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December 2007

December 27, 2007

野田マップ キル

12月22日 コクーン マチネ

1年前の竜也のロープに続いて、妻夫木くんのキル。
宮沢りえさんに続いて、広末涼子。

コクーンの中二階サイドブロックは、こないだカリギュラで頑張った立ち見席の前だった。舞台の3分の1近く見切る席がS席なのかなぁ。強気な商売しているなぁ。そりゃ座れてるんだから、立ち見とは違うけど、前の手すりが邪魔になってるよー!これで1万円。立ち見席の3倍の値段。観劇の値段て、品質とはあまりにも関係ない売り手値段。今どきっ。

レインマン、欲望、カリギュラ、ビューティークイーン、と脚本の力に感じ入る作品が続いたところで、野田さんの代表作のひとつ。

モンゴルのチンギズハンの野望の「切る」と、ファッション業界の風雲児の「着る」、ファッションとファッショ、征服と制服。全編野田さんの言葉遊びの多重構造。後半は生命の連なりへの明るい賛歌的ラストに向かって一気に走る。

今日は気楽に楽しむつもりだったので、想定通り。
妻夫木くんがどうかなって思って買ったチケット、結論は「妻夫木くんはテレビや映画の方が断然良い」です。
声に伸びがなかったのは、喉をつぶしたせいかもともとなのかわからないけど、舞台に立って大きく見えないのは致命的。
逆に広末涼子ちゃんは、舞台の方が綺麗に見える女優さんなのね。

妻夫木くんが舞台で大きく見えなかった理由はわからない。ともかく、この作品の主人公に荒々しい野生がないと、物語が拡散してしまう。その結果、なんと、勝村政信さんが主人公に見えちゃった。勝村さんの演技の振幅を楽しみました。

野田さんの演劇は「メッセージをわかりやすく」なのかな。人間を描くのではなく、場面を描く。または状況を描く。
欲望やビューティークイーンのあとでは、いかにも「にんげん」が薄かった。けれどこれは作風の違い。約束された娯楽という点では、観客は楽しんでいたと思います。

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ビューティークイーン オブ リナーン

12月15日 パルコ劇場 マチネ

大竹しのぶ&白石加代子。
「でたな妖怪」二大女優のがっぷり四つガチンコ勝負。
さすが、さすが、さすがです。役者が期待を裏切らない。これが芝居の一番の醍醐味です。
怖いのにこんなに楽しく仕上げたのは、演出家長塚たかしさんの目と女優ふたりの役者の妙味でしょうか。

アイルランドの小さい村の、閉塞と絶望。
未来に何の希望もないということが、こんなにも怖い。切ないとか哀しいとかの日本的な情緒が入り込めない荒涼とした寒さ。雨ばかり降る緑の島に、少しの潤いもない。

老女マグと老女の世話のために独身のまま40歳を越えた娘モーリーン。偏屈変人女ふたりきりの生活。
娘の不幸の原因は我が儘な母・・・・・そう見せて、実はそうではない。そこにこの戯曲のすごさがある。

娘は、リナーンの村一番の美人ビューティークイーンだった。
今も、彼女は幼なじみが恋するほどに美しい。一夜のドレスを着れば、自分もそれを思い出せるほどに。
今までも今も、彼女は言葉の端に理屈の言葉が出る。
-アイルランドの貧しさの理由は何?-お母さんが綺麗な白い服を着てお棺の中にいるの。夢よ。白昼夢だけど。-
おりふし本を読む女。感情よりも知性を知っている女。だから、妹ふたりが平然と母を捨てて自分の幸福を持っても、彼女はそうできなかったのだ。

美しくかしこい女。
彼女が不幸になったのは、彼女が、醜かったからでも馬鹿だったからでもない。その逆だったからだ。

圧巻は、母親が娘の恋人に、娘が精神病院にいたことをばらすシーン。
モーリーンはかつて出稼ぎに行ったイングランドで、汚いアイルランドとののしられ、傷つき病気になっていた。
きちがい病院。その言葉がモーリーン自身の(大竹しのぶの)口から叫ぶように出る。
モーリーンの傷口がぱっくりと開いて、そこから、新しい血が流れだしている。痛くて、悲鳴が今も続くようだった。
そのうしろで、母親マグ(白石加代子)は、「私があそこから出してやったのよ」と病院の証明書を振り回す。
因習と偏見が幾層にも固まっている島の、やっかみと残酷な復讐心、それが母を小躍りさせていた。

今も美しく今も知的に見えるモーリーンの、母へのおぞましい暴行。
大竹しのぶは陰惨な暴行を乾いて演じてくれた。
誰にでも起きる可能性のある人間の心の淵をのぞき込むようだった。
もしも、あんな世界にたったひとりですてられてしまったら。

アイルランド。
そして、世界。

女が知性も美しさも許されない世界で、彼女たちは狂気にしか行き着くことが出来なかった。

怖いお話です。怖かったけれど、楽しかった。

暗く不幸な物語なのに、終始笑いが起きたのは、女優ふたりのえもいわれぬ味わいのためだと思います。
大竹しのぶの持つかわいげと、白石加代子さんのもつかわいらしさが、たえず観ている私を正気=人間の本性に返らせてくれて、母子の愛情なんてもので言い訳をしない骨格のしっかりした物語になっていました。これは、演出家のお手柄もあるのでしょうか。
大竹しのぶさんは観客をふいにモーリーンの夢想の世界へ連れてゆくし、白石加代子さんは実に丁寧な語り口で嫌な婆さんも人間だって思出させてくれました。
意地悪で残酷な仕打ちの泥仕合を、人間て、ばかだなあと、なんだかそれで救われる思いになったのでした。

パドの田中哲司さんは怪女優ふたりにはさまれて、まったく負けない存在でした。出過ぎず消えず。絶妙。
黒田くん病気のため急遽長塚さん自身が演じたレイは、ちょっと年齢上無理がありました。自分のことだけに夢中な若者の軽さを演じるのに、少々過剰さがでてしまっていました。(これだけが残念。)

2時間半。お芝居をたっぷり観た満足感をありがとうございました。
戯曲のことばがひとつも無意味に流れない、実に心地よいフルコースのフレンチのような満足感でした。

良い戯曲、それを引き出す演出家と腕のある役者がいれば、芝居はこんなに楽しい!

今年は最後まで、「おみごとパルコ劇場」でした。

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十二月大歌舞伎 夜の部

12月14日
お直しで2階西さじき後方列へ。見切りが多く花道が見えないのは残念。それでも、ゆったり座れる桟敷席はやめられません。

菅原伝授手習鑑。
寺子屋を営みながら、かつて仕えていた主人の子菅秀才をかくまう武部とその妻戸波。
追及の手が迫り、幼い菅秀才を殺してその首を差し出さなくてはならない。武部は菅秀才を助けるために、同じ年頃の寺子屋の子どもを身代わりにしようと思いつく。
今の日本ではあり得ないはなしだろ~!しかも、自分の子ではなく、よそさまから預かっている子供の首を着るって言うんですよ。

しかし、歌舞伎ですもの。主君への忠義とかけがえのない子ども。二律背反する武家のあわれさ哀しさと自己犠牲の美がたっぷりと描かれる名作です。

圧巻は首実検をしに来た松王丸。今は敵方に回った松王丸こそ、身代わりになった子どもの親で、これが松王丸のかつてつかえた主人へ自己犠牲の大忠義だったというどんでん返し。

勘太郎の戸波(武部の妻)、福助の千代(身代わりの子どもの母、松王丸の妻)、このふたりの女が良かった。母のあわれさ。武家社会に生きる女のかなしい強さ。悲しみは、みせまいとすればするほど、透き通って美しい。役者がよく演じて、そう感じさせてくれました。

すごかったのは、海老。
妻戸波との苦渋の決断。松王丸との緊迫の対峙。物語の要の大役・・・。

何回か見てきた海老に、人気の美貌は分かりつつ、どうもぴんとこなかったのですが、ついにくっきりと分かった。流行語になったKY。彼は、「空気の読めない役者」だったのです。

あれだけ芝居がわからないなら、歌舞伎は苦痛でしかないでしょう。(歌舞伎は嫌いと公言している本人に、本気で同情しました。天然のお笑いの才能を感じました。そちらに進んだ方が幸せだろうに)
動いても科白言っても座っていても、ただ眉や口の形をつくって、言われたとおりそこにいる。むろんきれいな造形です。だから、まるで大きな置物みたいでした。

あれだけ空気読めない人を相手にしたら、勘が狂って自分の演技までおかしくなります。
そこを、一分のゆるみもなく、苦渋と悲劇と人としてのやさしさまで演じた勘太郎は大したものだと、心底感心しました。

二部は橋の助さんと三五郎さんの踊り。
対になっての踊りは、演者の力量に差を見せてしまう。
橋の助さんも悪くはなかった。ただ、三五郎さんの踊りは、世界が違うの。彼の踊りは見ている者が吸引されてしまう。天からの授かりものを観客に見せてくれる、そんな芸です。

最後は本日のお目当て。「ふるあめりかに、袖はぬらさじ」
有吉佐和子さんの戯曲をはじめて歌舞伎で演じる作品。

長かった。そして、よく分かった。玉は主人公お園が好きなのね。
ちょいとお馬鹿でとぼけてて、お気軽で、でも人情があって、弱い者同士やさしくて、弱い者だからこその意地があって、そこからにじむ哀しさに、観客はいとおしさを感じる。そんなお園が好きなのね。

玉三郎の芸者すがた、振り返りざまの立ち姿。
浮世絵を見て、こんなスタイルの人間がいるわけないと思っていたけれど、舞台の上にいました。浮世絵の見返り美人が、そこにいました。わずかにねじる曲線の美。
堪能しました。若いときはもっと綺麗だったことと知りながら、今でも、立つだけで絵になる。

勘三郎さんが、一幕の松王丸とうって変わって遊郭の主人役。ぴったり。本人こういう洒脱な役どころが大好きでしょう。それがひしひしと伝わってきました。
獅童は軽かった。七の助は薄幸の遊女役がはまっていました。

脚本に難ありと言われているわけが分かりました。
小説と戯曲の違い。小説は言葉で世界を作る。でも、演劇では言葉は3割でいい。科白で説明してはいけない。いちいち場面をつくるのは邪魔。役者のほんの小さなそぶりひとつに見入る。観る者はその集中を楽しむのです。説明調の科白と明らかに無用の場面を切って、2時間の戯曲に出来ないのかな。

玉三郎にたっぷりとつきあえるそんな3時間ではありました。

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December 05, 2007

蜷川&小栗旬の カリギュラ

2007/11/27 シアターコクーン 中二階 Lサイド立ち見席

オークションチケットのあまりの高騰に興味をそそられ、蜷川&小栗劇立ち見チケットをゲット。
定価(3500)プラス手数料(700)でゲットした翌週には、立ち見に1万円を超える値がついていた。
いやはや。

シアターコクーン。
客層は予想よりも幅広い。8割が女性で20代から50代まで満遍なく、きれいな男の子を見たいのは、若い女の子だけじゃないことを証明してる。
男性客はいかにも業界風。若いカップルがちらほら。この客層なら、興行界は大喜びだろう。

並んだ時間も含めて4時間。とても疲れました。が、カネカエセの徒労感はありませんでした。
いろいろな意味で勉強になったし、興味深い夜になった。

まず、小栗旬くん。
綺麗だったのだと思う。
彼をナマで見たのはこれで2度だけれど、きっと綺麗なのだろうと前回も思い、今回も思った。
内面から発する精神性ではなく、海老のような静止画の美しさでもなく、道具として綺麗。
これが蜷川演出にぴたりとはまっている。
演劇を大仕掛けの絵として見せる蜷川さんにとって、役者も衣装や美術と同じ道具。小栗旬くんは、見事に蜷川さんの意図に応える役者になっていた。

歌舞伎座(十二夜)では邪魔だった鏡張りは、奥行きがありサイドが狭いコクーンの舞台ではそれほど邪魔にならない。奥行きをさらにつける効果が十分あった。
鏡の枠の細いネオン管。これはほんとうに綺麗だった。クリスマスシーズンにもぴったりで心憎い。
青と白と黄色の細い光が縦に伸び、上部で装飾的な模様の曲線を描く。鮮やかに綺麗だった。
今まで観た蜷川演出の舞台で、一番綺麗な舞台美術だった。

衣装は織りの厚いドレス状の白。古代ローマのトーガの色を借りていながら宮廷ヨーロッパ調。これに「死」を暗示させる黒が時折入る。うまいなぁ。今まで観た蜷川演出作品で、一番よかった。

舞台上は実に美しく、衣装と美術と役者の肉体が観客の前に鮮やかに動く。
ひたすらおしゃれな雰囲気のなかで、なんとなく悲劇的。
「難解で膨大な」科白にちょっと飽きたころ、カリギュラが貴族たちをいたぶる、貴族の妻を連れ込む、シオピンと抱擁する、セゾニアを殺す、どれも思いっきりの具象で、蜷川さんと小栗くんの真骨頂。
さらに、作品の中間点で小栗くんの可愛いチェチェとお知り丸出しで観客をほっと笑わせ。
蜷川さんの描きたいカリギュラが、みごとに具象化されていた。

カミュが描きたかった世界からは遠くかけ離れた、ニナガワワールドの夜。


その夜観客の前に広げられた舞台から遠くかけ離れたところに、
カミュの描いた美しい世界が、
浮遊してゆく言葉を拾ってゆけば、
ありました。

万華鏡のようでした。
言葉が美しいのではありません。演出家は「言葉が詩のように美しい」と言っていましたが、違うと思います。
言葉の意味、表出している観念が、美しいのです。

ケレアの「若者をそこまで絶望させただけで、それは犯罪だ」
美しくて震えました。
「月を探している」カリギュラ。彼は自分の焼け付く理性の望むところが、永遠に手の届かぬものと知っていました。
自由であることが、他者に対して何でも出来ることではなく、生の内在する恐れから解き放たれることであることを知り、しかし、自己を解き放つことの出来ない閉ざされた身で、自由の虚像だけを実行するカリギュラ。
であれば、死のみが自由であり、しかし、自ら死ぬことを禁ずる倫理の中に生きる西洋の人間にとって、カリギュラの道だけが残された方法だった。他者を死=自由にしてやるという行為によって、自分もそこへ行きつく。
なんて美しい、はかない、むなしい、絶望的な、観念の世界でしょう。

しかし、ニナガワワールドでは、カミュの観念の世界は、みごとにスルーされていました。

小栗くんも勝地涼くん(シオピン)も横田栄司さん(エリコン)も、言葉が物体なのです。カミュの哲学を語る言葉がことごとく廃棄物になって板の上に積もってゆきました。
ケレア(長谷川博巳)だけが、カミュの美しい観念の世界を見せてくれたのだけれど。
しかし、それが、カリギュラの科白ではないために、あっけなくスルーしてゆく。

カミュが語る以上の不条理でした。
世界は、すでに、観念を失っている。哲学は降り積もる死語の山。難解で膨大だとしか受け取られない。
だったら、思いっきり具象的な美しさで飾れば良い・・・・それがこの夜の体験でした。

立ち見席からは、舞台よりも客席がよく見えて、観劇半分観客ウォッチング半分の4時間でした。
劇評の多くが「難解で膨大な」科白を小栗くんがみごとに体現した等々と。
絶望と希望の行き来する観念の世界を描く脚本の言葉が、「難解で膨大」としか受け取られないのであれば、
なるほど、
興業としては、蜷川さんのカリギュラが正解なのだと、心から、
ため息を飲み込んで、納得しました。

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December 02, 2007

欲望という名の電車

2008 11月 18日 14:00 グローブ座
 2階席から、舞台と満席に近い1階席がよく見下ろせた。

私でも名前だけは知っていた「欲望という名の電車」

原作(脚本)の圧倒的な力。こんな風に脚本の力を感じるのは滅多にないことだ。
ビビアン・リーの女優としての名声をさらに高めた映画、
杉村治子さんのブランチ、
杉村さんは、ただ一人ブランチを継がせたかった太地喜和子さんが亡くなったあとは他の女優に決してわたさなかったのだという、
原作者が女性は女優が男性は男優が演じることを強く指定していた、
篠井英介さんがブランチを演じるに当たり原作者の遺族の許可がなかなかおりなかった・・・。

すべての逸話に納得。

これは、女優なら誰でも演じたくなる役です。

これを男性が書いたのですか。その人はどんな人なのですか?
ふつうの男性では、こんな本は絶対に描けない。

そして、彼のほんの簡単な略歴を知っただけで、納得。
人生のあらゆる場面で彼は壊れてゆく人を見、壊してゆく人々を見、その中で、壊されながら、生きたのだ。

そうだよね。ひとが壊れてゆくとき、
何によってこわれてゆくことがもっとも無惨なのかを、知っている人が描いた戯曲なのだ。

明確な悪意でなく、むしろ大多数の常識的正義感。たいてい「社会」と名付けられる逃げ道を許さない圧力。
男性が男性という存在としてもつ暴力性。女性が女性という存在として持つ残酷さ。

その中で、ひとは、もっとも悲惨に惨めに救いようなく壊れてゆくのだ。

女優なら、誰でもやってみたいだろう。
ひいきの俳優が男性だとしたら、無理にでもその男優にやらせてみたくなるだろう。
ブランチはそのくらい舞台表現に魅せられた者にとって魅力的な役です。肉体と心とすべてで語りたいと欲する役です。

さて、原作の圧倒的な力に感嘆しつつも、
今回の篠井ブランチ北村スタンリーに、私は入り込めなかった。
前回の鈴木勝秀演出の「欲望」は、古田新太スタンリー、篠井ブランチは女装もしていなかったという。
そちらを見たかったな。
北村くんは、とても好きな役者さんですが、彼には生まれや育ちの良さがどうしても見えてしまって、存在としての粗暴や粗野が無いのです。だから、美しく女装した篠井ブランチの異形の美しさと対にならない。ブランチの自己愛と自己陶酔、異形の美しさが鼻についてしまって、正直なところ違和感に、まいった。スタンリーが妻のステラに言う(あんたの姉さんのブランチが来るまでは)「おれたち幸せだったじゃないか」の科白の方に共鳴してしまって。篠井ブランチのあくで、北村スタンリーが被害者になってしまう。男性からみると、壊れた女はあんな風におぞましい存在なのか、と感じて、つらかった。

ステラ役の小島聖さんが非常に可愛い愛らしい妹で、よけいにブランチの悲劇を強調する自己陶酔ばかりが際立ってしまった。

ブランチをやるならは誰だろう・・・と考えて、やはり大竹しのぶなのかな、と思ったら、数年前に蜷川演出でやっているのですね。う・・・ん、蜷川さんのブランチ、多分それも私が見たい「欲望」ではなかっただろう。

帰り道、では、誰だろうと考え続けて、北村くんのスタンリーなら毬谷友子さんのブランチで見たいと気づいた。
アメリカ社会の破壊的で無自覚な悪意や暴力や差別。たとえそれが原作の背景であろうと、表面的にはそれがない日本の土壌でも、この本の普遍的な訴えは表現できるとおもう。
あえて、濃い男と女でないほうがいい。
今の日本には、無邪気な繊細さや無防備な善意が無惨に壊れている場面があちらにもこちらにもあるではないか。隠微な悪意が、常識という仮面をかぶって、なにものかに「弱さ」と「病気」というラベルを貼って殺している。その屍が、あちらにもこちらにもある。

今の日本にもスタンリーやステラ、ブランチやミッチがいて、見えない叫びを低く響かせて、死んでいっているような気がする。
そんな「欲望」を見たい。


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