« October 2006 | Main | December 2006 »

November 2006

November 26, 2006

顔見世大歌舞伎(11月大歌舞伎)

オセロのリベンジなる(笑)。

今まで観た歌舞伎の中で一番楽しかった。席がまた良かった。3階東2列目中央。花道を正面に見下ろす。舞台は右3分の1ほどが見えないけれど、それほど気にならない。これで2500円、なんてリーズナブル!癖になりそう。
演目は伽羅(めいぼく)先代萩。「先代」は仙台に通じて、仙台藩のお家騒動を時代を室町に変えて描く時事もの。わかりやすい善玉悪玉の物語の中に、武家社会への批判精神がきっちり生きていて痛快。5幕7場の通し、幼君暗殺をねらう悪玉と守ろうとする善玉の手に汗握る対立が、女ばかりの奥御殿、妖術使いの床下、正否を裁く男たちの座敷と、場面の色合いの変化が鮮やかで4時間近い物語に飽きることがない。作劇がおみごとでした。

幼君を守る乳人正岡は立女形の最高峰の役なのだそうで、さもありなん、体を張るどころか幼い我が子の命まで犠牲にして幼い主君を守る。武家社会のあっぱれの裏で、人前ではわが子の死に涙さえ見せられない母の悲痛がある。これは男社会の論理に生きる確信に満ちた姿と子を失う母の哀しさをあわせて見せる難役。かつて、玉三郎が見事に演じたのだそうで、(観たかったなあ!!!!!)、菊五郎さんも頼りがいのある気丈な主人公で、悪くはなかった。
正岡の味方沖の井を三津五郎。テレビドラマや平幹とやった「獅子を食う」より、歌舞伎の板の上の方が、ずうぅぅっと良かったです。型の中で演じる方が向いているのではないでしょうか。

そして、菊五郎の正岡の主人公ぶりをひきたてて見せたのは、敵役八汐を演じた仁左右衛門。舞台が終わってから思い出すのは仁左右衛門の憎々しい悪人ぶりばかり。それでいて、客席には八汐の憎々しさに笑いがおきる。この方は、悪人をやらせたら天下一品なのですね。色悪が素晴らしかったと聞くと、ほんとに観たい!!!!と思う。物語の後半、善玉のヒーロー細川勝元の二役でその演じ分けも面白かったのですが、ほとんどせりふだけで動きのない勝元より、憎たらしい八汐の方が仁左右衛門さんの色が光っていた。

悪玉の親分仁木弾正(八汐の伯父)に團十郎。ただ座っていただけの十月は??でしたが、仁木弾正の死にざま、さすがでした。悪役でこれだけ立ち回りを見せ凄みをきかせて死んで行けるのですから、役者なら誰でもやりたいでしょう。リチャード3世と並びます。出番が後半だけなのがもったいない。いっそ、八汐と二役の方がやりがいはありそうだけど、それでは仕組みが単純すぎるかな。

歌舞伎を堪能した1日でした。終わったとき、隣の方と思わず顔を見合わせて、「のめり込んで観たので疲れましたね」と声を掛け合ってしまいました。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

November 09, 2006

幹の会 オセロ

30年前日本の商業演劇を変えた「近松心中物語」と蜷川演出の最高傑作「蜷川マクベス」のビデオを見て、
昨年のドレッサーで今のヒラミキのナルシストぶりも確認済みで、ヒラミキのオセロに期待しました。
「真田ハムレット」「三國柄本ドレッサー」(ともにビデオ)で存在感のあった三田和代さんも楽しみで、
グローブ座へ。

見終わって、日本の現代演劇の深刻な状況に、重たい気持ちになって線路沿いの道を歩いたのです。

グローブ座。本場を模し日本でのシェークスピア演劇の拠点とするべく作られたという建物。
明治座や歌舞伎座の古風ながらも重みのある風格に比べて、悲しいほどチープ。
風格を求めないなら、せめて、スタイリッシュにつくってほしかった。建築家の志が感じられない。世パブの方がずっと良いです。明治時代につくられた建物に風格があるのに、なぜ、平成の建物は安っぽいのでしょうか。


平さんの衣装とメイク。大きな宝塚劇場ならあっていたかもしれないけれど、小さいグローブ座では○○どん屋みたいに見えました。悲しかった。ヒラミキの声の深い響きは素敵でした。目を閉じて聞きました。
平さんの息子さんのイアゴ、フラメンコの曲をバックに軽やかにステップを踏む演出。だけど、なぜフラメンコなのか、最後まで意味不明でした。
三田和代さんは可憐でいとおしいデズデモーナを熱演して、わるくはなかったのですが、いかんせん、役の年齢と実年齢のギャップが大きすぎました。女優は男優に比べて不利です。デズデモーナとオセロの年齢に「大きな差」を感じないと、この戯曲は根底が崩れてしまうのです。演技力ではカバーしきれないのです。

1部に比べて、オセロが嫉妬の魔物にとらわれて崩れてゆく第2部は、ヒラミキの熱演で十分重みがありました。
照明は陰影を極端に強調して、オセロやイアゴの心を映し出してゆく演出意図がよくわかりました。
ただ、わかりすぎて、かえって、俳優の演技を越えて過剰だったような気がします。
そして、オセロの愚かしい苦悩をヒラミキが熱演すればするほど、戯曲は重苦しく救いがなく、ゆえに単調で、
私が舞台に求めるもっとも大切なもの、幸福なカタルシスを感じることが出来ませんでした。あまりにも真正直にシェークスピアを演じてしまったのでしょうか。

戯曲のおもしろさが1つも生きていなかった。それが残念です。面白いことは「芸術的演劇」では罪でしょうか。芸術作品は気むずかしく見るべきなのでしょうか。
蜷川さんは観客を退屈させないことに徹している。新感線のいのうえひでのりさんは見て楽しく豪華でお腹いっぱいになる舞台をつくる。ケラは刺激と笑いを恐ろしいほど放射する。これらの舞台が、若い観客を呼びチケットが完売になるのには、まっとうな理由があるのではないでしょうか。
歌舞伎は様式の中に安定した楽しさおもしろさ美しさがあります。観客は約束された満足をもって劇場をあとにすることが出来ます。
この夜のグローブ座の観客は、(50代以上の方が多く特に男性客が多いのが目を引きました)、幸福な満足感をもって劇場をあとにしたのでしょうか。聞いてみたい衝動にかられました。
日本の現代演劇は「楽しく飽きさせない軽い」舞台と「難しい意味を重く問いかける単調な」舞台と
二極分化してゆくばかりなのでしょうか。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

演劇と映画

サブタイトル デスノートThe last name でわかったこと。

2006年11月6日月曜日の昼過ぎ。渋谷。
平日の昼に、なぜこんなに小学生中学生高校生がうじゃうじゃといるのかいな。ちゃんと学校行っているのか?、1時間半前に映画館に行って、「立ち見の席になります」って・・・原作漫画の人気?公開前に前編をTV放映した日テレの作戦勝ち?

見終わって。

監督にはおめでとうを言います。前編でこき下ろしてすみませんでした。作品としては、良くできています。相変わらずエキストラの下手さはあったものの、前編ほどの惨憺たる有様ではなかったし。主要キャストの松山くん、鹿賀さん、ミサ役の女の子も、上手でした。何も文句はありません。映画の雰囲気によくあっていました。特に松山くんは良いところを全部もって行ってファンをふやしたことでしょう。観客に見せたい自分を巧く見せていた。脚本は原作のくどさを払拭して、話をよくまとめていたと思います。

で、以下、藤原竜也について。

おすぎだかぴーこだかが、ミスキャストと言っていたとか。
むっとしたのですが、見終わった今は、当たっていたなと思う。竜也が悪かったのではない、むしろ、彼の演技力は十分に発揮されていた。にもかかわらず、2時間以上、竜也が主役として出ている映画を見終わって、マニアの私が幸福になれなかった。考えました。そして、わかったことに愕然として、それでも、竜也について考えたことを書かずにはいられない病気ですから、書きます。

あの脚本で、夜神月をやって、私が満足できなかったとすれば、
監督も脚本も周りの演技人も悪くないとすれば、
結局、見る側の私自身か藤原竜也くん自身に原因があるとしか思えない。

映画館を出て渋谷の人混みを歩きながら、悲しくなるほど満たされていない気持ちに自分で傷ついて、
頭に浮かんだのは「三匹の侍」のヒラミキだった。
あのものすごいナルシシズム。照明を全部自分に集めてしまう強烈なナルシシズム。結局、映画では自分が「どう写っているか」「どう見られるか」がすべてなのだ。映画での演技とは「自分をどう見せるか」ということなのだ。

竜也が舞台の上で天才なのは、彼が「何者か」になっているからで、そのとき彼は、カメラに自分がどう写っているかという視点を全く持っていない。かれは自分がつくる世界の中にいる。その世界の中で息をしている。観客は彼がいる世界に釘付けになる。

映像出身の俳優が舞台に立ってしまって「自分がどう見えるか」ということばかり気にして演じたときの、「あちゃ~」という感じ。舞台を学芸会にしてしまうる強烈な下手さ。彼らが「見られたい」という中途半端な自己顕示欲を、舞台の上で捨てられないからだ。

逆に、自分を見せたいという自己顕示欲がない者が映画のカメラの前に立つとき、彼はカメラに何を見せているのだろう。竜也は見せたい自分など持っていない。「彼がいる世界」を観客に見せているだけなのだと思う。

映画俳優と舞台の役者は違う。映画俳優と舞台の役者は求められている資質が違い、竜也は舞台の上でこそ彼の才能を発揮する。
竜也がナルシストでないと痛感したのが、9月中旬に新宿でやったデスノート後編の街頭プロモーションだった。もう忘れてしまいたいあの映像が、今日の「幸福になれなかった」答えなのだと思う。

舞台はそこに作り上げられた世界をどう見ようが私の自由。わたしは役者と演出家が完璧に作り上げた世界を私の視点で存分に味わう。良い舞台が終わったあとには、好きなだけ好きな形で反芻できる。優れた役者の舞台であれば、私は演じた役者のいた世界を彼らと一緒に味わっていられる。
(私は、映画ではそれが出来ないのです。これは私自身の能力の問題なのですけれど。)

私が藤原竜也くんの舞台を愛しているのは、彼がまさしく優れた舞台役者だからです。
デスノートの夜神月をもし舞台でやったら、わたしは泣いたと思う。夜神月が悲しくて。でも映画では泣けなかった。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

November 05, 2006

蜷川&ヒラミキ マクベス (ビデオ)

今まで見た蜷川作品(ナマ、映像)のなかで、もっとも蜷川の美学が成功している舞台。素晴らしい。この作品なら「世界の蜷川」になっても不思議はない。「近松」での成功で、彼の表現が一気に駆け上がったのでしょうか。音楽、衣装(ジュサブローさん)、舞台(妹尾河童さん)、照明、そして戯曲(シェークスピア!!)、そのどれもが渾然一体となって見る人を陶酔させる。商業演劇を古典バレエやオペラや歌舞伎と同じ舞台芸術というジャンルに昇華させ得たといっても良いと思う。

成功の最大の理由はキャスティングでしょうか。マクベスを演じるヒラミキも、マクベス夫人を演じる栗原小巻さんも、正真正銘「絵になる役者」です。お二人が舞台上で「絵になっている」その姿を、堪能できました。おふたりでなければ、舞台上で肝心の人間が蜷川演出の強引なほどの画力に埋没してしまったことでしょう。また、逆に言えば、このふたりの絵としての力を存分に発揮させるには、このくらい強い演出が必要ということでもあるのでしょう。二人とも巧い、そして美しい、所作も立ち姿も自在に変わる声も。ほかの舞台ではちょっと鼻につくかもしれない過剰なうまさや絵のような表情が、この舞台では実に映えていました。

さて、ここまで、絶賛しておいて。
蜷川さんの演出はここで行き止まりに到達したのだと思います。この舞台は呪縛になるほど過剰に美しかったのだと思います。
すばらしく美しい、けれど、それだけです。
ヒラミキも小巻さんも絢爛豪華な絵のようで、ナマで見れば百万倍も素晴らしかったのだと思うけれど、映像で見るとどうしても「冷凍食品をレンジでチン」したような距離があって、マクベスとマクベス夫人の普遍的な哀しさを味わうことは出来なかった。絵として美しい蜷川演出は、戯曲の言葉のかげにひっそりと隠れている知性に光を当てることはしない。ヒラミキも小巻さんも、素晴らしい演技だったのだけれど、性格俳優ではありませんから、蜷川演出の効果を倍増する力はありますが、蜷川演出で吹き飛ばされがちなものを補ってはくれない。多分、ふたりとも役者としての外見が整いすぎているのでしょう。

人の中に、特に、普段光を浴びることのない小さき人間のつぶやきの中に、演劇で表現して心を射抜く何かがあると思うのです。それを見つけられなかった。ただただ破格の様式美に圧倒されて。

最後に。
わたしは、この戯曲を、真田さんのマクベス、竜也のマクベス夫人で見たいです。
ヒラミキがマクベスのせりふを言っているときにずっと、失礼ながら、先日見た真田ハムレットを思い出し、彼ならここをきっとこう語る、と思い、小巻さんがマクベス夫人のせりふを言っているときに、竜也が演じる悪魔的なマクベス夫人を想像し、マクベスと夫人の絡まり合うさまを想像して、悶絶(笑!!!)しそうになりました。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 03, 2006

ドレッサー 三國&柄本版

17年前の舞台の中継録画。三國連太郎さんの座長、柄本明さんのノーマン、座長の妻に三田和代。

昨年、平幹&西村雅彦版で見たドレッサー。ヒラミキはギラギラとした鋭く強い光源から光を放射させて、どんなに老いても孤高の俳優は美しく、それゆえに傲慢ぶりがいっそう憎いほどで、ノーマン役の西村くんが卑屈に見え、ノーマンと座長との間に「隠された憎悪」までも感じたのでした。

ところがどっこい、比べれば、三國さんと柄本さんの同じ作品は、暖かく愛に満ちていました。
ヒラミキには周りの役者を緊張させるオーラがあるのでしょうか。支配と服従のような。(でも、近松で共演した太地さんは全然緊張していなかったっけ)それとも、西村雅彦くんに、自分が主役と言う過剰な演技があって、それが緊張感をうんでいたのでしょうか。昨年見たドレッサーは座長と付き人の間に、ちょっと間違うと火花が散ってしまいそうな雰囲気があった。観客は、西村くんの細かい動きよりもヒラミキの傲慢と言いたいほどの美しさに目を奪われて、舞台を楽しんだのです。

三國さんと柄本さんの座長と付き人の間にはひやっとする緊張感が全然ない。
素晴らしい俳優に付き人のノーマンが目をくらませ、虜になって、彼の人生を没入した。その没入にいつの間にか観客も共感してしまっているのです。
昨年のドレッサーは、ヒラミキ座長が死んで西村ノーマンが舞台に残ったときに「あれ、主役死んだのにまだ終わりにならないの?」と強い違和感を感じました。
その違和感が三國柄本版には全然なかった。それどころか、老俳優が死んだとき、彼を支えていたノーマンがこの舞台の真の主役だった・・・ノーマンが抱き続けた崇高な老優への深いあこがれ・・・その思いがこの作品の真の主役だったのだと、よくわかったのです。
それほど愛していたからこそ、(観客にその愛が共有されていたからこそ)、感謝の言葉を残されなかったことを知ったノーマンの悲痛な姿が、ラストシーンになりえたのです。作品の題名「ドレッサー」が、見終わって、心にしみじみと響いたのです。

どちらの作品も、俳優の個性が生きた舞台で面白かったのですが、柄本明さんのラストシーンに泣けて、満足。

同じ日に2本見た作品(舞台録画)の女優がどちらも三田和代さん。この人は柔らかさと芯の強さを併せて持つな女優さんなのですね。一昨年「喪服のエレクトラ」で見たときは、大竹しのぶのペースにはまって、女の身勝手さを強調したのが良くなかったのだな、と今にしてわかりました。

| | Comments (9) | TrackBack (0)

真田さんのハムレット

真田広之さんのハムレット(1995年 蜷川幸雄演出。銀座セゾン劇場。中継録画)を見ました。

同じ時期の真田さんのTVドラマ「タブロイド」でくらくらきていました。真田さん、すごい。これを見るまでは、「真田くん」だったのですが、完全に「さん」に昇格。ハムレットも同じでした。この人のせりふは意味不要、せりふは言葉ではなくて「息」なのです。で、彼から発せられる息が、舞台の上の相手の体の中にナイフで切り裂いてゆくように入り込んでゆくのです。私の中にも入り込んで!と、気がついたら見ている自分もお願いしている有様。

シェークスピアの饒舌な言葉遊びが、音遊びの甘い息になって入ってくるから、全然邪魔じゃない。

唯一だめなのは、意味を持った言葉で構築されているモノローグの場面。
竜也がもっとも得意とするこの場面が、真田さんはだめ、と言うより、彼にはいらない、というか・・・・。

録画を見たので、舞台全体が見えない。彼が階段上で独白している場面、おっ、これは良いぞ、と思ったら、画面に映っていなかっただけで、舞台上には彼の前方にオフィーリアがいました。やっぱり~。
彼は彼の目の前にいる誰かに語るときに、何かを発するのです。その相手が、松たか子でも、三田和代でも、男優でも。
甘く、それでいて凛と涼やかに語りかけてくる息、そんなせりふに意味はいらないのです。竜也が言葉で世界をつくってしまうときに、真田さんは言葉を息にして世界を融かしちゃっている。そして、彼と相手との間だけに何かが浮かび上がる。
「尼寺へ行け」、もう最高でした。彼に言われたら、どんな女性も迷いなく尼寺に行きそう。
母親に言う「今晩は(新しい夫の閨へ行くのを)我慢するのです」、もう、絶対我慢しちゃうよ!
これは竜也には出来ないわざ。真田さんの勝ち。

真田さんのハムレットは、言動が首尾一貫していません。ハムレットの性格をおってゆくと、高貴なのか賢いのか激情なのか優柔不断なのか、さっぱりわからない。でも、それが、シェークスピアのこの作品の名高い難しさなのです。だから、悩める主人公と言われてきたのです。
そういえば、竜也のハムレットは悩んでいなかったな。だから、画期的に意味の分かるハムレットだったのですね。竜也のハムレットは一途な美しさの輪郭がくっきりときわだって、観客を魅了し、観客はその存在感に圧倒されたのです。
真田さんのハムレットは、ハムレットらしいハムレットです。言動は矛盾に満ちている。一歩間違えばただのえらそーな言い訳男。しかし、それが全然不快でない、気にならない、そんなことどーでもいい、彼がオフィーリアの膝に頭を乗せスカートを被るそのすがたで、男ってこうよね、どんなに矛盾してても許せる、と、思えてしまうわけです。(なんだかなぁ)

そういうわけで、これもまた、無駄な演出のいらない天下一品のハムレットではありました。
クローディアス、ガートルード、オフィーリア、ボローニアスは竜也版より格段に巧い役者さんたちで、特に三田和代さんは、悲劇にふさわしい王妃でした。

| | Comments (7) | TrackBack (0)

« October 2006 | Main | December 2006 »