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March 22, 2008

身毒丸 2

竜也を見て、はじめて、向こう側の世界に行けなかった。
戯曲が語る甘美、苦痛、切なさをわかりつつも、90分がつらい夜になった。
次の日の朝は言葉が出てこなかった。

今までずっと竜也の舞台を見たあとは、いつも言葉があふれていた。
見たままを言葉にする恍惚、それが、竜也を見た次の朝の幸せだったのだけれど。

竜也に出会ってから長い間、舞台の神を追ってきた。
舞台の神が降りる瞬間に立ち会いたくて、それだけを追ってきたような気がする。

けれど、舞台にはもう一人神がいたのかもしれない。
「時」の神さまが。

3歳の野村裕基くんが靫猿に棲む神への供物になったように、
身毒丸はかつて天才少年が時の神に捧げられて出来上がった物語だったのだと思う。

藤原竜也はもう少年ではない。
彼は蜷川さんがつくったあの物語で少年として供物になるには成人しすぎてしまった。
今の彼が、かつて身につけた演技で少年を演じるとしたら、それは、25歳の時を司る神に応えることにはならない。

彼が、もし彼に身に付いたかつての身毒丸をすべて脱ぎ捨てて、まったく別の、今の彼にしかできない身毒を演じたなら・・・・。

そう願いながら90分の舞台を見て、
それは蜷川さんと藤原竜也の関係からも、彼の10年間からも、蜷川さんの演出家としてのやり方からも、あり得ないことだと、思い知らされて、

つらかった。

人の想像力によって立つ舞台こそ美しいと思う。

男が女を演じる歌舞伎の世界、
何もない舞台に月明かりや鐘の音を響かせ、あたりを一面の波間に変える狂言、
たった一人の話者によって何人もの人と人動き笑い泣く落語。

白石さんを見て。時に老婆を演じる役者が、まだ少女でさえある20代の女をそこに立たせてしまう。
観客は想像力を駆使できる喜びを味わっている。
白石さんに出来ることを、藤原竜也に求めたかった。

蜷川さんが10年前に藤原竜也にたたき込んだ演技は、天才少年にはもっともふさわしいスイッチになっただろう。
蜷川さんは、観客を驚かせる大きな舞台装置を繰り出し、そこに役者をはめ込む強腕な演出家だから。

でも、ストップモーション多用な動きや感情をたたきつける発声は、少年を演ずる演技ではなく、少年が演ずるための演技だったのだと思う。

もうそこから、抜け出して、
抜け出すために、今身毒丸をやるのだと、そう思いたいのだけれど。


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Comments

初めまして。いきなり失礼致します。
私は、今回の身毒丸は単なる復活ではなく新生だと思いました。
因みに…今回この舞台が上演されたのはNYではなくてワシントンDC ですよ。

Posted by: 通りすがりの者です | March 23, 2008 at 03:39 AM

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