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September 2007

September 29, 2007

ラマンチャの男

2007年 9月24日 夜 青山劇場。

セルバンテスをチョ・スンウ、アルドンサをユン・ゴンジュ。韓国のミュージカルです。

チョ・スンウさま。
次の日の、幸福な朝を、ありがとうございました。
食事を作り山手線に乗り渋谷の桜坂をのぼるわたしの中に、「見果てぬ夢」が満ち続けていました。
「見果てぬ夢」とは、「見続けて終わることのない夢」ということでしょうか。
それよりももっと強く、「終えなくても良い夢」と、あなたに言われているようでした。
濁りなく明るい志(こころざし)がメロディーになって、わたしはその音色にすっぽりとくるまって、何かしらうまく形容はできないけれど勇気をにぎって、仕事に向かう坂道を歩いたのでした。

坂を上りながら、
体は透明な壁の向こう側、世の中とよばれているところにあるのですが、
意識は、
自分が存在しているという意識は、見果てぬ夢が流れるこちら側の世界にあるのでした。

やがて仕事をしているうちに、意識もこちら側から体がいるあちら側にスライドし、ラマンチャの残像は消えていきましたが、メロディーは凝縮してガラス玉のように固くなって、わたしの心臓の下のあたりに埋まっているでのした。
輝いていたのは、ドンキホーテ=セルバンテス=チョ・スンウの、キラキラキラキラ光を射たあの目だったとおもいます。

ブロードウェイミュージカルの大半が、ダンスと歌がメインで、ストーリーはそのつなぎでしかないのかもしれないし、ダンスと歌がくりだす圧倒的な渦に観客は酔うのかもしれない。それもまた、エンターテイメントとしてはステキだと思います。でも、チョ・スンウのミュージカルには、ダンスや歌の前にメッセージがあって、人のもつ思いが歌になってあふれてくる。それが、次の日の幸福な朝まで続くのです。

「ラマンチャの男」は、時代に取り残されたドンキホーテのあわれな話ではありません。ドンキホーテを語るセルバンテスの物語です。教会の宗教裁判を待つ牢獄で、彼を待つ重い大きな鉄鈎のような力に向かって、夢の力だけで闘おうとするセルバンテスの、「物語の力」を問う物語です。
人が心にもつ夢は、人々が現実と呼ぶ世界にうち勝つ力を持つ。
もちろん、セルバンテスを待つ現実の運命は「ひあぶり」なのかもしれません。
しかし、牢獄のボスがセルバンテスに「無罪」(「これは火あぶりではない」)と宣言し、地下牢の囚人たちが地上の法廷に向かうセルバンテスを「見果てぬ夢」の合唱で送るとき、彼は人々の心が住む世界で、すでに勝利を勝ち取っているのです。

ミュージカルは楽しい。メッセージが明確にうつくしければ美しいほど、楽しいです。


ここでおわりたいけれど、でも、
射るような光が舞台の上から観客席に放たれて、それは、見事としか言いようがなく、私はその光に打たれていたけれど、
それなのに私は、本当は、悔しくて仕方がなかった。
歌が上手く、演技が上手く、観客を支配する彼のようなミュージカル俳優が、日本にいないことに? 
いえ、悔しくて仕方がなかったのは、わたしが「ロープ」や「ベニス」の竜也に求めていたことを、チョ・スンウがしていたからでした。あの、セルバンテスとドンキホーテの落差のあるみごとな変化。夢と現実のくっきりとした色の違い。あれは、チョ・スンウだからできる彼の持ち味なのだと思いつつも・・・。
舞台の神が降り立つ姿を、もうずいぶん見ていない気がして。

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September 23, 2007

ヴェニス 3rd

2007年9月22日。ヴェニスの商人。3回目。

なんか、久しぶりだ。
竜也の芝居見て、次の日に、また行きたくなっている。
うっとりして、うきうきして、さざ波があとからあとから広がっている。

進化を期待していた3回目、でも、40分も遅刻して、もうどうしようって、やけくそで、焦りまくりで、席について、
そこに竜也がいて、

竜也がいて、
ランスロットがバッサーニオにお仕えしますとおねだりしてた。

このシーン、今どこ?何を見逃した?と計算機がちかちかと働いていたほんの1・2分ののちに。
いつのまにか、こちらがわの世界のわたしが消えていた。こちらの時間での2時間半、(あちらの時間では何日?何ヶ月?)私はむこう側の世界にいっていたのでした。

たぶん、
バッサーニオが薄くひげをはやしていたのを見つけたのが、良かったんだ。
「あれぇ???あれは髭かぁ?(竜也にひげはやだぁ)」オレステスがちらと頭をかすめ、オペラグラスのぞいて、
ところが、そこには、きれいなヴェニスの青年貴族がいたの。
あとは、そのまま、ずーっと、わたしはオペラグラスで、バッサーニオを見続けていた。
アントーニオが命を懸け、グラチアーノが金魚の糞のようについてまわり、ランスロットがユダヤの旦那から乗り換え、ポーシャが射止め、侍女がわくわくし、召使いたちが喜びで満たされる、
若きバッサーニオを見続けたの。

重すぎず軽すぎず。科白も動きも。竜也のスーツのラインがきれいで。箱選びのライトを浴びた貌がきれいで。
指輪をねだられて「えぇ~これですかぁ」、指輪をなくしたことがばれて「・・・ははは・・・」、可愛かったなぁ。
すごく、可愛いバッサーニオだった。
それもこれもみんな、しのぶ姉さんのおかげにちがいない。なんだか、竜也のバッサーニオが、しのぶ姉さんに愛されながらやりこめられる菊之助と重なって見えたもの。

悲劇になりすぎずどたばた喜劇になりすぎず。アントーニオもシャイロックもポーシャも、心に不安や望みをもちつつ、幸福(リベンジもまた幸福のひとつとして)を求めて進む。この芝居は悲劇を内包した喜劇なのです。そこに物語のおもしろさがある。主要人物4人のうち、心に葛藤を持たないのはバッサーニオだけ。彼は無邪気な天使で良いの。竜也は年上の男や女たちに愛される無邪気な男の子(つまり天使ね)になっていた。

市村さんのシャイロック、彼らしい存在感があった。大げさに悲劇の中にいながら、どこかで自分にぼけをかます、市村シャイロックは喜劇の中の悲劇としてバランスをとったシャイロックだった。
徳間さんのアントニオはひたすらサブ。ヒーローの立場になれるのに、バッサーニオを愛し、「無理強いではなく愛ゆえに来てくれるなら」と望む独占できない対象を愛した自負と哀しさ。
しのぶ姉さんはこの芝居を引っ張ったヒーロー。ヒロインなのだけれど、アントニオと愛を争った立場で言えば男性的。バッサーニオはまるで菊之助と同じ弟キャラだったけど、その方がポーシャをカッコ良く描ける。

ランスロットはうるささが減っていて助かった。
グラチアーノはのどをつぶしたまま1ヶ月。このキャスティングは駄目だった。せりふがことごとく汚くて。
ジェシカとロレンゾもベストキャストではなかった。最後の恋を語らう場面、バックの星空と生楽器演奏に心奪われ、肝心の言葉がひとつも入ってこない。むしろ物語の流れを邪魔する方が多かった。

全体に無用な重さがとれ、しゃれた喜劇のテンポが出て、楽しめる作品になっていた。
竜也のモロッコ王は従者との呼吸がぐっと良く、アラゴン公は変身を楽しませていた。喜劇としての趣向が生きていた。

主役4人の呼吸が合ってきたのが、舞台の心地よさを生んでいたのかな。

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September 02, 2007

ヴェニスの商人

天王洲銀河劇場。
海だったところにオフィスビルを何棟か建てて、ビルのひとつに劇場を入れた。ここに劇場をつくろうと考えた人間は、人が集まる場所をつくりたかったのだろうか。無機質なオフィスビルのなかに。
舞浜にはTDRという熱気渦まく巨大カプセルがあるけれど、カプセルの外には人の集まる街はない。
お台場も、えびすガーデンプレイスも、TDRのようにこぎれいだけど、熱気は何年たってもわき上がらず、こぎれいなビルの外はすかすかのまま古びてゆく。

8月24日金曜日・9月1日土曜日。天王洲は、ビルの中さえ、すかすかで、がらんとしていた。
こんな立地の劇場を買って、ホリプロは何をしたいんだか。

芝居は、起きたままみられる夢。さめたあとも幸せでいられる夢。芝居がはねたとき、夢の外に出て人混みの中を歩くのが、きゅんと胸のすく楽しみなの。殺風景な空間に劇場を置かないでほしい。


ヴェニスの商人。7ヶ月ぶりの竜也を見に行きました。7ヶ月ぶりの竜也は元気でした。
市村さんと西岡さんと寺島さんと楽しそうに舞台の上にいた。

いろいろ言いたいこともあるけど、言っても仕方ない。2回見れば言うべきことが湧くかと思っていたけれど、やはり言っても仕方ないと思って。去年の今ごろはオレステスだったな。声のでない竜也を見て、言いたいことがあふれてきた。バッサーニオは・・・バッサーニオでは、竜也は私を向こうの世界に連れて行ってくれないのだと思う。
それで、わたしは、せめて巧さを味わいたくなるのだけれど、寺島しのぶさんの巧さを竜也に求めてはいけない。役者の巧さも舞台の快感なのだけれど、竜也のくれるものはそれではない。
彼が楽しんでいるとしたら、楽しんでいる竜也におかえりなさいと言って、彼を見るしかない。

作品については、山ほど言いたいことが湧く。悲劇なのか喜劇なのか。むろん結婚で終わる喜劇だ。得意の入れ換え勘違いで笑わせる喜劇。だけど、ユダヤ人シャイロックに光を当てると、悲劇にもなる。アルパチーノの映画はそうやってつくった。でも、芝居では喜劇の部分を消せない。脚本は喜劇なのだから。やっかいなのは、現代の日本では悲劇性の方が浸透しやすいこと。市村正親シャイロックにそれを見たい観客がたくさんいるだろう。そして、市村シャイロックが前面にでればでるほど、物語の統一感はなくなる。

戯曲をよめば、これはふたつのラブストーリーの交差が主軸の喜劇です。

アントーニオはバッサーニオを愛してる。心も体も財産も自分の肉(生死)さえ与えてバッサーニオの心を所有しようとする愛。いわばアイデンティティーを賭けた愛。ポーシャもバッサーニオを愛する。ポーシャにとってバッサーニオは自分が自由でいることの象徴で、これも、アイデンティティーのための愛。彼女はバッサーニオを手に入れるために運と知恵と財産をおしげなく使う。

財産家のアントーニオとポーシャが貧乏貴族のバッサーニオに夢中になるのは、何の不思議もない。だって彼は愛されるのが当たり前の男なのだから。ただし、ひとつの獲物をうふたりの狩人がねらえばぶつからないわけがない。ふたつの恋がぶつかる。そして、アントーニオの生死とポーシャの知恵のどちらもが、シャイロックと対立してためされる。つまりシャイロックはふたつの恋が乗る天秤ばかりの支点の位置にいる。シェークスピアは、滑稽な「恋の支点」に、娘を失った悲劇と人生の誇りと復讐を重ねたユダヤ人シャイロックを置いた。物語はそこでぐんと深くなる。おそろしい作家だ。

じゃぁ、バッサーニオはいったい何?
バッサーニオはね、火打ち石の火花。炎が燃える燃料。竜也はいつも、炎になってきたでしょう?だけど、今回は、アントーニオを、ポーシャを、シャイロックを、炎にさせる役目なの。彼らを発火させる役なの。彼らが燃えるための燃料なの。物語の主役ふたりが彼に恋をし、敵役シャイロックはキリスト教徒の「いかがわしい恋」を憎悪する。そのうえ、グラチアーノはバッサーニオのしっぽのように同じことをしたがるし、ランスロットはユダヤ人から貧乏貴族のバッサーニオに主人替えをする。みんなが、バッサーニオのまわりに来る。バッサーニオがこの騒動の原因なのだけど、でも、彼はちっとも悪くない。観客もみな、彼をほしくなってしまうのだから。
そんなバッサーニオを、彼に、やってほしいのだけれど。彼にはやれると、思っているのだけれど。

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志の輔 牡丹灯籠

8月17日 本多劇場
 
暑さのせいですよ。あちこちで40度超えちゃっているんですから。

全部一晩でやるのはとても無理なのね。前半は、おおきなボードに登場人物の名前を貼って、あらすじ。有名な幽霊の場面はこちら。円朝がすごいストーリテラーだって感心できる。後半で、噺に入る。こちらの主筋はあだうち。志の輔さんは長い噺を巧く聴かせてくれる。

ただ、志の輔師匠と円朝の怪談噺は方向が違うように感じました。泣きに来てる私がいけないのかもしれませんが。

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ロマンス

8月15日 世田谷パブリックシアター 井上ひさし新作「ロマンス」
 大竹しのぶ、生瀬勝久、段田安則、木場勝巳、井上芳夫、松たか子。

フィールドは違うけど昨年の「噂の男」に匹敵する役者密度の濃さに、期待して見に行きましたが、脚本の力が弱すぎました。

演出は破綻無く、役者もそれぞれに巧かったとはおもうけれど、お話そのものに焦点がなくて。
芸達者の役者6人が、順繰りにチェーホフを演じながら、脇の人物も演じる、様変わりの妙味、それだけだったのかな。井上さん、何が書きたかったのだろう。チェーホフはボードビル。笑いは人を解放する。それだけだったのかなぁ。音楽劇ということだったけど、音楽の力も感じさせてくれなかった。
 
大竹しのぶはうまかった。当たり前のように、抜きんでてうまい。
彼女のうまさは、極上の食卓ではないけれど、つい注文してしまう居酒屋メニューのおいしさ、楽しさ。
かけだしの女優がチェーホフたちの前で科白を言う場面、一瞬で女優が演じる世界につれていかれたし、若き医師チェーホフの前で自死した夫が残した手紙を妻が読む場面、客席の空気が締まって快感だった。

しかし、これだけの役者、演出家、戯曲家がそろったのに、大竹しのぶの瞬間芸だけではもったいない。
ストーリーも配役も細切れで、役者の力を堪能するにも、脚本に観客を集中させる何かが足りなさすぎました。
残念。

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