたしたちもいつも目を眩ませるのです、目を眩ませてくれる芸を求めて、あきれるほど高いチケットを、大変な手間暇をかけて、買うのです。力いっぱい感想を語るのです。まったくもって、目を眩ませているのです。
このたった一言のせりふだけで、思い出してじんと幸せになる。

ふたりの最後の芸を見る王のうれしそうな笑み。
孤独地獄だった王の人生を、たった一度最後に、心を解放させて本当に笑わせて終わらせてあげた。心に哀しみを持つ者にそれがどんな悪人でもどこかで救いを与える、脚本と監督の心の優しさに、拍手。
チョン・ジニョンさん、主役ふたりに評価が集まって賞を逸してしまったけれど、わたしは、あなたにはなまるをあげます。
王がコンギルを呼んで、先王と母を失った王子(自分自身)を影絵で演じる。狂うしか父と母と自分を忘れる方法のない王の悲しみに、あたしは泣きました。もしもこの人物が芸の世界で生きられたら、他人も自分も苦しめる不幸を背負わずに解放されただろうと、そんなことまでも思いました。
死ぬ前に、笑うことが出来て、よかった。
それほど深い孤独さえ癒す力を、芸は持つ。だから、芸をする者も、観る者も、その力に目を眩ませる。

どの場面でもどの登場人物にも、気持ちよく感情移入できる映画でした。

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