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March 2008

March 31, 2008

思い出のすき間に

2008年3月24日 本多劇場 13:00

マイケル・ヒーリー作 鵜山仁演出 加藤健一・新井康弘・山本芳樹

「カナダの田舎の小さな農場で起こる、ふたりの農夫と都会から来た演劇青年の、ある夏の出来事・・・」

幼なじみのモーガンのこと以外は起きたことのすべてを忘れてしまうアンガス。モーガンはアンガスを助けながら、農場で働く。農場の生活を体験しに来た若者マイルズは、アンガスに語るモーガンの思い出の物語を舞台の一場面として使う。その芝居を見たアンガスは、失ってしまった過去の記憶をかすかに取り戻し始める。モーガンがアンガスに語ってきた過去の出来事には「うそ」があるらしい・・・。

記憶を失いモーガンに頼り切って暮らすアンガス。
加藤健一のアンガスには、記憶を失う前のアンガスのすぐれた知性がにじむ。それゆえにアンガスが失ってしまった人生へ悲しみが深く大きい。
対する新井康弘のモーガンには、土や木の匂いのする大きな手が壊れそうな小さい命を掬って守るような、無骨で粗野だが農民らしい骨太さと繊細さがある。

その二人のアンサンブルが芝居の通奏低音となる。心地よい集中感。

山本芳樹のマイルズは決して騒がしくなくひ弱さよりも青年らしい純真さがあって好もしい。むしろ悪びれない無邪気な若者だ。しかし、その無邪気な好奇心が、調和していた二人の生活にさざ波をたてる。

ずっと続く友情と失ってしまった少女たちとの愛情、語られてきた物語の中の語られない出来事。
物語は速度を上げて緊張感を増してゆく。

心地よい集中と緊張と、人の優しさを信じていても良いと思える安心感に満ちた芝居でした。


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March 22, 2008

身毒丸 2

竜也を見て、はじめて、向こう側の世界に行けなかった。
戯曲が語る甘美、苦痛、切なさをわかりつつも、90分がつらい夜になった。
次の日の朝は言葉が出てこなかった。

今までずっと竜也の舞台を見たあとは、いつも言葉があふれていた。
見たままを言葉にする恍惚、それが、竜也を見た次の朝の幸せだったのだけれど。

竜也に出会ってから長い間、舞台の神を追ってきた。
舞台の神が降りる瞬間に立ち会いたくて、それだけを追ってきたような気がする。

けれど、舞台にはもう一人神がいたのかもしれない。
「時」の神さまが。

3歳の野村裕基くんが靫猿に棲む神への供物になったように、
身毒丸はかつて天才少年が時の神に捧げられて出来上がった物語だったのだと思う。

藤原竜也はもう少年ではない。
彼は蜷川さんがつくったあの物語で少年として供物になるには成人しすぎてしまった。
今の彼が、かつて身につけた演技で少年を演じるとしたら、それは、25歳の時を司る神に応えることにはならない。

彼が、もし彼に身に付いたかつての身毒丸をすべて脱ぎ捨てて、まったく別の、今の彼にしかできない身毒を演じたなら・・・・。

そう願いながら90分の舞台を見て、
それは蜷川さんと藤原竜也の関係からも、彼の10年間からも、蜷川さんの演出家としてのやり方からも、あり得ないことだと、思い知らされて、

つらかった。

人の想像力によって立つ舞台こそ美しいと思う。

男が女を演じる歌舞伎の世界、
何もない舞台に月明かりや鐘の音を響かせ、あたりを一面の波間に変える狂言、
たった一人の話者によって何人もの人と人動き笑い泣く落語。

白石さんを見て。時に老婆を演じる役者が、まだ少女でさえある20代の女をそこに立たせてしまう。
観客は想像力を駆使できる喜びを味わっている。
白石さんに出来ることを、藤原竜也に求めたかった。

蜷川さんが10年前に藤原竜也にたたき込んだ演技は、天才少年にはもっともふさわしいスイッチになっただろう。
蜷川さんは、観客を驚かせる大きな舞台装置を繰り出し、そこに役者をはめ込む強腕な演出家だから。

でも、ストップモーション多用な動きや感情をたたきつける発声は、少年を演ずる演技ではなく、少年が演ずるための演技だったのだと思う。

もうそこから、抜け出して、
抜け出すために、今身毒丸をやるのだと、そう思いたいのだけれど。


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万作の会

3月19日 19:00 朝日ホール
「万作の会」狂言の夕べ。
昨年に引き続いて、朝日ホールの万作の会。

万作さんは靫猿(うつぼざる)。これは子猿を野村家の子どもが代々演じるそうで、小猿を演じる裕基くんは3歳から今年で5年小猿をえんじているそうです。
生の舞台で萬斎さんの猿引きを見ている気がするのですが思い出せない。今回は万作さんの猿引き。


さて、はじめて、万作さんの狂言に引き込まれなかった。
あいかわらず、上手いと思いつつ、本当に上手いと思いつつ、
神が降りてこない。
そのひとつの理由が小猿とのバランスのように思えてならなかった。
裕基くんが駄目だったのではなく、猿の演技は十分に上手だったのだけれど・・・・帰るときに、後ろの人の声で「8歳はもうぎりぎりね」と、それを耳にして、ああ、そうか、と思った。
3歳の子形が演じる猿は人ではないだろう。異形のものだ。5歳でも大丈夫だろう。
だけど、8歳はもう人になっている。
加えて、体のバランスで言えば、手足が長すぎて、動きがどうしても視界に入って邪魔になる。
何よりも、存在が人なのだ。それは、演じ手の責任ではなく、この作品の小猿の存在はどうしても異形でなくてはならず、それは人になっていない幼い者にしか出来ない。
猿を人のように愛しく思い、人のようにやるせない理屈を言い含め、猿もまた人のようにそれを受ける。
人になる前の幼い子どもが演じてこそ、
時の神が降りて、
見る者は猿と人との間のあるはずのない心のつながりを目前に見て、猿皮をほしがった大名とともに胸をうたれる。
猿を演じるのが人ではならない。人が演じては、当たり前のありきたりの情愛物語でしかない。

2作目の花折りは最初に解説をした石田幸雄さんによれば、「ぼぉっと見ていると何も面白くない舞中心の曲」。
ところが、1作目よりむしろ狂言らしく明るく笑えて、観客席の反応も良かった。

今晩は、萬斎さんが、良かったです。新発智の軽さが楽しく、客たちとの唄の和声と舞が満ちて心地よく、楽しみました。
万作さんは硬質な息をのむような美しさを見せてくれますが、
萬斎さんはまったく違うかろみや洒脱さで、それは中村勘三郎さんにも感じたものです。
どちらからも時代の持つ空気が放たれている-そうだとしたら、そこに、時の神さまの力が降りているのでしょうか。


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キャラメルボックス  君がいた時間僕の行く時間

上川隆也、3年ぶりキャラメルボックス作品。

2008年3月12日 水曜日 14:00 サンシャイン劇場

平日のマチネ、サンシャイン劇場が満員。通路に仮説の座席が並ぶ。
さすが、上川くんだわ。

物語は、キャラメル定番のタイムトラベルもの。はなしの筋をあまりつめて考えてはいけません。
タイムトラベルものは、設定はいろいろと苦しい。時間をとんで愛を確かめる物語と割り切って見る。

キャラメルボックスは高校演劇を越えつつ離れすぎず、素人臭さが絶妙な懐かしさになる、仲間内感いっぱいの公演。
その中で、キャラメルボックス出身の上川くんが「なつかしい母校」に帰ってきても、変に悪慣れせずに演じていたのがとても良かった。
キャラメルの役者さんたちと並ぶと、抜きんでて綺麗でかっこいい。さすが。
舞台にスケール感を出させられる役者さんなのですね。

秋に蜷川さんとやるそうですが、見に行ってしまうのだろうなぁ。
蜷川舞台装置の道具とならず、スケール感を保てるような気がする。

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さらばわが愛 覇王別姫

2008 3月14日 金曜 ソワレ コクーン

脚本 岸田理生  演出 蜷川幸雄  音楽 宮川彬良

東山紀之  遠藤憲一  木村佳乃

冒頭、舞台奥から子どもと女(母親)がスローモーションの動きで前へ一直線に進む。印象的な演出で始まる。
上半身裸の男性ダンサーたちの太極拳風の群舞。これも美しい。
一昨年秋の「タンゴ」を思い出させる、観客を掴む演出。

(タンゴを思い出させるなぁと感じていたら、最後にも同じシーンを持ってきて、本当にタンゴの演出効果とうり二つだった。さらに、芝居の最後近くに、大きく羽を広げたなつかしいクジャクで追い打ちをされて、のけぞってしまった。)

で、中身はミュージカルのような劇だった。音楽劇というやつかしら。運悪く3列目右サイド、右スピーカーの真ん前で、アンプを通した巨大な音に生の声がかき消され、東くんも木村さんも、口ぱくの歌しか聞こえず。あ~ぁ。

歌を聴かせるなら、生の演奏で生の声を聞きたいし、歌は演出上の効果と割り切るなら、歌の合間に科白を言っている作劇は緊張感をそぐ。で、どっちだったのだろう。
昨年のチョスンウのラマンチャの圧倒的な声。あれが焼き付いているだけに、音楽劇が半端だとつらい。

東くんはきれいだった。顔立ちもスタイルも綺麗な造形なのですね。ただ、男性として綺麗というのと、女形として綺麗というのは、違う。玉三郎は、素顔は美男子というのとは違うけど、女形としては凄みさえある。

むしろ、東くんの綺麗さはきっりとして筋の通った姿だから、立ち役の似合う役者だと思う。
今回の作品で言えば、相手方覇王を演じる役の方が、似合っていたんじゃないかなぁ。

拾いもの(!)が中村友也くん。東君の女形蝶衣の弟子。かわいさと若さの残酷が引き立っていた。
よく透る声も、女形としての柔らかさも、戦後人民中国でかつての師匠である蝶衣を糾弾する表情も。

映画を見ていないけれど、どうせ、映画とは全然違う作品になるなら、
舞台ならではの濃密さで表現できるものにしぼって、
むしろ中村友也くんを蝶衣で、東くんを覇王役で、歴史劇を描かず、愛の物語にしてしまったほうがよかったのに。

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March 09, 2008

身毒丸 復活  

2008年 3月8日 土曜日 ソワレ さいたま彩の国芸術劇場

何日も前から心の中でカウントダウンして、毎夜のように夢に見て、

朝から相応の覚悟も出来て

さいたま彩の国まで、竜也くんを見に行ってきた。

無言で帰路につく夢を、数日前に見ていた。 夢がほんとうによくあたる。

藤原竜也を語る言葉がない朝。

さみしいけれど、このさみしさを、天才が奇跡を起こすその場に立ち会う新しい日まで

抱いていようと思う。

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March 08, 2008

春琴 

2008 3月2日 世田谷パブリックシアター 14:00 マチネ

谷崎潤一郎「春琴抄」「陰陽礼賛」から
 演出  サイモン・マクバーニー
 春琴  深津絵里 宮本裕子
 佐助  チョウソンハ 高田恵篤 ヨシ笈田
 朗読  立石涼子 
 三味線 本条秀太郎

 

ラストシーンの闇の中で 「やられた」という思いが 突き刺さって ぐるぐるゆれていた

これが演出だったのなら
今まで見てきたものは
何だったのだろう     ただの飾りや段取りや抑揚にすぎないではないか

浅草歌舞伎亀治郎のお徳に続く 今年ふたつめの「もう一度見たい」
「見たい」というよりも 「見なければ」 
目の前に起きていたことを ただ凝視して 終わってしまった
もう一度何が起きているのかを細心の注意を払って見なければ 
 あそこで起きていたことを細部にわたって思い起こす作業ができない

主要な役者が横一列に並んで中央の佐助役の俳優が語り始めると

すとんと 闇が落ちて 一筋の光が 佐助だけを 貫く

 かっこいい・・・・
一瞬につくられた絵に 息をのみ
この舞台が どんな色で どんな闇で 語られるのか 
最初のたったひとつの作為で俯瞰できるかっこよさ

黒衣たちがもつ幾本かの細い棒が松の葉並となり襖枠となり部屋となり
人の操る人形が人の中で生きた春琴となり
光ではなく闇を操る演出

深津絵里がすばらしかった
幼い春琴は文楽のような人形で 
人形を遣う深津絵里が 春琴の声となり
春琴が長じると 
人(宮本裕子)が人形となって 深津絵里が その人形を遣いながら 春琴のこえとなり

その声だけで 春琴が 生きている 文楽の浄瑠璃のように

そして 佐助と夫婦になってからは 深津絵里がそのまま春琴となった

幼い春琴のカンの強い高い声から
顔を傷つけられた春琴の奥底から深い何かがにじみあがるような声まで

彼女がいなければ この演出は アートな演劇だけで終わっていたかもしれない
人が棲む空間にはならなかったかもしれない

谷崎潤一郎の心の中にだけ棲んでいた佐助と春琴を
サイモンマクバーニーと彼の掌の中で動いた俳優たちと深津絵里が
深い闇の中からすくい取って見せてくれたような

みおわって時間がたつほどにもう一度かくにんしたくなる舞台だった 

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March 04, 2008

小朝独演会

2月25日月曜 ソワレ 五反田ゆうぽうと

小朝さんの独演会ということでしたが、前座に女の子、二つ目に襲名したばかりの喜久蔵、小朝さんは新作(越路吹雪物語)と古典(仮名手本七段目)の二本。

終演後、駅に向かう観客たちは満足そうに「天才」「一流のエンターテイメント」などと語り合っていた。小朝は上手い。忠臣蔵の科白も良かった。だから、観客のさざなみのような満足の中で、私も心地よく帰途についた。

ただ、違和感もあった。
小朝の芸が少し荒んでいると感じたし、志の輔さんの独演会はたっぷり彼だけで3本はやる、その違いを感じていた。

観客層を見た上で、おばさんや年寄りを笑う枕だったのだとは思うけれど、
小朝には似合わない。おしゃれでプライドの高い彼には、見下す感じが出てしまう。
それが、板の上の彼の噺に荒みを生んでいたように思う。

離婚が彼のプライドを傷つけたのだとしたら、一度弱い者の状況に身を置いても良いんじゃないか。
才能のある噺家だけれど、今のままでは、自分で限界をつくっているのではないだろうか・・・
そんなことを感じて。

生の自分をさらす舞台って、残酷だ。だけど、だからこそ、そこに、他ではけして味わうことの出来ない、永遠の一瞬も生まれる。

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二人の約束

2008年 2月17日  parco劇場 日曜日 マチネ

中井貴一、段田安則、りょう
脚本演出 福島三郎

交通事故(笑)(笑いで済んでよかったわ)のあとで、まだ少々ふらつき気味の中。

昨年の「コンフィダント」スーラで光っていた中井貴一さん。映像の人かと思っていたけれど舞台で硬質に光る姿に驚いた。
「薮原」で渋い美しい演技を見せてくれた段田安則さん。この人の芸達者は気持ちがよい。
一昨年の「噂の男」の脚本の福島三郎さん。『本来心温まる福島脚本を演出家(ケラ)がここまで改作してよいのか』という劇評を読んで以来、福島さん本来の作品を見たかった。

この3人の芝居です。

それで、パルコ劇場にはずれなし、の記録を更新しました。(気に入りそうな公演を選んでいるということもあるけれど)
30年前の初恋の少女への思いをずーっと抱き続けている男なんて、現実にはありえない。昔はともかく今の時代にあり得ない。その「あり得ない」ことを忘れさせてくれる、いえ、そういう気持ちって、誰にでもある、と思い出させてくれる、そんな芝居でした。これが福島三郎さんの本来の作風なのですね。

中井貴一さんの小太郎はテンションの高さが少し苦しいところもあったけれど、自分の中の小さな宝物を頑張って握り続ける姿が、いとおしく見えていました。下手にやったら今時のオタクのお話になる可能性もあったかな。でも、中井貴一さんは、ずるかったり、小心だったり、まぬけだったりする人間を、暖かく演じて切なさを出す。それは彼の持つ天性の品の良さのたまものだと思います。

段田さんはとにかく上手い。記憶喪失の男を、怪しいんだか本気で困っているふつうの人なんだか、そのどちらにも見える絶妙な雰囲気。

紅一点のマドンナ役にりょうさん。きっぱりした感じが好ましかった。まだ演技が硬いけれど、今回の役にはそれがうまくはまったかもしれない。

ひとつだけ難を言えば、スクリーンが下がってきて小太郎や記憶喪失の男のシーンを映像で補う演出は不要です。観客の想像力を信じて欲しいです。目の前で生きている人間たちへの気持ちや自分の頭の中に生まれた情景が、映像で邪魔されしまって、私は好きではないです。(映像を使うのがなんだかはやっているようですが、それで補わなければならない人たちは、もともとお金を払って劇場には来ていないと思うのです)

ハートウォーミングな、大人のおとぎ話、舞台って良いなぁと思って帰路につきました。
 

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March 03, 2008

人間合格

2月16日土曜日 紀伊国屋サザンシアター マチネ おけぴでチケット入手。
ほぼ満席。
客層は、全共闘世代中心かな。

今の若者は、太宰をよむのかしら。そういえばデスノートの漫画家の表紙で急に売れたって、そんなニュースがあったっけ。

井上さんのメッセージが、ロマンスよりもピュアに伝わってきて、心地よい安心感と、居心地の悪い違和感が、半分ずつ。
戦時中にあった反権力、世直しの心意気と、
一般庶民のおおらかで無邪気で無自覚な保守性と、
太宰を軸に、前者を友人佐藤(山西惇)が、後者を太宰の生家に仕える中北(辻萬長)が上手に対比させていた。
芸達者な役者が笑いをさそいながら泣かせる。

岡本健一くんも、軟弱だけど懸命な田舎のぼん太宰を好演していた。

馬淵英里可さんと田根楽子さんが、場面ごとにさまざまな女性を演じ分けて気持ちよく上手だった。

楽しい芝居だったけれど、
半分居心地が悪かったのは、
この演劇が今の日本の社会のどこを住処にするのか、なんだか、絶滅品種を目の前にするような、そんな痛さだったのかな。

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