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December 2006

December 29, 2006

ロープの外から、ロープの中の君へ。 

ロープ戯曲を最初から読んで、20日に見た竜也のノブナガはやっぱり違うと思った。
もっと薄くて軽くて狡くて。でも、それなりの青年の純情もそれなりの役割意識もある。それなりに平気に懸命に生きてる。軽薄なくせに繊細。人の気持ちは踏みつける。自分の痛みには敏感。いる。そのへんに、いっぱい。私の中にもいる。

そのうえ、ものすごく重要な役なの。(主役だから当たり前って言う意味じゃなく)
彼がメッセージ。野田さんのメッセージそのもの。野田さんは観客に変わってほしいのだとおもう。きっと変化してほしいと思っている。あの作品で変化するのはノブナガだけでしょう?他のどの登場人物も本質的変化をしない。ノブナガだけが変化する。そして、野田さんは観客にノブナガと一緒に変化してほしい。今度の作品で、野田さんは演劇そのものよりも変化してほしい気持ち、その希望を強く持っているのだとおもう。
竜也のノブナガに託しているのだと、思う。

タマシイなんか知らないノブナガがタマシイを抱くノブナガになる。
そして、人間はタマシイを持ったときに、はじめて祈る。

誰ひとり、君のことを語ろうとしない。
・・・でも僕は、ほら、あれからここに抱いたままだ。
・・・・・どうかどうか、君そっくりのびしょびしょになったタマシイが、どうか姿を見せますように。

竜也なら、まっすぐ変化する。かつて彼自身が変化したように。舞台を知らなかった少年が舞台を知った藤原竜也になったように。野田さんはそう思っていると思う。
いっそのこと蜷川さんとの10年間で身につけた舞台のいろいろを全部捨ててもらいたい。全部捨てて、変化する前のノブナガを演じて、私たちが私たちをのぞき込む鏡を見せてほしい。
それから、ミライでタマシイをひろった人間になって、
タマシイを忘れなくては生きていられない私たちの代わりに、祈りの言葉をいってほしい。

・・・・どうかどうか、君そっくりのびしょびしょになったタマシイが、どうか姿を見せますように。

きっと、今度の神様はあなたの変化を待っている。

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December 26, 2006

飛燕の天馬

2006年12月24日 中山競馬場

11万人の人間の目の前で、彼はひとつの蹄だけを飛燕に載せて、空を飛んだ。

天馬は飛燕に載ると知り、漢の職人はその姿を小さき銅の形にとどめた。
以来2000年、その姿は小さな銅の中にとじこめられたままだった。

2006年12月24日、2000年の時を越え、はるかモンゴルの草原から東の海の果ての国へ。
22万を数える目の中で、その馬は再び飛燕に載り、その脚は再び空を飛ぶ燕を踏んで、彼は天に放たれた。

あとには、その名の通りの深い残像。

まただれかが、彼の姿を残すだろうか。銅で、あるいは文字で。あるいは・・・。
天は才を見せ、人は見たものをとどめずにはいられない。

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December 24, 2006

近松心中物語。古典。

役者が圧倒的。そして、演出に、古いものに挑みかかるような勢いを感じる。

ヒラミキと太地さん、金田竜之介さん、市原さん、山岡さん、菅野さん、そのどの人の場面も、見入って目が離せない。せりふを聞くだけではなく、彼らそのものに見入らずに入られない。

何とも言えないたがいの色気が交差する。役者それぞれの色気は一色でないと思い知る。蜷川さんがおとす明暗、光と陰の中で、せりふがゆるみ、張り、のぼり、降りてゆく。役者たちが色を競う。うつくしいなぁ。

市原お亀の声は鈴を風にのせて振るようだし。「したら(あんたの胸の中に)わたしと白菊はんとふたりで住んどるのかいな。ふたりで半分ずつなんていやや」「おかかさまのいじくれ。根性まがりのうてず」
山岡さんはきりっときれこみにぃっと笑って弦をゆるめるし。「けどその大切なおとこはんから白菊に見返られた女房ははだれやったろうな」
「いじめられてるのはわしのほうですがな」かいしょなしの亭主の腰抜けざまも品がよい。
「3年まってもらちあかんで」ただでさえ憎々しい金田竜之介がいかにも憎々しく言う啖呵がかっこよく。

この多彩な色の共演の真ん中にヒラミキと太地さん。圧倒。この恋が嘘ものでないと、観客はみな額ずくでしょう。
ヒラミキが「月」になっている舞台なんてこれが最初で最後ではないでしょうか。太地さんの中からあとからあとから深い濃い光が放射される。それがヒラミキに反射してキラキラ光ってる。すごい。

忠兵衛と梅川の出会い。新町の女郎やの格子の前で、すれちがい、見返して梅川を見るヒラミキ。女を見る男の目ではない。ああ宝物はこれだったのかと見つけた自分だけが知るひそやかな笑み。人が神様に約束された人生のただ一つの贈り物を見つけたと知った会心の笑み。だから、ふたりが行き交ったあとの忠兵衛の最初の台詞は「今の女郎衆の名は何というのや」梅川の最初の台詞は「忠兵衛さまとお言いやしたなぁ」ふたりはともに「約束されていた宝物」の名を互いに確かめたのです。だから、梅川は「よういらはりました。さっきぃから待ち通lぉにしていましたえ」と言ったのです。彼女の運命は彼と会うことをずっと待っていたのですから。

でもこの台詞をそう演じられたのは、このふたりだけだった。リメイクも新バージョンも、演出が補った。ふたりの出会いが「運命的」だと演出で分からせなくてはならなかったから。役者の力の差ではないと思う。あのときの太地さんとヒラミキでしか、脚本のほんの数語の言葉を運命にしてしまうことができなかった。演劇の神様がそうしたのだと思うしかない。

「会いたかった、会いたかった会いたかった」
梅川は忠兵衛に会いたかった。会えることを運命が梅川に約束していた。これはそういう物語だった。あまりにもシンプルすぎて、ほかの女優さんでは演じられない。太地さんにしか、演じられない。そういう役だったのです。その「会いたかった」のあまりの圧倒的な力にヒラミキは落ちたのだと思う。

30年前の「近松心中物語」
これは古典です。

舞台にいる役者から十人十色の色が放たれて、見入らずに入られない。
たくさんの色の真ん中に言葉を運命にしたふたりの恋があって、その輝きが目を射し抜く。

演出家は多彩な色を、観客がドキドキする驚きを計算して演出した。人形も森進一も二階建ての四角に区切られた明かりも雑踏のストップモーションも駆け下りる階段も降り積もる雪も。彼の後に続くすべての演出がここから始まり、彼自身を含めて多くの人がここから始まったものを遺産として使っているのだろうと思う。
こんなふうに、古典が生まれ落ちる。
30年前、その瞬間に立ち会えた観客は幸せだったことでしょう。

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December 23, 2006

ロープ。リングの下から。

2006年 12月 20日。 コクーン。 F列(10列目)上手サイド。

カテコの藤原竜也くんは探し物をするように客席を見ていた。少しはにかみ、少し手応えがあり、それを確認するような、それでいて、まだどうしても解けない知恵の輪に、向き合うような。

今日のノブナガはユダヤ人の社長から受けた指令を理解していた。八百長の引きこもり。俺に与えられたストーリー。

この物語は面白い。素材は重い。野田さんの言葉は、根を持ち土から生えくるのではなく、軽やかに空を浮いてる。
ストーリーの展開は面白い。繰り返し出てくるメッセージは意義深い。暴力がエスカレートする仕組み。顔のない相手を殺すのは簡単だ。勇士が殺す相手には顔がない。相手に顔がなければ人殺しにはカウントしない。そういう社会の仕組み。

話の展開は面白い。語られているメッセージは重要だ。
高校演劇の素材にすれば、力量のある高校生ならこれをやって、ラストシーンで見ている者の胸を打つと思う。

はー。だけど。

はー。だけど。

「ロープ」読めば読むほど、これは難しい。台詞でその人間になるのではなく、台詞が語られている状況の中でその人間をつくる。台詞はできあがった人間のあとからついてくる。だから変わってもかまわない。変わることもある。アドリブがたくさん生まれる。
竜也が自分で台詞を換え始めたら、・・・それが、私が待っている瞬間かもしれないのだけれど。

台詞を一カ所削りたい。繰り返される「俺たちは勇士か」。
その繰り返しの最後に「たち」はいらない。
「俺は勇士か」。自分に問う言葉。

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December 20, 2006

3つの近松心中物語。平成版。

蜷川幸雄さんの名を世に出した名作、ヒラミキと太地喜和子さんの「近松心中」。
板東八十助・樋口可南子さんのリメイクと、阿部寛・寺島しのぶさんの平成新バージョン。

寺島しのぶさんは巧い。上手な役者さん。いじらしく恋によろこび、必死に恋をまもる、端女郎の辛い生き様を素敵に演じていました。阿部寛もさすが平成の良い男。(そりゃキムタクかな。でも、キムタクは舞台は無理でしょうから)市井にふつうに生きていた男が運命の恋に翻弄されて、守ってきた小さな平凡を捨ててゆく男の生き様を、上手に演じていました。宇崎竜堂さんの音楽、森山良子さんの歌が、ふたりのかなしい恋を優しく見守っているようでした。もともとが歌舞伎の悲恋。下手をすると時代の違いから、ただ大げさで大時代で先の決まった退屈な物語になってしまう。それを、イケメン阿部寛と可憐な寺島しのぶさんの魅力をうまく引き出して、さらにお亀と与兵衛にも、見苦しくない役者さんをあてて、今の時代に、ふたつの恋のかなしさとあわれさの、物語のおもしろさをすっきりときれいに見せる舞台にしている。まったくべたべたした感じがない。重苦しさもない。せりふのままに、芝居が、なめらかに進んでゆく。平成はこういう時代。こういう時代です。

これを、ヒラミキと太地さんの30年前の「近松心中」と比べても仕方ないと思う。
人が生きる世の中がこれだけ大きく変わったということなのだと思う。
いえ、「世間」が失われて、「世の中」になり、その「世の中」も影だけ残して日々消えている。
「自分」「自分たち」「まわり」区切りのついたクリアな空間、それが30年たって、私たちがたっている場所だ。
30年後の「新・近松」は、時代にあった、不純物のない快適な舞台になっていたとおもう。

30年前の「近松」。
平幹二郎、太地喜和子、市原悦子、金田竜之介、菅野忠彦、山岡久乃、歌・森真一、音楽・猪俣公章、脚本・秋元松代、人形・辻村ジュサブロー、美術・朝倉摂・・・どの方も、生きてきた人生の深さが、平成の人間には太刀打ちできない。

新・近松はブログを書きながら見ていられる。目をはなしても、話を追って行ける。

ヒラミキと太地さん、金田竜之介さん、市原さん、山岡さん、菅野さん、そのどの人の場面も、見入って目が離せない。せりふを聞くだけではなく、彼らそのものに見入らずに入られない。

そんな舞台は、30年前に時代が生んだ奇跡だったのです。奇跡は、奇跡だから、奇跡。再現はありえない。

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December 09, 2006

トーチソングトリオロジー

12月7日マチネ。パルコ劇場。千秋楽。

トーチソングは通俗的な恋の歌なのだそうです。トリオロジーは3つのおはなし。

軽くてしゃれたNYのゲイの心のお話。ゲイのアーノルドに芸達者な女形俳優の篠井英介、その愛人でふつうの結婚もするエドに橋本さとし。朝日の劇評に「男同士のゲイの世界に託して、パートナーや親子間の愛と心の絆をシリアスに描いた作品」とあって、そういうお話にはなっていた。なっていたけど、それなら、1話はまったくいらない。2話もアランを中心に半分で良い。生ピアノ奏者が歌うトーチソングもいらない。

優しい愛の話。愛と心の絆の話・・・。

でも、なぜ、エドもアランもディヴィッドもアーノルドに惹かれるのか。
彼らがゲイだから?そうではないよね。アーノルドの中にある、圧倒的な力が彼らをアーノルドに惹き付けるんだよね。その圧倒的な力のわけが、3話で母親と激しくぶつかって、明かされるんだよね。
観客は篠井さんのアーノルドに惹き付けられたのだろうか。私はだめだった。優しい愛のお話の主人公になっていたアーノルドは、わたしには魅力的でなかった。映画のトーチソングトリオロジーのアーノルドがもつ吸引力がなかった。見る前から思っていたのだけれど、若いときの柄本明さんで見たかった。(エドを真田さんで。アランとデヴィッドの二役を竜也でどう?・・・いかん、また、病気だ)

やさしい心の絆の話にしては駄目だと思う。ゲイとして生きることはそれを切らされることなのだから。それでもなお、彼が人として生きてゆくとき、彼の誇りは研ぎ澄まされ強靱になって行く。ユダヤ人がそうであるように。そういう物語ではないのかなぁ。

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December 08, 2006

ロープの下に棲む神様へ

12月6日 水曜日。初日翌日のマチネ。平日の昼に立ち見も出ている満席。さすが、野田マップ。+ 藤原竜也主演。

カーテンコールで竜也は一度も笑わなかった。(夜公演を見た友人は「見たこと無いほど険しい表情」と言っていた。)オレステスの時でさえ3回目には、半ば北村くんに促されて客席に笑いかけていたっけ。厳しい問いかけがみんな自分の中へ内側へ内側へ向かっていた。今日の竜也で一番きれいだった。

作品は悪くなかったな。素材も作者が言いたいこともストレートで、風刺をまぶした野田芝居のせりふも楽しめた。ジャーナリストが報道でやっていること、落語家が高座でやっていること、私が授業でやっていること、それを彼は演劇でやっている。自分に見えている状況を、特定されない複数の誰か(・・・世間・・・)に伝えようとする行為。

しかし、それが演劇である以上、芸能として成り立たなくてはいけない。選んだ媒体が舞台である以上、作品は舞台の神様への捧げものになる。

今日舞台の神様に捧げられた供物は、宮沢りえちゃんひとりだった。
彼女の役は終始一貫している。一直線にやればよい。かわいい一途なタマシイの瞳がキラキラ輝いていた。竜也の役はその正反対にある。今の日本に生きている人間たち。何層にも重なった薄っぺらさを身につけた人間たち。そして自分の一番内側に絶滅品種があることに気づかずに死んでゆく人間たち。彼はそれを演じなければならない。そういうふうに生きたことのない彼が。この役は、彼にとってだけ、本当に難しい役なのではないか。

これを、彼が理解できるかどうか。今度の芝居の正否はここにかかっている。
いつもカーテンコールで、彼の正直さに感嘆する。
ひとかけらの笑みもなく、自分の内側に向かって問いかけるほんとうに厳しい顔をしていた。
けれどもあの正直さがすがすがしく、気持ち良くて、楽しくて。

劇場を出て、カテコを思いながら、12月の街を歩く。
潔さや真剣さ、まだ練れていない原石。そんな舞台だった。

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December 02, 2006

Death Note The last name

「ロープ」の前に決着をつけておかなくてはならない・・・「デスノート」。約一月ぶりに、映画館へ。

2度目の今日は、満足しました。
気分良く「彼」に入り込めたときにいつもそうなるように、劇場を出て街を歩きながら、自分の内側に「彼」がいる感触がして、たとえば大きな鏡の前で自分の横に「彼」が立っている姿が見えるのです。

ストーリーがわかっていましたから、ほぼ竜也だけを見た140分。演技のクオリティの高さに満足。

お話は、マンガです。松山くんのマンガ的キャラが前作とはくらべものにならないほどひきたっていました。抑揚をつけずに読点をとばし接続詞だけを強く発声する話し方は、あれは彼の工夫でしょう。見事に目立っていました。
原作から人気のキャラクターだそうで、映画ではさらにファンに嬉しいラストで、よく存在感を出していました。マンガを実写化したときの許容範囲ぎりぎりの、あの映画の空気に良く合っていた。

それで、1度目に見たときに自分がなぜあんなに傷ついたのかも分かりました。このお話の結末は、松山くん演ずるエルと鹿賀さん演ずる月の父のシーンだった。あれで決着をつけてしまったのですから、「月を主人公」と思って見ていた私には不快だったわけです。

でも、2度見て、よくわかった。ストーリーも小道具もカメラアングルも俳優たちも作品にこめたメッセージも、とても楽しめるけど、一度で十分。
2度見るに耐えるのは竜也だけでした。月の役を別の俳優がやっていたら、全編にあのチープさが漂ってしまっていたのではないかと思って、少し焦りました。竜也一人で、あの作品をあそこまで持っていっていたのかもしれない・・・と。

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December 01, 2006

タンゴ、冬の終わりに。

シアターコクーン 3階3列目センター。かなり高い。しかし、舞台に、こちらの客席と向き合って(古い映画館を模した)観客席ができている。ふたつの客席が対峙して、こちら側の崖の上から向こうの上り坂全体を見渡すように見える。だから、舞台を見下ろすという感じがなくて、空間に奥行きがある。なるほど。蜷川さん得意の2階だて舞台には、こういう効果もあるのか。

蜷川幸雄演出。20年前に絶賛された舞台の再演だそうです。

もちろん、新しい何かをやりたくて、演出家はこの作品を再演したのです。「したかったこと」は舞台の冒頭に投げつけられてきます。80人を越すエキストラが映画館の客席で映画のラストシーンに熱く叫ぶスローモーション。スクリーンに向かって爆発する感情を、それぞれの体が叫んでいる。高ぶって発している。何分も何分も。これを舞台でやりたかった。作品がつくられた時代が持っていた群衆の熱さを、時間のベールを越えて、こちら側の客席にぶつけたかった。同じことが、ラストで繰り返され、次の瞬間、カーテンコールで、さっきまでそれぞれが違う形だった80人のエキストラが綺麗にそろって客席に礼をする。よく計算された美しい群衆でした。

そして、この作品はこれだけでした。表紙も裏表紙も、すごく素敵だった。
だけど、本の中身に何が書いてあるのかは、さっぱりわからなかった。

多分、全共闘世代の、多分、演劇が体制を壊す力を持っていると誤解されていた時代の、多分、実は小さな欲望や優越感や劣等感の中でいじましく生きている人間の寂しさをえぐり出そうとした脚本なのだろう。
だけど、それを今やるのは、誰に向かって?
あの世代の郷愁を求めて?
それとも、社会に熱く向かってゆかない下の世代を挑発したかった?

それで、あのキャスト。
先日勢いで書いてしまった「映像の人間が間違って舞台に出てしまったときのどうしようもない下手さ」が、
まさかこんなにすぐに、目の前で実証されるとは。
3時間。長くて退屈で、その最大の原因は、主人公の堤真一さん、常磐貴子さん(お二人とも舞台の人ではないのがはっきりしたのでお客さんという意味で「さん」づけ)、おふたりが、3時間の舞台の上で、全く変化しない。彼らが演じたはずの男と女の存在の意味が、全く感じられない。はじめから終わりまで、堤さんと常盤さん。顔も表情も綺麗なのですが、映像で、アップやカット割りで光る役者さんです。せりふを間違えずに「自然に」言うことを要求される平板なTV演技。それでいて、表情はせりふに関係なくミエをきるアップ専用。

唯一存在感のあった高橋洋くんが、カテコで、80人のエキストラの次に、せりふがほとんどなかった劇中主人公の子供時代を演じた人と並んで出てきたときはのけぞりました。この軽い扱いはなぜ?
さらに、毬谷さんが、せりふのほとんどない際物扱いの女の子の役。何で、せりふしゃべれない常磐貴子さんがあれで、はかない妖精を演じられる毬谷さんがあれなのか。キャスティングの意図がわからない。普段演劇見ない人にチケットたくさん買ってもらうため?不思議に若い男性客が多かったのは常盤さん効果?

題名。
なぜ、タンゴなのだろう。堤さん常盤さんのタンゴ、せりふが駄目なのだから、踊りで目を奪って欲しかった。
なぜ、タンゴだったのだろう。最後にぱっと開いたクジャクと、主人公二人がぎくしゃく絡むタンゴは、どちらもいらなかったです。
冬の終わりの北陸。役者を引退した男と妻と恋人とその夫と。
十分大人の余韻を持つ脚本と思ってみていたけれど、思い出せる残像は、堤真一さんのとぼけた笑い。常磐貴子さんのこわばった声。段田んが弁当食べる姿。
あーあ。


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