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August 2007

August 04, 2007

エトワール達の花束

2007年 8月2日 上野文化会館大ホール。ほぼ満席。

カーテンコールで、スタンディングオベーションをする観客達の拍手の中で、
「私が間違えました」と反省の弁を自分に言い聞かせていた私。
私のチケット史上最高値22500円が、ああ勘違い、場違い、をかみしめるために飛んでいった夜。

今夜の公演は、アレッサンドラ・フェリという、人々を魅了してきたバレエダンサーが、バレエ人生の頂点で引退するセレモニーだったの。だから、22000円という高額なのに、オーケストラも入らず、録音の音で、たくさんのダンサーが、一貫性のない様々な作品の名場面を、総花的にとりそろえて踊ったの。
神さまと出会う場所じゃなかった。
ひとりの芸術家がファンに別れを告げる夜だったの。
しかも、ニューヨークシティバレエで、アメリカのバレエは懲りていたはずなのに。
自分の失敗なので、カネカエセは言えないです。

たくさんのファンたちの感謝と惜別の拍手は暖かかったです。ただ、ほんとうに、私が場違いだった。

とほほ。

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お気に召すまま

2007 7月23日 コクーン 蜷川幸雄演出 主演ロザリンド成宮寛貴 オーランドー小栗旬 チケット高騰の舞台です。

3列目右サイド 舞台に近い席で見ました。同じ位置の席がヤフーオークションで2万円になっていました。まめな人なら差額でもうけるチャンスでした。

シェークスピア作品は本来全員男性で演じ、喜劇は祝宴の余興的な要素も強く、
蜷川さんは、作品本来のその味をそのまま現代に持ってきて、役者の集客力で興行的に成功させました。

大きな木を舞台左右に渡すセッティング。遠近感を利用して森の奥行きをつくる斜めの床。
そこに立つのが、成宮くんの「男が演じる女」と小栗くんの「(かっこいい+恋に悩む)青年」。

重要なのは男と女を男が演じる設定、舞台装置と違和感ワールドですから、そこに、芝居のすじだて、せりふ、心の機微が調味料として適度に加減されて振りまかれていればよろしいのです。

「今夜の私たちのお芝居を楽しんでいただけましたでしょうか」成宮ロザリンドの「愛らしい」笑顔の挨拶が、
この芝居のエッセンスをそのまま表していました。多くの観客が、シェークスピア喜劇の入れ替わり混乱テイストを、成宮くんと小栗くんで楽しんだのではないでしょうか。

たまたま同じ舞台表現という手段であっても、
しかも、同じ作者の同じ設定の相似形のような作品、同じ演出家、

それでも、
演じ手が目指すものが違うと、ここまで違う。
それをまざまざと知ることができました。
成宮小栗両くん(蜷川作品)のお気に召すままと、菊之助(歌舞伎世界)の十二夜。

娯楽エンターテイメントか、人間を表現する一個の作品なのか、
時間とお金を楽しく消費するのか、世界が生まれる瞬間に立ち会うのか、

いつも、最後はシェークスピアの怖さと凄さに、行き着いてしまいます。
彼の作品には何層にも仕掛けがあって、その、どこの層までゆくのか。ゆけるのか。読み手の好みと力量のまま。まさに、読み手の「お気に召すまま」にお好きなようにどうぞ、とシェークスピアは言っているようです。

だから、演出家や演じ手の、「人間をどこまで理解しようとしているのか」が、そもまま露出される。

気楽な楽しさを望むものには手軽な楽しさを、
深い人間洞察を望むものには深い感動を、

シェークスピアだけがそうなのではなく、芸能とはそういうものなのでしょうか。シェークスピアの作品は、芸能の持つおもしろさと凄みを併せ持つ、ということなのでしょうか。怖い作家です。

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キャラメルボックス  カレッジオブウィンド

2007年 7月 16日 菊&亀のシェークスピア歌舞伎に続いての観劇。

お話も良くできていて、お約束の涙がたくさん出て、面白かったです。成井さんの作劇も上手。幽霊が生きてる人間と同じ存在感で動き回るのは、現代の演劇にちょくちょく出てくる設定で違和感はなく、涙や感動も生まれる。主役の女の子の新鮮さも、気持ちよい。

ただ、銀座で志の輔を聴き、東銀座でシェークスピアと歌舞伎を味わった直後だったので、何か強い質の違いにとまどう。何なんだろう。この違いは。キャラメルの芝居の成否とは別の、「違い」ばかりが気になり。(キャラメルと古典を続けてみたのが悪かったかな。)

気になったあげくに、はたと、キャラメルと志の輔や歌舞伎は全く違うものなのだと、気づきました。

形は、歌舞伎とキャラメルは同じなのです。板の上で人間が芝居を演じる。形が同じだから、間違ってしまった。自分の中で両者を同じジャンルに入れていた。
全く違います。別のものを同じと間違えて、勝手に違和感を感じてしまった。それはいけないよ。
反省。

キャラメルはお約束のシチュエーションのなかで、人が仲間とつどって感動を盛り上げるエンターテイメント。観客は楽しませてもらうためにそこにいる。同じジャンルの新感線は、お約束の楽しみをプロフェッショナリズムで追求している。エンターテイメント=消費する娯楽や癒しや和みや楽しさ=を、様々な手段でとことん追求してくれている。
キャラメルの良さは、エンターテイメントを一生懸命なアマチュアリズムで包んでいること。そこが、キャラメルの良さです。劇場に充満するあの「仲間うち感」は、まさにキャラメルがつくってきた貴重な財産でしょう。ほどよいなごみと笑いと涙で喫茶店でのおしゃべりのようなぬくもりを感じる時間。

一方、落語や歌舞伎も狂言も、エンターテイメントに分類されるジャンルではあるのだけれど、娯楽の提供を越えて別のことを追求する世界になってしまった。
なぜなら、何世代か続く時間の経過の中で、「芸を極める」という目的が生まれてしまったから。
何人かの天才が現れては、神に会い、神に会えることを知って、さらに神に会いたくなり、その結果、「神に会う」は「芸を極める」という言葉で次の世代に伝わっていった。

演じ手が芸を極め、極めた芸に神が降り立つ。幸福な観客はその瞬間に立ち会える。

そして、自身に神が降り立つことを経験できないまでも、その瞬間に一度立ち会ってしまった幸福な観客。彼らも、神の虜になってしまうのかもしれない。

世界が生まれ立つ瞬間。永遠を感じる瞬間。
ゴッホ、ラトゥール、松田権六。万作、熊哲、竜也。彼らは方法は違っても、同じところへ行く。絵画であろうがバレエであろうが、表現方法に関わりなくすべて、同じ。彼らの技(芸)を使って、神に会いに行く。神が降り立つ地点をつくる。
芸術の神が降り立つ一点。

一度でも、それを知ってしまった観客もまた、神に会いたくて、さまようのです。

その世界に、今度はいつ行けるのだろう。どこに行けばよいのだろう。と。


神さまに会うために新感線やキャラメルを見に行っちゃいけない。それは、間違っている。
間違ったことをしてしまったために、違和感ばかりを感じてしまったと、反省しました。

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