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January 2007

January 31, 2007

野田マップ ロープ

2006年12月5日~2007年1月31日 シアターコクーン 2ヶ月間の公演。5回見ました。

12月6日マチネ 20日夜 1月4日(昼夜公演のうちの)夜 19日夜 30日(前楽)夜

人間の中にある恐ろしい種。暴力を正当化する快感。
重いテーマをおもしろく料理した野田さんの才能に敬意を表します。
30年前にアメリカ兵がベトナムの村でしたことの普遍を、今の日本の社会にある言葉(引きこもりやDVや視聴率やケータイや「アジア人」)に翻訳して描いた良い作品でした。

けれども。

ここまで翻訳し料理しても、ほとんどの観客にとって、ベトナムは遠い世界だし戦場の暴力は自分の人生とは無縁だった。舞台が終わったときに、どう反応して良いかわからないとまどいが、昨日の前楽まで(たぶん今日の千秋楽でも)、劇場に漂っていた。
俳優達は、2ヶ月間毎日あの芝居を演じて、作品が語りたいことをどんどん自分のものにしていったのだと思う。
けれどもかえってそのために、観客と俳優の意識の落差は大きくなってしまったのかもししれない。

カーテンコールでたとえ他の客が一人も立たなくても、私はこの作品と俳優のために立って拍手を送りたい、と前楽の舞台を見ながら決めていた。すばらしかったと私は思う。
ただ、それは、見ているものの心に直接届くには遠すぎるメッセージだった。
多くの観客にとって、語られていることが、たぶん最後まで「ひとごと」で、作品に感情移入できなかったのではないか。あの遠慮がちなとまどいの空気は。

俳優はみな良かった。
迫力の渡辺えりこさんとぼけの野田さんのコンビが楽しかったし、入国管理官中村さんはうまかったなぁ。宇梶さんの愛されたいのに容姿ゆえに憎まれるレスラーも、ただ一人の理解者の明美姫との硬軟の波長が絶妙だった。なんといっても宮澤りえさん、ミライから来た無垢なタマシイそのものだった。悲惨で残酷な言葉の洪水も、彼女から発せられていたから、聴く者が窒息しないですんだ。そこにあったことをそのまま言葉にしてくれていて。

一番の発見は橋じゅん。
メタルでもビデオで見た阿修羅城でも良かったし、噂の男では最後にみんな持って行った力にうなったけれど、今回の舞台で、なんてよい人なんだろう、ほんとに芝居が好きで、芝居の力を信じていて、うまいだけじゃない、何が要求されているのか何が必要なのか、完璧に体でわかってる。
相手が橋じゅんでなかったら、今回の竜也は途中で空中分解していたんじゃないだろうか。
竜也と橋じゅんがノブナガとカメレオンの関係そのままだった。

ベトナムの戦場で、ノブナガとカメレオンは逆転する。いやだよ~と怖がっていたカメレオンが戦場の狂気の中で耳を切れと叫ぶ。英雄になるんだと叫んで銃を持ったノブナガが俺たちは勇者なのかと戦場から逃げ出す。
ふたりの人間の感情の交差がすばらしかった。相手が橋じゅんでなくては、竜也の、暗いライトを浴びて立つタマシイの父は、あり得なかっただろうと思う。

タマシイの母親から、生まれたばかりのタマシイを受け取り、そして、彼らが自分のリングの下に30年間生きてきたと知って絶句した瞬間のノブナガ。よかった。竜也がこの役をやってほんとに良かったと思った。

あそこまでほぼ文句なしなのに、なのに、あのラストのせりふ。

「誰も君のことを語ろうとしない。君はまるでいなかったことになっている」
ト書きにはリングに向かってとあるのだけれど、竜也には正面向いて話し始めて欲しかった。観客に向かいそしてリングを振り返って、言葉のための空間を作ってほしかった。

彼は全身でせりふを言うのが美しく、言葉を空間に放つことができる。
あの位置の静止状態で動きのないまま「どうぞどうぞあらわれますように」という祈りの言葉を言うのは、竜也には向いていなかったと思う。
この作品のために、あの美しい祈りの言葉を、竜也の手で、
呆然としている観客の上、劇場の空に向かって、解き放ち、離陸させてほしかった。

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January 23, 2007

志の輔 その弐 その参

2007年1月14日 14時
今年は志の輔inPARCOを3つとも見たくて、チケットを取れなかった「その弐」をオークションで落とした。3列目センター7500円。しかし当日、娘が小学生の時からお世話になっている習字の入選表彰式。3日前に連絡。ニューオータニで14時から。硬直した母娘関係を前になすすべなく呆然と立・・・つ。

これもまた、何かの天の声ですか?
「猫に今晩、豚に侵入」違うなぁ。「馬子にも異常」違うなあ。「捕らぬ狸の河原こじき」ちょっとなぁ。「とほほぎす、君も泣かずば撃たれまい」こんなところかなぁ。
いいえ、「溺れたときにはワラでもつかめ」です。
表彰式15時に終了。お年頃の少女を小学校以来の習字友達の少年に託せると見るや(あん?)、やけくそでしていた娘との買い物の約束をドタキャンし、ニューオータニから渋谷パルコまでタクシーでとぶ。15分1700円。こんな時には地下鉄で190円なんて考えてはいけない。しめて9200円高いチケット代などとぼやいてはいけない。3話のうちの最後の1話のためだけにぃなどと口にしてはいけない。(思うだけ)。無念無想でタクシーとばすことこそ、祝宴祝儀の落語の世界っ。

劇場内は2話終了直前のクライマックスを迎えている。泣きも入りはじめているすごいタイミングだ。その中を3列目をセンターまで、座席のお客さんの足を踏み膝頭に蹴り入れて座り込んだのは私です。ごめんなさいすみませんでした。無我夢中、気づいたらとんでもないやつになっていました。そんな私を志の輔さんは、歓喜の歌のコーラスで迎えてくれたのでした。良い方です。有り難うございました。3話目のお豆腐やさんの人情噺がちょいと短くて物足りなかったなんて、そんな恩知らずの感想は口が裂けても言いません。


1月22日。17時。その参の夜。
「もはや今日が何回目と数えることもしなくなっていますが、ともかく半分を越えたと言うことだけは確か」とご本人がいうとおり、ようやく頂上が見えてきたためか、3回のなかで一番安定して緊張感とほどよい緩急を楽しめました。声はかなりかすれていましたが、2話目、3話目と進むに従ってこれも気にならなくなりました。
なにしろ、その壱とその弐の時は「あれ言葉が止まった」とひやりとしたこと幾度か。今日は聞いていて快適でした。七福神は同じ噺だったので調子の違いがよく分かりました。

2話めのシジミ売り。あれは違反ですよ~。
子どもモノと義賊の噺なんて、もうそれだけでうるうる。いたいけな子どものいじらしさ、自分をかばって牢にいる若旦那のことを知り、鼠小僧の「聞きたくなかった・・・。聞きたくなかったが、知らないふりは出来ねぇ・・・」。
照明がスポットにかわり、明かりの落ちた舞台にキラキラと雪が落ちる。
志の輔さんの噺は目の前に絵が浮かぶ。時には、無理矢理絵をつくる演劇よりも、美しいと感じることがある。
今日もそう。
しゃばで見る雪はこれが最後と歩く義賊。降りかかる雪は、人の志の格が光を受けて舞うようでした。

そして、狂言長屋。2話目と変わって、長屋のみんなが多いに沸かせてくれて、さらに志の輔さんの狂言。本職との共演もご愛嬌で楽しかった。それでいて、テーマは無情、無情とは死ぬることでなく生きること。深い話を、面白い噺に楽しく仕上げて。

今日もまた、志の輔さん、ありがとうございました。
「今日が楽だったら」と、ご本人が言う言葉にも、今日は良い手応えという心を感じましたが、いかが。

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January 13, 2007

朧の森に棲む鬼

1月11日。木曜日。6:00開演。新橋演舞場。
代官山から中目黒乗り換えで東銀座駅まで約30分。

主人公ライに市川染五郎・相手役キンタに阿部サダオ・マダレに古田新太・相手役ツナに秋山奈津子・シキブに高田聖子・脚本中島かずき・演出いのうえひでのり・劇団新感線。

観客を楽しませるためのたくさんの仕掛け。色彩の対比で攻めるあざやかな照明、笑える台詞、女性たちの歌と踊り、着替えるたびに豪華になる染のきれいな男ぶり。稀代の悪役を存分に見せる現代にあった巧い筋立て。サダオくんや秋山さんや古田新太さんの間のうまさ。抜群。今一番観客を呼べる芝居ではないでしょうか。

3階の3列目の左ブロックで、花道は見えないし、まえの観客が背の高い男性でもひとつ前が背が高い上に前に乗り出してる女性で、後ろにはなんだかやたらと笑う男性と女性客で、天井がすぐ近くのせいか音が金属的に響き、これまでで1.2を争う観劇環境の悪さに、とほほの涙。そのせいか、集中しきれない。(感情移入しきれない)

でも、醒めてみている自分に違和感をおぼえるほど良くできた面白い舞台。

醒めていたのは、席のせい。それから、物語に感動の要素がなかった。感動ではなくおもしろさを追求しているのだから当然で、それは責めることではありません。
ただ、ひとつだけ。わたしなら、染には「舌先三寸」で生きる悪役よりは、「自分の美しさを知り尽くしているうそつき」をやらせたいな。そのほうが、悪さが残酷で素敵だろうと思う。リチャード3世を下敷きにしているということだったけど、リチャード3世はおのれの醜さゆえの悪らつが魅力。性格付けが全然違う。染のやったライは悪さのわけが中途半端だった。人が美しさにだまされることをあざ笑ってほしかったな。まぁ、そうなると、話が全然違っちゃうよね。自分の舌先三寸だけで悪人ぶりをつきすすむライの軽やかさが、この芝居の魅力だものね。


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January 07, 2007

志の輔 in parco その壱

2007 1月6日。

冷たい雨に濡れてこんな日に笑いに行くおばか・・・と思いつつ。
パルコ劇場で。七福神。メルシー雛祭り。中村仲蔵。

志の輔さんの笑いと泣かせは、波長がぴったり合う。
今日は調子悪くて、客席のノリも足らず。見ている私の方がひやひやすることしばし。
それなのに、メルシー雛祭りのラストから、涙と鼻水が流れること流れること。
休憩のあと昔の歌舞伎のお話。中村仲蔵。舞台の話なのだもの、舞台の神様の話なのだもの。
もう、竜也のこと考えて、仁左衛門さんのこと思い出して、まるで今の私のために出してくれた噺のよう。
しかも、仲蔵が芸で天下を取るきっかけになった忠臣蔵五段目定九郎は、ちょうど1年前浅草歌舞伎で獅童がやったあの役だったとは。えぇーこんな格好いい役がどうしてすぐに殺されちゃうの????と思ったまさにそれ。もともとはただのしょぼい小さい悪役だった定九郎を、仲蔵が意地と芸への強い思いで男も惚れるかっこいい立ち役にしていたのですね。

藤原竜也くんは、せっかく渋谷に毎日かよっているのだから、パルコ劇場によって、志の輔さんのこの噺聴いてくれないかな。竜也くんにこの噺を贈りたい。舞台の神様は確かにいるって、思い出せる。

出自の低い役者が意地悪で与えられた端役を今までにない姿に演じる。全身白塗りにして頭からつまさきまで水を浴びしぶきをはねてはしり血糊をながす。言ってみればその工夫のさま、それだけの話なのに、なぜあんなにあとからあとから涙がおちていったのだろう。
血筋のない天才役者が狭い歌舞伎界の因習を破るには、よほど強い神様に見込まれて、観客ばかりか役者仲間の度肝を抜く美しい姿を見せたのだ。神様の手と人の心が出会って、あっぱれ奇跡が起きた。

ほんとうに、竜也にきかせたかったな。見せたかったな。
志の輔さんが語って目の前にあらわれた、黒紋付きの間からすっとのびた定九郎の白い脚、髪から着物から滴る水しぶき、破れ傘からぱぁっと散る水滴、はたっと撃たれて止まったその口の端から喉元をつたい胸まで流れる血の赤。その姿に心をふるわせ声を失った観客。

周囲の猛反対を押さえて仲蔵を名題にさせた団十郎の、胸のすくようなひとこと。
「今までずっと、おかしいと思ってた、しかしな、おれにはどうすればいいのか思い浮かばなかった、お前さんのやったあれが、ほんとうの定九郎だ」

舞台は、誰もが知っている「立派」や「美」のものまねを見せるところじゃない。
今まで誰も見つけられなかった光を、これだった、とみせてくれるところ。
仲蔵は「誰も見たことのない定九郎をやろう」とただそれだけを願って、本当の定九郎を見せた。

舞台って、すごい。
芝居の神様を見せてくれた志の輔さんに、「ありがとうございました」。だから、
1年間、リキ入れず心をまっすぐに生き延びて、また来年パルコで志の輔さんに会おうと、
そう思えば1年間生きて行けると、心に暖かいタマシイを抱いて、雨上がり日暮れてゆく渋谷を歩いた。
幸せな帰宅路だった。

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