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October 2006

October 30, 2006

平成名人会 明治座

「風間杜夫の平成名人会」
明治座。

落語には大きすぎる入れ物かなと心配でしたが、むしろ、落語を好きな大勢の客が豪華で古風なホールいっぱいに大きく沸いて、平成の名人たちを引き立てました。

柳家花緑は小さんのお孫さんだそうです。二八そばを熱演。掛け合いの間合いがまだこれからとは感じましたが、そばをすするさま、ちくわを味わうようすなど、形態模写の部分が美味かった。毛並みの良さが小粋な様子に育ってゆく期待を持ちました。

正蔵は昨年の襲名披露の会から11ヶ月近く。ずいぶんと年を取ったように見え、それがこぶちゃんの子どもっぽさから正蔵の円熟への脱皮途上のように好ましく思えました。はなしも、肩の力がずいぶんととれて、お父さんの爆笑系や義兄の小朝の賢い回転の速さとは多分180度違う、自分の持ち味を目指し始めた落ち着きがありました。題は知らないのですが、滝の脇でうたた寝し夢の中で三歌聖に歌の手直しを受けるお話。内容は笑いよりも言葉で表現することの奥義、もう2,3回聞いて自分の持ち物にしたいような噺でした。こぶちゃんには、(失礼!実は真面目な)平成の正蔵には、この線が似合っていると思うのです。

春風亭昇太は客層にあった新作の爆笑系。お客さんが正蔵を頭で味わったあとにお腹で笑わせるバランス。

軽食のとれる休憩を挟んで幕が開けば、小朝のロックじゃみせん。この人はほんとに何をやらせても巧い。お客さんを納得させます。でも、今日の客層には計算が違ったのではないかなぁ・・・とおもったのですが・・・。これがあとで、合点がゆくようにできていました。
なぜって、
本日の座長、風間杜夫さん。餅は餅屋ですから、まあこんなものでしょう。で、小朝が噺ではなく色物を、寄席とは違う雰囲気で演じたのは良い前菜だったわけです。さすが、小朝。

真打ちは志の輔。
まくらは、ばりばりのタイムリー、高校の履修単位ずる事件。「もう毎日百件単位でふえてゆく・・」ははは。
利口ばかりはこわい。利口ばかりだと馬鹿になる。そしてね、馬鹿と利口の違い、馬鹿は、伝染(うつ)るんです。

「太郎くんと二郎くんの草刈り、残りはいくつ」「やってみなくちゃわからない」
「さるとうしとうまとひつじとライオン、仲間はずれはどれ」「仲間はずれはいけません」

今日の噺、良かったなぁ。枕も、噺も。志の輔の暖かい目と権威批判、どちらにも渇望している日常だから。志の輔に、今日はありがとう。PARCO寄席も楽しみ。

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October 22, 2006

万作を観る会 

10月22日。国立能楽堂。

小舞 住吉 万作。
狂言 萩大名 石田幸雄 (万之介 体調不良による配役変更)。
狂言 柑子 万作。 萬斎。
奈須与市語(かたり) 万作。
狂言 二人袴 野村遼太。 萬斎。.

柑子まで観て、やはり万作はうまい、みかんをすするさまの美味そうなこと、と感心しつつ、しかし、今日は万作さんの空気をふるわせる至芸は観られないかな、などと物知らずにも思った。

ところが、「奈須与市語」。

狂言の世界にこのようなジャンルがあるとは、まったく思いもよらないことでした。能「八島」の幕間に演じられる「間狂言」なのだそうです。しかし、狂言の「笑い」は一切ありません。これは、現代の演劇なら一人芝居と分類されるものでしょうか。
ほとんどが膝をついてのせりふ語り。判官義経が平家の挑発を受けて、まだ初々しい若武者の与市に波間に浮かぶ扇の的を射よと命じる。与市がこの恐ろしいプレッシャーのかかった命を受ける。演じる万作は判官になり誰もいない目の前に向かって命令を下し、即座ににじって体を反転し、与市となって判官にかしこまる。判官に厳命を下されて、与市は馬上で波をわけ、潮を結んで手水とし両眼をふさぎ、南無八幡大菩薩、四つ引き絞り、矢はひいと飛んで、的をぷっつりと射切る。

ただ、白い照明を浴びるだけの四角い能舞台に、波の音がたち、風で船縁が揺れ、馬が海中に進み入り、矢が波頭を越えてまっすぐに飛ぶ。

白い舞台の上にいるのは、齢70を越えた演者ただひとり。

これはいったい何?
この舞台を観てしまったら、近代の演劇の照明も衣装も音響も派手な大道具も、一切が消え去ってしまう。
これはいったい何?

今日はこの1本で、極上の満足。

万作と萬斎と、親子とはいえ、芸を表す自分自身に求めるものの違いが際だって、勉強になりました。
2年前に万作の親、萬斎の婿で観た二人袴を、今日は高校1年生の若い婿と萬斎の親で。
萬斎はのびのびと楽しく演じていました。お父さんと同じ板にいない方が、この人の良さが表現されるように思いました。彼は彼の時代をよく表しているように思います。軽いしゃれた笑いで見る人を楽にさせる楽しみ。

わたしは、万作の美しい緊張感で心が解き放たれる。そんな人間は、もうこの時代では絶滅品種になっているかもしれない・・・。そんなことも思いました。

24歳の「彼」に、奈須与市語をやらせてあげたい・・・。さぞや、美しい若武者となることだろう。
大勢の演劇関係者の中に、それを思いつくものが、誰もいない。残念なことです。

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October 17, 2006

オレステス 最後に。

10月14日 夜公演(20:20) カーテンコール。
9月25日の満面の笑みでもなく、30日の今日はだめだったんだなと言う正直な顔でもなく、

少し不思議な・・・満足でも不満でもなく、何かを不思議に感じているような・・・表情をしていた。
それとも、見ている私の心が、勝手に私の目にそんな印象を映したのだろうか。

同じ日の昼公演はね、30日に比べて声も演技も十分戻っていたけれど、彼はちょいと悔しい顔をしていた。何しろ彼には珍しく(私は初めて体験しました)、しかも3回も、せりふをかんだから。かんだあと少しの間、調子が落ちる。カテコの顔を見て、藤原竜也くんはほんとに正直な人だと感心(?)。

夜公演は、(北村くんのスッテンで劇場のはじっこのマナーの悪い客約2名(すみません)が声を殺しておなかを抱えはしたけれど、)竜也の美しい横顔を堪能し、低い繊細な声とほとばしる言葉を聞けた。声を発する前の綺麗な静寂もあった。
ただ、立ち上がって拍手をしながら、
「この演出では、これが限界」と、その思いがくるくると回り、
そして、思った。
もしかしたら、竜也も、舞台の上で見えない「天井」を感じたんじゃないだろうか。
マニアの私の勝手な思い入れだろうか。

あの不思議な、何かに問いかけるような、気持ちが宙空をゆくような・・・表情。
作品(演出)が、彼を、約束されていたはずの「重力のない天空」に解き放さなかった、
作品(演出)そのものが、彼が翔ぶことを邪魔して、邪魔し続けて、
この舞台が昇華するチャンスを邪魔し続けて、終わった。
彼の無意識は、いや、彼の体が、それを感じていたのかもしれない。

竜也と吉田さんの絡みは、舞台を追うごとに鋭くなっていった。互いに挑みかかる姿は、作品の最大の柱になった。オレステスが逃げてゆくメネラオスにつかみかかる、メネラオスがオレステスをうち捨てる、闘いの場面。そして、ラストの二人の目を合わせないにらみ合い。二人ともかっこよかった。

瑳川さんと竜也はもっとせりふが応酬していれば、とてもスリリングだったろう。二人のせりふは本を表面的に読めばそれぞれの主張の場だけなのだけれど、言葉を発しないせりふを入れて「応酬」にすることはできたと思う。しかし、演出はそうしなかった。相手の「主張」をただ聞いているだけ。(もちろん二人とも、限定された立ち位置の中では、最大限オレステスだったしテュンダレオスだったけれど)。

北村くんの腕に抱かれた竜也は、舞台を重ねるごとに、綺麗になっていった。
14日昼公演の北村くんはこれまでで最高だった。強くて優しくて、ピュラデュスの友情に私まで癒された。竜也が北村くんの腕の中で伸びやかに演じる、わたしが一番好きな場面。
(だから、あの日の夜はすご~く期待してたんだよ、北村くん。あそこで、ころぶなよ~、本人が一番悔しかろうが。)

しかし、男たちが作品を男たちの闘いに仕上げて行けば行くほど、舞台は分裂していった。
蜷川さんの演出をそのまま被り続けた女性たちと、そこから脱出した男性たちと。
黒衣の女たちの動きに、何か意味があったのだろうか、結局「悲劇の連鎖」それだけ?「ギリシア悲劇の激しさ」それだけ?それはあの作品の中にどんな意味を持つの?オレステスの悲劇の中で何の意味があるの?蜷川さんが描きたかったものは何なのですか?あの降ってくる国旗に何か現代風の味付けをして観客の目をくらませる、まさかそれだけ?
男たちの演劇的で緊張感にみちた刺激的なぶつかり合いを、演出家は無視して終わったのですか?
舞台は人によってこそつくられるのに、蜷川さんは物を重ねる。

オレステスを7回見た。
同じ舞台を、これだけ重ねて見た。
見た私が馬鹿だろうか。藤原竜也くんのファンなのではない。
藤原竜也の中にある「天才」を浴びたいマニア、それだけです。
でも、7回も見たから、許されると思う。蜷川さんの演出について、こう言ってしまっても。

俳優を大道具の1つとして扱い、水や顔の写真や檻や汚い乳房を振り回す女の体といった「物」を直截にぶつけてくる、猥雑な空間。そういった(新奇な?)思いつきで舞台空間を満たし、ラストシーンで話をひっくり返す「驚きの」演出をする。
竜也の繊細な表現は、あなたの「思いつきを足してゆく演出」には合いません。
竜也の天才は、舞台空間に美しい焦点をつくる。彼に光が集まり、彼から光が発する美しい焦点。
能や狂言や古典バレエの舞台にたたせたいほどの静謐な緊張感。観客は彼に釘付けになる快感を味わう。

オレステスの舞台は、男たちのつくる空間を、終始、女たちが邪魔していた。
それは彼女たちの責任じゃない。
作品の焦点を、雨に濡れながら傘を振り回して叫び踊るコロスとひたすら目をむきだして叫ぶエレクトラに当てて、最後に山のように国旗をふらせた演出家の責任です。
大阪の舞台で、後ろの客が一言「資源の無駄やな」。
あの舞台を見た多くの観客の正直な感想だと思う。

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October 06, 2006

中島敦「幸福」-現実と真実の間。

普通に人が暮らしていて自分もその中の一員である空間を「現実」と呼びます。

でもその空間にある人間関係や様々な義務や我慢は、自分の心の幸せとはつながっていない。

自分の心の幸せが満たされる時空間が心にとってはまさに「真実」の時間。
「現実」と「真実」が遊離していない人生を生きる人々は幸福です。
でも、それが遊離してしまって生きる人もいます。

毎夜見る夢が「真実」なら、現実がどんなに悲惨でも、夢で生きる自分が真の勝利の笑みを得る、と言う物語が中島敦の「幸福」でした。あの小説の奥底の意味は怖いものです。人が現実と思って満足を得ている時空間を根底からひっくり返し、人の心に幸福を与えない「現実」の無意味を告発する物語ですから。

現実世界を否定してはいません。なんといってもここで金を稼ぎ、ここで情報を手に入れ、ここで称賛を浴びたり、不愉快を経験して、それを貴重で面白い経験として咀嚼しているのですから。敵意がわきつつ愛しているよ。だけど、どうしようもなく疲れることもある。人々が平気で要求してくる「当たり前」に。それはあんたの、わたしの、彼らの、ただのむき出しの欲望にすぎない、なのに、それに気づいていない無神経に、心底疲れることがある。中島敦も嫌になっちゃんたんじゃないのかなぁ、だからあんな小説書いたんじゃないのかなぁ。ぜ~んぶ、ひっくり返したい、あぁ、ちゃぶ台返ししたいってね。

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October 02, 2006

理由は。

2006年9月30日。5回目のオレステス。

カーテンコールに出てきた藤原竜也くんの表情を見るまでは、見る側のわたしの不調かもしれないと、考えていた。けれども、カーテンコールに立つ彼の表情の正直なこと。「今日はだめだったんだな」。彼もだめだと思っている、それを確認して、安心したようなうれしいような気持ちもした。一緒に見た友人も全く同じ。

それでも、30日の舞台から2日たって、まだ、わからない。何が違っていたのか。25日の満面の笑顔でカーテンコールに立ち、観客席の私がガッツポーズをしてしまった、あの日と、何が違っていたのかわからない。

たとえば、吉田鋼太郎さんのメネラオスにこの日は完全に負けていた。吉田さんたら、腹が立つほどうれしそうに伸びやかに楽しげに遊びさえ見せてガンとばして演じてたよね。(悔しい!)
瑳川哲朗さんのテュンダレイオスは貫禄で竜也のオレステスを受けていたし、北村くんのピュラディスも骨太な友情を見せていたのに、対する竜也がだめだった。何で?????、なぜなのか、何が違っていたのかわからない。唯一わかったのは、声に竜也の魔法がなかった。

声がかれているのとは違うと思う。それならわかりやすいのだけど。
声にあふれるような色彩や香りがないと、長いせりふを退屈に感じてしまう。竜也ではじめての経験。中島さんのように同じテンションで絶叫していたわけではない。せりふに強弱も高低もあった。でも、コロスやエレクトラの五七調の妙な節をオレステスのせりふにも感じた。なぜ????

何かを上手になぞって演じているのだけれど、彼がオレステスになってそこに立っている、という舞台ではなかった。
藤原竜也でも、こんな舞台があるのか。
十分迫力もあり、激しく、ぎりぎりに追いつめられた野生動物のような表情をして演じていた。だけど、それは、プログラムや大本営発表の劇評や雑誌のお約束の記事でいわれている演出の求めるもので、その範囲の「演技」なら、彼がやらなくてもいい。

 10月2日深夜0:40、ロンシャン競馬場。
 ディープインパクト、フランス凱旋門レース。
 最後の300メートルで、はじめて後続馬に指されて負けた。彼は飛べなかった。なぜだったんだろう。

神でない身が神の領域に達するのは、幸運と並々ならぬ努力と天賦のひらめきと壁を越える才能と、
彼ができるあらゆることをして。
それでもなお、女神が微笑まないときがある。そして、女神が微笑まなければ奇跡は起きない。

25日と30日と、藤原竜也の何が違うのかわからない。なぜ違ったのかわからない。
命あるものには「絶対」はあたえられていない。理由はそれだけなのかもしれない。

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