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July 03, 2007

パルマ  国立西洋美術館

こんな時代だから、
芸術に美を見ない人々が動かすこんな国だから、
薄くて浅くてその場限りで目先のポイント稼ぎが、でかい顔をしているこんな社会だから、

まともな仕事をする人間の誠実な「作品」に出会えると、「ありがとうございます」、なのです。
本当にありがとうございました。
「パルマ イタリア美術もう一つの都」国立西洋美術館。
2時間半ゆっくりと展示された作品を見終わって建物を出るときに、「あぁ楽しかった」と幸福の吐息を吐く。

フィレンツェやローマやミラノは知っていても、パルマは知りませんでした。
ルネサンスとバロックを知っていても、それをつなぐコレッジやパルマジージョやカラッチやスケドーニは知らなかった。作品の展示の流れが自然で、ミッシリングリンクがここにあったと、本当に納得しました。こんな知的な喜びを与えてくれる展覧会はめったにない。

ルナサンスの明るさ。人々が発見した美への、無邪気な天真爛漫な、憧憬。ボッチチェルリの明るさは美をあこがれる歌そのもの。人間の体の肌色の美しさ。曲線の喜び。コレッジョの「階段の聖母」の清らかであどけない美しさを、どういえば良いんだろう。フレスコ画の淡い色彩さえその輝きがいとおしい。

パルマジーニョの天使の色気。いえ、色香立ち上る天使。

そんなルネサンスが、宗教改革の波の中で、暗く深く沈潜してゆく。16世紀、絵は物語を求めてゆく。人物は様式を持ち、まるでニホンの少女マンガの様式のように、ある種の感情を表現するための美しい登場人物たちになってゆく。

そして、時代精神の亀裂が突き詰める緊張の中で、つぎの天才が現れる。
カラッチ。
「カナンの女」に伸びるキリストの親指。ユダヤ人でなくても救いは受けられると訴えるカナンの女に、触れるようにさしのべられた、キリストの指。絵の中央にあるその指。それは、宗教戦争で殺し合うキリスト教世界への、画家の一心の願いではないのか。
カラッチの「聖母戴冠」。コレッジョの模写だという。こんな自己主張をするマリアは、ほかにいないでしょう。美しいと言うよりは、圧倒的な自己主張。この時代に、女にこれほど自己主張させて良いのか。

最後に、この美術展の、最高の価値を放つ作品。
スケドーニ「キリストの墓の前のマリアたち」。
圧倒的。なまの絵の圧倒的な力。絵はがきだけ見て言っちゃいけないよ。(買ったけどね)

小さい部屋の奥の壁にかかるこの1枚の大作。
鮮やかな黄色い毛織物の布をまとうマグダラのマリアは、画面の真ん中で大きく手を広げ、キリストの昇天を告げる天使の言葉に、自身の存在をかけて喜びとおののきをぶつける。後ろ姿で。
彼女の後ろ姿。
こんな劇的な女性を、絵の上で、描けるのか。

これは、1枚の、演劇です。わたしは、演劇を見たかのような、感動で、息をのむ。

そして、同じ画家の聖ペテロと聖パウロ。
一目見ればわかる。これがレンブラントにつながると。ただそこに存在する男の肖像に、深い何十年もの人生を閉じこめる。これは、レンブラントの肖像に、ラトゥールの聖人たちに、狂い無く重なる。そして、初めて、わかった。ルネサンスから宗教対立、新旧両派の不毛で譲らない殺し合い。しかし、狂信者以外の人々の心には、別の、なにものかが生まれるのだと。歴史ではいつも「狂信」が勝つけれど、それにも関わらず、不毛な権威と狂信の勝利の土の下で、人間は深い美を生むのだと。

ああ、楽しかった。
ありがとうございました。美しい絵の連なりが、ひとの時代の流れ行く姿を語っていた。
実に、知的な、美術展でした。

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