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July 2007

July 17, 2007

十二夜 ニナガワ歌舞伎 歌舞伎座

おけぴでチケット入手。3階東1列。舞台は上手を見切るが、花道を正面に見下ろし人の頭も邪魔にならない、お気に入りの席。

ニナガワ演出には正直魅力を感じなくなっていた。それでもチケットを手に入れたのは、役者を味わいたかったから。菊之助と亀治郎を見たくて。
芝居は4時間を超えた。休憩が3回入るとは言え、長い。体調が良くない身にはこの長さは辛いはず。しかし、面白かった。楽しくて飽きなかったから、ほとんど辛さを感じなかった。

お目当ての菊之助は大正解!
琵琶姫という少女が、故あって小姓の姿になり、仕えた主人の左大臣に恋をしてしまう。しかし、男(獅子丸)の姿をした彼女(琵琶姫)は、自分の心を隠し、主人の恋の成就のために織笛姫との橋渡しをする。ところがその織笛姫が左大臣ではなくて男の姿をした自分(獅子丸)に恋してしまう。
男性が演じても女性が演じても難しい役だ。下手するとただの男女混乱の下世話な笑いになってしまう。

それを、菊之助はこの役のために菊がいる、と思えるほど、完璧に演じて、琵琶姫の心の美しさを見せてくれた。

獅子丸の姿をから、琵琶姫の心が、漏れる。
閉じた扉から微かな灯りがこぼれるように。
そのさまが、かわいくて、観客はみな、獅子丸の中の琵琶姫の心の味方になる。想いを秘める娘の姿に、いたいけで立派な覚悟さえ見える。
立ち役と女形の両方を演じる菊之助の、芸と人物への理解が深いのだと思う。4時間の長いお話を飽きさせなかった最大の功労者です。二層、三層構造の主人公を完全に自分のものにして、周囲がどたばた喜劇を演じる中、ひとり、恋の一途さをぶれずに見せた。

もう一人の功労者は、亀治郎。
まわりでおきるドタバタ喜劇の部分をしょってたち、饒舌な科白をひとことも飽きさせなかった。
人生のすいも辛いも知る女が、男たちを動かして、えらそうな勘違い男に仕返しをする。仕草のひとつひとつが圧倒的にうまい。観ている者がどう楽しむか計算し尽くした芸に脱帽。男たちを思いのままに動かして悪いいたずらをする女なのに、ひたすら小気味よく、完全に感情移入してしまう。見ていて気持ちよいとはこういう芝居です。

この二人を見に行ったので、ここまででも大満足。見たかったものが期待以上だったから、もうそれだけで満足なのに、そのうえ、シェークスピアの罠いっぱいの脚本に歌舞伎役者の芸がガチンコ勝負で挑み、見事、歌舞伎役者の勝ち!おつりがきました。きっとシェークスピアも満足している。

照明が映えて、歌舞伎ならではの三味線や笛太鼓に加えて、チェンバロの音。
そのなかで、歌舞伎役者の様式の、高さ低さ浅さ深さ奥行きを堪能した。滑稽を演じて左団次、翫雀、うまい。いつものお約束の歌舞伎を少しだけ越える芝居をご自分でも楽しんでいるよう。そして、菊五郎、阿呆な利口者の坊太夫と利口な阿呆の捨助との二役で、「表と裏」を語る作者の意図をきっちり見せる。段四郎や権十郎の格調高い人情、錦之助や時蔵の際が光る立ち居振る舞い。芝居が無用の混乱で破綻しなかったのは、この方たちが、人物をそれぞれにくっきりと映しだしてくれたたまものと思う。

シェークスピアの怖さとおもしろさ。演じるものが、芸の力と人への理解で、「人間の普遍的な内面」にどこまで迫れるか。その答えのひとつのように感じた。歌舞伎役者にシェークスピアの楽しさを教えてもらって、心から感謝です。

ただ、どうしても、苦痛だったこと。
たぶん、演出家が満を持してぶつけてきた鏡張りの背景は邪魔だった。

たしかにシェークスピアは科白の中で「鏡」といっている。けれど、それは女であって男の姿をした獅子丸が、人の真実の姿を映す鏡になった、という意味だと思う。菊之助の芝居は十分に最も重要なその科白に応えていた。物体としての鏡は、屋上屋を架す、芝居の蛇足でしかない。

シェークスピアの時代は男が女を演じていた。だから、喜劇の中で男と女が軽々と入れ替わる。
しかし、それは観客を笑わせるためだけのものではない。
劇中の人間がだまされているその姿を観客に見せつけながら、シェークスピアが見せようとしているものがある。

人間は人間たちの中で生きるしかない。そして、たがいに、嘘や意地悪やごまかしや憎悪、愛や愛しさや誠実、哀しみやみじめさを、人から感じ、人に感じさせている。
シェークスピアは、日常が破綻した状況を設定して、混乱のなかで、登場人物たちが隠している真実の内面が暴露されてゆく姿を、観客に見せつけるのだ。隠していても、無駄ですよ!と。

舞台の上の人物が鏡になるとき、実物の鏡は無用だ。それを、唯一理解していない人が演出家だったように思う。どの役者の演技も、高度に洗練されていたから、下手な象徴的大道具は不要だった。観客はそれほど馬鹿じゃないと思う。

そもそも、役者に集中したい観客にとって、鏡に映った観客席(自分たち)を見せられるほど、邪魔で苦痛なことはないです。

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July 14, 2007

大銀座落語祭 初日

7月12日 銀座と言いながら最寄り駅が新富町という中途半端な(志の輔師匠のまくら流用)銀座ブロッサムホール。
ネットオークションでチケット入手。6列目右サイド。完売のはずが、ところどころ、空席。それが幸いして、前のぽつんと開いた空席のおかげで最後まで板の上がくっきり見えました。

1部がニュースペーパー。隣がやたらと高笑いする女性客でやや興がそがれたけど、きゃはきゃは笑うよりはかみ殺して笑える必殺政治ネタ。これやっても、まだ、大丈夫だったのかって思った。解放されたように楽しかった。そして、これがいつまで出来るんだろうって思いながら、笑っちゃった。出来る間は、笑っていよう、って思えて。

2部は上方のお三方。南光さんもおもしろかったけど、ざこば師匠が迫力あった。最初は大阪の笑いと肌触りの違いを感じたけれど、本当に上手な人は場所を選ばない。人を語るのに、東西年齢時代の違いは関係ない。

そして、真打ちは3部の志の輔師匠。半年で5回目の今年。だから、もう、師匠って呼んでも良いよね。
この日は午後早い時間に三越で大ネタをやっているはずなのに、夜、また、1時間の噺で、嬉しかった。
(後ろの席の方の話し声によれば)「柳田角之進」。

今回も後半はずっとタオルハンカチが鼻水と涙でぐしょぐしょ。落語聴きに行って毎回こうも泣くかねぇ。。。。もとろん、合間にちゃんと笑っているんだけどね。
なんなんだろう、志の輔師匠がその人物をすごく好きなんじゃないかって、思う。人物の中にある「思い」に、演じる師匠自身が惹かれているんじゃないかって。そんな気がする。
目の前に現れる人物がみな、とてもきれいな思いを持って生きている。そこが、かっこよくて、気持ちよくて。泣かせストーリーの難病やら失恋やら別れなどなどの状況シチュエーションとは無縁の、すかっとした、人間の物語。
落語を聴いているのを忘れて、一人芝居に熱中している自分。
まわりが笑っている中、ひとりぐしょぐしょにタオルを握っているのは、かなり恥ずかしい。
恥ずかしいので、毎回下向いて劇場を出ています。

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July 07, 2007

国盗人 (リチャード3世より)

野村萬斎 主演・演出 世田谷パブリックシアター

この劇場、好きなの。はじめて来たのは3年前の秋。3階左端の席に座ると、ほそい黒いツルのような手すりの向こう底に、舞台が沈んでいた。上手に照明が落ちて江守徹さんがあらわれた。あっ、江守徹さんだ。そう思って、手すりから舞台をのぞき込むと、そこに、長い長い口上をしゃべるリチャード3世がいた。あれが、わたしが舞台の神さまに招待されたはじめての席だった。

あれから3年。この劇場にもずいぶん来たし、リチャード3世にもいろいろ会った。

萬斎の演出は洒落ていて都会的、長い物語の随所に、観客を飽きさせない工夫がある。
途中、客をロンドンの市民に見立てて楽しませる趣向に萬斎ファンは大喜び。中だるみの頃に繰り出す新感線ばりの歌と踊り。白石さんの4役が同じ板の上で替わってゆくおもしろさ。そして、萬斎自身のリチャード3世の、わかりやすい語り口。悪い奴を悪い奴らしく。しかし、身内殺しの凄絶さ、血や呪いは直接見せずに。うまいなぁと思ってみていた。

ただ、さまざまな見せる工夫で楽しませてくれても、3時間は長かった。
彼は存在で圧倒する役者ではない。観る者がこちら側の時間を忘れ、向こうの世界に行く、「境界を越える役者」ではない。
ホンを上手に料理する料理人。今夜はてんこ盛り過ぎた。もっと上手に省略して、狂言のように軽く楽しく見せる悪に徹した方が、わかりやすさ、かろやかさ、おもしろさ、が前面に出て楽しめただろに。

3年前、江守さんのリチャード3世は、ひとつの飾り付けもなく、えげつない悪い奴で、とにかく面白かった。
萬斎さん、ちょっと重すぎ。飾りすぎ。リチャード3世の、キャラクターの持つ魔力が、萬斎さんを、捉えすぎてしまったかな。

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July 03, 2007

パルマ  国立西洋美術館

こんな時代だから、
芸術に美を見ない人々が動かすこんな国だから、
薄くて浅くてその場限りで目先のポイント稼ぎが、でかい顔をしているこんな社会だから、

まともな仕事をする人間の誠実な「作品」に出会えると、「ありがとうございます」、なのです。
本当にありがとうございました。
「パルマ イタリア美術もう一つの都」国立西洋美術館。
2時間半ゆっくりと展示された作品を見終わって建物を出るときに、「あぁ楽しかった」と幸福の吐息を吐く。

フィレンツェやローマやミラノは知っていても、パルマは知りませんでした。
ルネサンスとバロックを知っていても、それをつなぐコレッジやパルマジージョやカラッチやスケドーニは知らなかった。作品の展示の流れが自然で、ミッシリングリンクがここにあったと、本当に納得しました。こんな知的な喜びを与えてくれる展覧会はめったにない。

ルナサンスの明るさ。人々が発見した美への、無邪気な天真爛漫な、憧憬。ボッチチェルリの明るさは美をあこがれる歌そのもの。人間の体の肌色の美しさ。曲線の喜び。コレッジョの「階段の聖母」の清らかであどけない美しさを、どういえば良いんだろう。フレスコ画の淡い色彩さえその輝きがいとおしい。

パルマジーニョの天使の色気。いえ、色香立ち上る天使。

そんなルネサンスが、宗教改革の波の中で、暗く深く沈潜してゆく。16世紀、絵は物語を求めてゆく。人物は様式を持ち、まるでニホンの少女マンガの様式のように、ある種の感情を表現するための美しい登場人物たちになってゆく。

そして、時代精神の亀裂が突き詰める緊張の中で、つぎの天才が現れる。
カラッチ。
「カナンの女」に伸びるキリストの親指。ユダヤ人でなくても救いは受けられると訴えるカナンの女に、触れるようにさしのべられた、キリストの指。絵の中央にあるその指。それは、宗教戦争で殺し合うキリスト教世界への、画家の一心の願いではないのか。
カラッチの「聖母戴冠」。コレッジョの模写だという。こんな自己主張をするマリアは、ほかにいないでしょう。美しいと言うよりは、圧倒的な自己主張。この時代に、女にこれほど自己主張させて良いのか。

最後に、この美術展の、最高の価値を放つ作品。
スケドーニ「キリストの墓の前のマリアたち」。
圧倒的。なまの絵の圧倒的な力。絵はがきだけ見て言っちゃいけないよ。(買ったけどね)

小さい部屋の奥の壁にかかるこの1枚の大作。
鮮やかな黄色い毛織物の布をまとうマグダラのマリアは、画面の真ん中で大きく手を広げ、キリストの昇天を告げる天使の言葉に、自身の存在をかけて喜びとおののきをぶつける。後ろ姿で。
彼女の後ろ姿。
こんな劇的な女性を、絵の上で、描けるのか。

これは、1枚の、演劇です。わたしは、演劇を見たかのような、感動で、息をのむ。

そして、同じ画家の聖ペテロと聖パウロ。
一目見ればわかる。これがレンブラントにつながると。ただそこに存在する男の肖像に、深い何十年もの人生を閉じこめる。これは、レンブラントの肖像に、ラトゥールの聖人たちに、狂い無く重なる。そして、初めて、わかった。ルネサンスから宗教対立、新旧両派の不毛で譲らない殺し合い。しかし、狂信者以外の人々の心には、別の、なにものかが生まれるのだと。歴史ではいつも「狂信」が勝つけれど、それにも関わらず、不毛な権威と狂信の勝利の土の下で、人間は深い美を生むのだと。

ああ、楽しかった。
ありがとうございました。美しい絵の連なりが、ひとの時代の流れ行く姿を語っていた。
実に、知的な、美術展でした。

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