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December 02, 2007

欲望という名の電車

2008 11月 18日 14:00 グローブ座
 2階席から、舞台と満席に近い1階席がよく見下ろせた。

私でも名前だけは知っていた「欲望という名の電車」

原作(脚本)の圧倒的な力。こんな風に脚本の力を感じるのは滅多にないことだ。
ビビアン・リーの女優としての名声をさらに高めた映画、
杉村治子さんのブランチ、
杉村さんは、ただ一人ブランチを継がせたかった太地喜和子さんが亡くなったあとは他の女優に決してわたさなかったのだという、
原作者が女性は女優が男性は男優が演じることを強く指定していた、
篠井英介さんがブランチを演じるに当たり原作者の遺族の許可がなかなかおりなかった・・・。

すべての逸話に納得。

これは、女優なら誰でも演じたくなる役です。

これを男性が書いたのですか。その人はどんな人なのですか?
ふつうの男性では、こんな本は絶対に描けない。

そして、彼のほんの簡単な略歴を知っただけで、納得。
人生のあらゆる場面で彼は壊れてゆく人を見、壊してゆく人々を見、その中で、壊されながら、生きたのだ。

そうだよね。ひとが壊れてゆくとき、
何によってこわれてゆくことがもっとも無惨なのかを、知っている人が描いた戯曲なのだ。

明確な悪意でなく、むしろ大多数の常識的正義感。たいてい「社会」と名付けられる逃げ道を許さない圧力。
男性が男性という存在としてもつ暴力性。女性が女性という存在として持つ残酷さ。

その中で、ひとは、もっとも悲惨に惨めに救いようなく壊れてゆくのだ。

女優なら、誰でもやってみたいだろう。
ひいきの俳優が男性だとしたら、無理にでもその男優にやらせてみたくなるだろう。
ブランチはそのくらい舞台表現に魅せられた者にとって魅力的な役です。肉体と心とすべてで語りたいと欲する役です。

さて、原作の圧倒的な力に感嘆しつつも、
今回の篠井ブランチ北村スタンリーに、私は入り込めなかった。
前回の鈴木勝秀演出の「欲望」は、古田新太スタンリー、篠井ブランチは女装もしていなかったという。
そちらを見たかったな。
北村くんは、とても好きな役者さんですが、彼には生まれや育ちの良さがどうしても見えてしまって、存在としての粗暴や粗野が無いのです。だから、美しく女装した篠井ブランチの異形の美しさと対にならない。ブランチの自己愛と自己陶酔、異形の美しさが鼻についてしまって、正直なところ違和感に、まいった。スタンリーが妻のステラに言う(あんたの姉さんのブランチが来るまでは)「おれたち幸せだったじゃないか」の科白の方に共鳴してしまって。篠井ブランチのあくで、北村スタンリーが被害者になってしまう。男性からみると、壊れた女はあんな風におぞましい存在なのか、と感じて、つらかった。

ステラ役の小島聖さんが非常に可愛い愛らしい妹で、よけいにブランチの悲劇を強調する自己陶酔ばかりが際立ってしまった。

ブランチをやるならは誰だろう・・・と考えて、やはり大竹しのぶなのかな、と思ったら、数年前に蜷川演出でやっているのですね。う・・・ん、蜷川さんのブランチ、多分それも私が見たい「欲望」ではなかっただろう。

帰り道、では、誰だろうと考え続けて、北村くんのスタンリーなら毬谷友子さんのブランチで見たいと気づいた。
アメリカ社会の破壊的で無自覚な悪意や暴力や差別。たとえそれが原作の背景であろうと、表面的にはそれがない日本の土壌でも、この本の普遍的な訴えは表現できるとおもう。
あえて、濃い男と女でないほうがいい。
今の日本には、無邪気な繊細さや無防備な善意が無惨に壊れている場面があちらにもこちらにもあるではないか。隠微な悪意が、常識という仮面をかぶって、なにものかに「弱さ」と「病気」というラベルを貼って殺している。その屍が、あちらにもこちらにもある。

今の日本にもスタンリーやステラ、ブランチやミッチがいて、見えない叫びを低く響かせて、死んでいっているような気がする。
そんな「欲望」を見たい。


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