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August 2008

August 30, 2008

ウーマンインブラック

2008年8月29日ソワレ
渋谷 パルコ劇場 渋谷で舞台を見るのは3月のコクーン覇王別姫以来!

上川隆也さんと斎藤晴彦さん。芸達者な二人だけの舞台。
イギリスの古い館を舞台にしたホラー。

期待は高く、お二人は期待通り達者で、シンプルな舞台装置も、照明がつくる空間配置も、
観客の想像力を刺激し、集中させる工夫も良かったと思うのですが、
なにしろ、作品がホラーでした。真っ暗にして突然大きな女性の絶叫。また絶叫。
う・・・・・ん。
怖がらせるために、驚かせる、というのは、
ハリウッド映画かお化け屋敷の世界なので、
わたしが舞台で味わいたいこととはかなりギャップがありました。

そのせいかどうか、上川さんの恐ろしがりぶりがテンションが高すぎで、ときどき科白も聞き辛く、

残念。

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志の輔ひとり国立劇場と独演会

8月16日昼 お盆でオリンピック中継まっただ中で、国立劇場の大ホールを満員にしちゃうんだから、
志の輔さんはすごいわ。

プライベート演劇ともいえる落語をあの大きなハコの中で聞くことに、どきどき。

前座なし。志の輔さんだけで3本。
あの世に行ったひとが生まれ変わりの手続きをする噺。生まれ変わって志の輔さんになった。
三方一両損の噺。
そして、トリが中村仲蔵。歌舞伎の舞台で仲蔵さんの斧定九郎のはなし。

そうだよね、歌舞伎の舞台だもの、最初の出で回り舞台を使って、次の出でせり上がりを使って、
トリの出で花道使わないのは変だなと思ったの。
まくらをほとんどふらず、芸の家を継ぐはなしにすっと入る。
おぉ、、、中村仲蔵だ、その瞬間にそこは歌舞伎の舞台でありました。

歌舞伎の舞台で仲蔵さんの斧定九郎の姿を見て、幸せでした。

8月28日夜 中野駅から歩き「なかのゼロ」ホールへ。
独演会といっても前座あり。考えてみれば、前座がお客さんの前に出る場は必要で、前座から聞いて客も成長できるのだなと納得。
猿後家。実際にいたら困りものだけど、志の輔さんが演じると愛嬌があって。こういう人もいてもいいなぁ、なんて。

トリは柳田格之新。
2週間前に中村仲蔵で、今日は柳田格の進。この2本続けて聞けただけで、良い夏だった。
こんな人はもういない、こんな心情はもう消えて無くなった、そう思いながらも、

松田権六の蒔絵のお盆と同じなの。ある時に、こんなものを作った人がいた。そこにその作品があって、わたしは見る幸せを得た。それだけで良いような気がする。
真摯な心情がそのまま美しい作品になる。それをわたしは客席で見る。
なんだか、それだけで良いような気がした。

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かもめ 千秋楽

2008年8月8日
 
かもめ、名古屋での千秋楽へ。

新幹線で東京から名古屋へ。車中、「20世紀後半史まとめ」に集中。
ホテルに入りシャワーを浴びて、愛知厚生年金会館へ。

5列目下手はじの席で、4幕目のトレープレフが背中か横顔しかみえず、残念だった。
登場人物ひとりひとりを味わいつつも、それぞれの深い感情までには入り込めず。
俳優や演出家の挑戦をさそう魅力のある作品なのだと思う。
もっと近く、出来れば登場人物たちと同じところにて味わってみたいと思わせる作品だった。

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August 02, 2008

かもめ 東京前楽

7月12日 マチネ

今日の席は遠いけれど、オペラグラスで竜也だけを追っていた。


トレープレフの最後の科白。

ニーナが消えて、自分だけが残った暗い部屋のぽつんと置かれた椅子に座って、

生きている彼が最後に口にした言葉

(こまったな。ニーナが誰かに見つかってニーナがここにいたことを知ったら)「ママが嫌な気持ちになるだろうな」

この科白を、

深い絶望の中で

あんなふうに
ふっと
思いついたように言える、

これをすべての観客が聞き漏らさずにいて欲しい。トレープレフになった竜也のために。

次に会えるのは名古屋の大楽。会いたい。最後のトレープレフに。

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かもめ  喜劇ではなく。 

初日のかもめを後方の端の席で見て喜劇の演出に納得しながらも、どうしても、役者の演技を知りたくなった。

行き違う感情を手でさわれるくらいの距離で、見たい。

座席が多すぎる小屋なのが幸い(笑)して、前の席でもオークションでのチケット値段が上がらない。前から三列目を入手。

7月2日 マチネ。暑い日だ。
昼に来ても夜に来ても、香りのない薄っぺらな劇場です。

前から3列目。センターブロック下手通路から2席目。ここは、ラストの竜也が真ん前で見られる!

おや。初日に比べて、喜劇が薄くなっている。彼らへの距離がぐっと近いせいか。
マーシャの表に出しようのない苦しさ。
彼女の気持ちに手でさわれそうな距離。小島聖さんがすごく良い。
この距離だと麻実さんや鹿賀さんの演技がむしろ過剰だ。ふたりとも、アンサンブルから出てしまっている?

そして、竜也。
間近に見る藤原竜也はなんてきれいなんだろう。
いえ、間近に見るトレープレフのにがヨモギのような若さが、きれいなのか。

もしかしたら、栗山さんのかもめが竜也のかもめになりつつある・・・・。
初日に過剰に感じた前半のはしゃぎぶりが少し抑制されて、後半にむかってゆく。

4幕。

トレープレフのまわりで、大きな歯車がまわりはじめる。

母アルカージナの、人生の敵トレゴーリンの、自分自身の、そして彼の前に突然現れたニーナの、言葉が、言葉のひとつひとつが、トレープレフと彼の人生とをつなぐ糸を切ってゆく。
「わたしわかったの」と、女優である自分を語り、トレゴーリンへの愛を言う、ニーナの言葉。
彼女はトレープレフを見ていない。母アルカージナが彼を少しも見てこなかったのと同じくらい、彼をまったく見ていない。トレゴーリンが彼の小説に少しも注目していないのと同じようにように、彼の気配さえ感じていない。
「あなたを見ていない」という視線。
トレープレフを「生きること」につなぎとめていた綱が、切り裂かれてゆく。
名声、戯曲、母、ニーナ。1本1本の糸が切れてゆく。

すべての糸がきれて、

トレープレは、ニーナを見ていない。ニーナを見ることをやめてしまった。

最後の彼は何を見ていたのか。空虚な穴のような終わり・・・。

かもめ第4幕は、トレープレフの物語になっていた。
喜劇ではなく、悲劇でもない、終わりへのしんと静まりかえった物語。

この席で見なければ、この物語は見られなかった。
泣いていたよね。静かに。終末に向かって。人生のすべてが無意味だったゆえに流れる涙だった。

静かに彼は舞台の袖に消える。身近だった人々のさんざめきの中に響く一発だけの銃声。最後の場面はトレープレフの物語のエピローグでしかない。映画だったら、もうテーマ曲とタイトルロールが流れている場面。

こうして、彼はこの物語も、彼の世界にしてしまったね。そして、わたしはまた、彼を見始めるのだと思う。ずいぶん長く、気持ちが行き場を失っていた。
やっと、ここに。とりあえず、ここに、かな。とにかく、ここに、かな。
スタンディングオベーションも興奮した空気も湧いていない、今までの竜也の舞台ではあり得ない空気の劇場をあとにして、

わたしは、小さな満足を握っていた。

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カメレオン

藤原竜也主演
阪本順治監督
丸山昇一脚本(30年前に松田優作に充て書きで書き下ろしたもの)

東映はやる気ないな~。
ホリプロは駄目だな~。
ほんとうに、もったいない。

ヤフーの最後のレビューがぴったり。
「おもしろくない。でも、かっこいい」

それをさぁ、「面白かった」にするのは、プロデューサーの腕でしょうに。

撮影現場の意気を随所に感じる映画なのに、
脚本が寝てるし、(30年前の松田優作のためなら、それでも良かったでしょうが)
東京でたった3館、それも、3週間。

でもね、ゴーロがほんとにかっこよかった。
はじめの1時間弱は、お話のあまりのゆるゆるペースにかなりイライラしたけど、
主人公二人の話になってから俄然面白くなった。

ほんとうにもう一息。アクションシーンを見て、藤原竜也はアスリート系って確信した。科白いらない、は、松田優作と同じかもしれないけど、科白無くても良いから、もっとちゃんと人物に物語を書き込んで。でないと彼はその人間になれない。ただそこにいるだけでよい雰囲気俳優の松田優作とはそこが大きく違う。

前半がゆるゆるしたのは、前半のゴーロに背景の物語が感じられないから。ついでに、旅芸人3人にも、ゴーロの詐欺仲間にも、女占い師にも、相手方の悪役にも、物語が薄かった。

それでも、この映画のおかげで、「竜也難民」状態を脱することが出来ました。
ああ、こうやって、彼は天才少年とよばれた「少年時代」を終わらせて、
次のステージに行こうとしている、そう思いました。

インファナルアフェァみたいな男の映画を、藤原竜也(アンディラウのやくどころ:たとえば殺人をかくしおおして生きているセレブ)&堺雅人(トニーレオンのやくどころ:たとえば犯人を一人で追うおちぶれた元刑事)、監督阪本順治、脚本輿水さん(相棒の)で、つくってくれないかなぁ。

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文楽 槍の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)

7月24日 大坂遠征2日目。

国立文楽劇場。

道頓堀でお好み焼きを食べて、ビール飲んで、国立文楽劇場へ。東京の文楽を見る国立劇場は皇居と最高裁判所の裏手、賑わいのない場所にあって高級っぽい。本場大坂はどうかな。
うーん。大通りに面して風情がない。高速道路高架下の道路。これはいけませんね。東京の日本橋と同じ惨状です。

しっかりと予習をして望んだ「槍の権三」
人形良し。桐竹勘十郎さん、吉田蓑助さん。
浄瑠璃も文句なし。住太夫さん出なかったのは残念だけど。
近松門左衛門の道行きもの、これも文句なし、のはずが・・・・。

結論:天才近松にも失敗作はある。

女がうっとりする良い男の槍の権三は遊んだ女と本気で夫婦になろうとはせず、出世のために他の家の娘との結婚を受け入れる。悪い奴だよね。
権三に密かに心を揺らすおさえは一子相伝の奥義を教える代わりに権三に娘の婿になることを望み、他の女がいたと知って嫉妬し、男を旦那が留守の家に夜中に呼ぶ。
ここまでなら、まだ、悪い男と女の道ならぬ恋と道行き、で納得なのだけど、
そのあとが変!
男と女は情をかわしていない。にもかかわらず、密会の罪をかぶって道行き?
女の動機は夫に「妻敵討ち」をさせるため?
権三の動機は「もはや名はすたった。みごと妻敵としてうたれたい」????
いくら何でも、意味不明です。

そんなわけで、物語を複雑にしてはいけません。シンプルでよし。
物語はシンプルに、心情は奥深く、でお願いします。近松さま。

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大坂七月大歌舞伎 夜

7月23日 東京からの遠征。昼に続いて、夜は「熊谷陣屋」です。
「菅原伝授手習鑑」と同じ、武家社会が親に子を殺させる悲劇。

NHKの「日本の伝統芸能-歌舞伎を楽しむ」で予習も済ませてある。
昼の部「伽羅先代萩」の余韻もある。昼夜で母と父の愛を並べる趣向ですね。

さて、熊谷陣屋の前半は、平敦盛の母藤の井と直実の妻相模が、ともに我が子の生死を案じながら対面し対決するのが見せ場です。相模に秀太郎、藤の井に孝太郎。物語の年齢としては逆かなとも思うものの、相模は重要な役どころなのでベテランが演じます。(役の年齢と役者の年齢のギャップは、現代の歌舞伎にとって、マイナス面が大きいとは思うけれど)
さらに、仁左衛門・直実の登場。この役はどちらかというと、仁さまの風情にはあまり会わないなあと思い、でも
浄瑠璃にのって戦の場面を物語る姿は上手い。

ただし、朝早くからの新幹線と昼の演目のあともあって、以上の部分は、じつはちょっと、うとうとと・・・。

後半の見せ場にそなえてちょっとのお休みを自分に許し。(役者のみなさま済みません)

そして、一気に眠気を吹き飛ばす後半。
義経の前に現す討ち果たした平敦盛の首。嘆く藤の井は背を向けて動かず。
直実が持って義経に掲げたのは、直実の子小次郎の首。我が子の首を敵の若武者の首と偽って掲げる、その前には、二人の母。息子の死と縁ある人の子の死とが、急転直下入れ替わる。
しかも、子を殺した父は、あくまでわが子の死を敵の死と偽って悲しみをみじんも見せず。
「一枝を折れば一指を切るべし」の謎で密かに身代わりの子殺しを命じていた義経。そこにも、隠された感情を隠しおおす激情があり。
(ああ、籐十郎さんの義経もよかったけれど、ここに玉を持ってきたら、直実と義経の間にも隠された愛が生まれちゃうねぇ)
実の子の初陣を気遣ってはるばる陣屋に訪れた母の前にさらされた我が子の首。
しかもそれは夫が討ち、我が子の死を悲しむことさえ許されない。
父である前に家臣であり、母である前に妻でなくてはならない、武家の非情。またはそれは主君への愛か!?

すごいドラマだ。もちろん、あり得ないドラマだ。しかし、人はこんな形の自己実現さえつくってしまう。

それにしても、直実は、妻に対してひどくないか?最後は自分だけさっさと息子の菩提を弔うため出家しちゃうんだよ。ひどいよ・・・・と思うのだけど、それが・・・全部吹き飛ぶの。

仁左衛門さんの直実が、頭を剃り僧の姿になって、花道に立つ。

幕は下りて、義経も家来たちも妻もその姿が消える。直実だけが、一人立っている。間違いなく、彼は、彼が殺した我が子に向かって立っている。

言葉にならない涙。
言葉にしない激情。
武家の非情への、非情をなした自分への、怒りをも圧殺した慟哭。怒ることさえ自分に許さず、一切の言葉を自分に許さず、ただ初めて父として息子の前に立つ男。
自分に殺された我が子に対して、ただ自分の魂を差し出す男。

仁左衛門さん、かっこ良すぎるよ~!!!!!!!

はぁ~。

で、かっこよすぎる仁左衛門さんにうっとりして白昼夢にいたわたしに、
共に観劇した友人のひとこと。
「これ(熊谷陣屋)前に見たよね」

え”----っ!いつ?
全然覚えていなかった。同じ演目を2年前に幸四郎さんで見ていたとは。
というより、途中全然思い出さなかった。演出の違いや脚本の変更があるわけでなし、ただただ役者が違うだけ。前回、わたし、うとうとのまま、後半もスルーしてしまったんでしょうか・・・。

その日覚えているのは、海老を見に行って菊之助が気に入ったことと、最後の仁左衛門さんの踊りだった。
そういえば、あれが、わたしの仁さま初体験でした。

つくづく、ポイントのみ掴んであとは捨てちゃっている自分らしいことではありました。

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大坂 七月大歌舞伎 昼

2008年 7月23日
新幹線で大坂まで。大坂松竹座で仁左衛門さんに会う。

歌舞伎座に比べてこぶりな劇場。左右の桟敷がないので横の広がりにややかける。
しかし、この大きさが大坂のお客さんの暖かさにはちょうど良いのかもしれない。
11列目、花道のすぐ右だったからか、役者と客の距離が東京よりすっと近く感じる。
なんというのかなぁ、つんとすました感じがないのかなぁ。観客の服装は真夏だというのに和服も多くて、京都の舞妓さんが旦那に連れられて見に来ている風もあり、東京よりもずっと「ハレ」なのだけれど、すましてないのね。東京とソウルの間に大坂がある、という友の言葉がすっとはいる。

歌舞伎見るなら歌舞伎座、と思っていたけど、

歌舞伎見るなら大坂、かも。

そして、2度目の仁左衛門さんの「伽羅先代萩」。
歌舞伎の物語性の楽しさを知り、歌舞伎座3階東から見おろす舞台にはまり、仁左衛門さんの芝居の独特のオーラを知った、記念の演目。

今日はこの席で見られて良かった!
仁左衛門さんの八汐は相変わらず憎らしい。しかし、憎らしいけど許しちゃう。綺麗な人が悪役やると、悪役に入れ込める。そこが生身の人間がする舞台の愉快。快感。
さらに、前回やってほしかった、と思った八汐の兄・仁木弾正との二役。
前回は、なんかややメタボの普通の悪役だったこの役。
ところが、
仁左衛門・弾正が花道のすっぽんからせり上がって・・・・青白い光。この世の者ではない妖術師が浮かぶ。
納得。この場面がこの物語にある理由が一瞬でわかった。これが仁木弾正だったのか!
これほどの悪役に対抗するから、政岡は我が子の命を見殺しに(犠牲に)闘ったのか。

 (ときどきこんな既視感を楽しむ。仁左衛門・弾正は、わたしがずっと知っているあるひとの姿でした。
  三国志諸葛孔明。こんなところで、孔明にまであえるなんて。ありがとうございました!)

最後の対決・刃傷の場面まで、まさしく仁左衛門さんを見るための伽羅先代萩。

そのうえ、実はこの演目の白眉は籐十郎さんの政岡。
政岡は主の子・鶴千代の命を守るために我が子千松を犠牲にする。歌舞伎の演目でいつも出てくる忠臣と親の愛のはざま。

敵方も味方もすべていなくなったとき、中央で躯となっている我が子の死をはじめて見る政岡、
そこからが凄かった。

籐十郎・政岡はなかなか我が子のところに近寄らない。
幾度も幾度も敵の姿が消えた花道の向こうを伺う。
悲しむ姿を見られてはいけないと、躯になっている我が子に背を向けて、
誰もいなくなったことをなんどもなんどもなんども伺う。主のため、だけでなく、それよりもなお、犠牲になったわが子の死を無駄にしないためにも。
そして、誰もいなくなった空(くう)を凝視したまま、突然、母に返る。

武家の土地東京では見られない。男の論理の東京では表せない。歌舞伎座で見た政岡とは全然違った。
かくしとおしたからこその、ものすごい、母の情だった。

よかった~新幹線で見に来た甲斐がありました。

他に、「春調娘七草」
菊之助は若武者もきれい。松禄もりりしい。

「血判状」
我當さんは、確かに仁左衛門さんの兄上。若武者ぶりもすがすがしい・・・のだけれど・・・やはり実年齢に近い若者にやってもらいたいのだった・・・。くせ者を演じさせたらピカイチの左団次さんが家康の狸爺ぶりを気持ちよく演じていた。大坂の人はほんとに家康を嫌いなんだなぁと、とてもよくわかった。

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七月大歌舞伎 夜叉が池・高野聖

玉三郎は、海老が好きなのね!とっても、かわいいのね!

というのが、一番の感想です。

今月の歌舞伎座は海老&玉の舞台。
昼は海老が千本桜の狐の宙乗り。歌舞伎座三階西は、普段なら花道が見えない一番悪い席だというのに、今月は宙をゆく海老を目前で見たいファンで1万円を超える高値になっていました。

見てきたのは夜の部。こちらは玉の演出を見る舞台です。3階東前列。

夜叉が池は泉鏡花の世界を歌舞伎にした作品。
一昨年公表だった演目の再演で、演じるのは、右近さん、春猿さんら澤潟(おもだか)屋さんのみなさん。

百合・春猿と萩原晃・段四郎さんの夫婦は夜叉が池の池の主笑三郎・白雪姫との約束から昼夜鐘を打つ。夫を訪ねてきた旧友の右近さん。これに飢饉で百合を生け贄に出そうとする村人たちがからむ。

どうも、不思議の世界に人間の情がからむ泉鏡花の物語の世界が苦手です。
さらに、新作(明治以降)の歌舞伎の科白が、意味が分かりすぎるのか説明的で想像力を刺激してくれない。
加えて、江戸時代に作り上げられた様式美がない。大道具や照明で演出効果を補うのは歌舞伎のスタイルにはあわないようにも思う。かえってスピード感のなさが目立って、つい退屈。

役者はそれぞれ好演していたと思うのですが、脚本演出ともにわたしには合いませんでした。

さて、本日の真打ちは海老&玉の高野聖。

こちらは、ある意味、そのままでした。

泉鏡花・玉のつくる不思議の世界に迷い込んだ若い僧の海老蔵。半分の興味と半分の懼れのなかで、ただ、呆然と(特に何を考えるではなく)一夜が過ぎてゆく。
物語の世界と二人の役者のありようがあまりにもそのままだったので、わかりやすさで勝ち!

玉三郎は本当に綺麗で不思議で少し怖いお姉さんだし、
海老蔵は歌舞伎の世界に好きでいるわけではないけれど、玉の中には女がいてくれるので嫌いじゃない。

ほんと、二人の状況二人の気持ち、そのまんまの舞台だったわ(笑)

ですから、作品を見に行ったと言うよりは、
歌舞伎界の玉三郎と海老蔵を見てきた、という感じでした。

そして、玉は海老のことかわいいんだなぁ、と、
海老は玉ならだいじょうぶなんだなぁ、と。

とっても納得して帰りました。

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August 01, 2008

こまつ座 父と暮らせば

2008 6 21 (土) マチネ
紀伊国屋サザンシアター

最前列 センターブロック

宮沢りえさん主演の映画「父とくらせば」で、りえさんの透明感としんの強さにうたれた。
映画を見たときに、これは舞台にすると良いな、と感じていた。
もともとは1994年初演の舞台作品だったと、今回知る。
すでにモスクワや香港での海外公演もしている有名な作品だった。

俳優は初演から数えて4組目の顔合わせとなる 辻萬長さん・栗田桃子さん。
演出は鵜山仁さん。

原爆投下3年後の広島の父と娘のささやかな日常。原爆は誰も抗うことができないほどの強い力を持つ素材だ。
それを井上ひさしは、娘を思う父の心、父をいとしむ娘の心とでそっとつつんで戯曲にした。

つつんだ柔らかいベール。
父と娘のささやかな日常、恋心や絵本の語り部の仕事、雨漏りする部屋や父娘でつくる郷土の料理。
雨音や日差しから漏れる蝉の声が聞こえてくるし、風呂の湯の温かさやごはんの香りが漂ってくる。
薄い優しいベール。

そのベールの下には、太陽がふたつ燃えて広島の人々を焼き尽くした恐ろしい地獄がある。

娘の行く末を思う父。
その父は、原爆の火で焼かれて死んだ父だ。
観客は、目の前でごく普通に生きている父が幽霊だと、やがて気づくのだけれど、気づいたときにはもう、父は、観客にとって生きている人と変わりない存在になっている。
だから、娘の行く末をきづかう父の心情だけが大きく大きく見える。

生き残った者の罪悪感を背負う娘を「ゆるす」ことは、死んだ者たちにしかできない。
父は、そのために、娘の前に現れたのだ。

恐ろしい地獄をつくるのも、
ささやかなまっとうな幸福を生み出すのも、
人間なのだ。
それを語るために作者は
素材の強力さに負けない、柔らかい、むしろ暖かい、それゆえに美しい、ベールを作り上げたのだと思う。

「人間合格」「思い出のすきまに」で見てきた鵜山さんの舞台にはまっとうなあたたかさがある。
戯曲に対しても、役者に対しても、誠実さを感じる。派手さはない。劇的なテンションはない。
それが、この戯曲にうまくあっていた。

劇的という言葉には、人を驚かせるどぎつさや扇情的な意味合いが強くなっているけれど、
本来の「劇的」は、そんなものではないのかもしれない。
派手な演出効果で驚かせたり泣かせたり笑わせたりするのではなく、人間の小さな営みに物語をみることなのかもしれない。

辻萬長さんも、栗田桃子さんも、市井の人の素朴さもあり、戯曲の持つ力をまっとうに表現して、悪くなかった。
役者の力や「演出効果」を味わう種類の作品ではない。
小さな物語と、そこから見える大きな悲劇を、観客の眼前に差し出す作品なのだと思う。

ただ、
脚本に忠実なこの舞台を見て、改めて思った。
宮沢りえは、凄い。
映画では、この脚本が用意したシチュエーションを越えて、彼女の透明感が圧倒的だった。

もしも、彼女がこの舞台に立ったら、どうだっただろう。
時に、特別の役者たちだけがなすあの場面、脚本を越えて新しい世界が生まれるあの瞬間。
「ロープ」にいた宮沢りえだったら、
もしかしたら、舞台でも彼女の透明感が作品を別の次元に持って行っていたかもしれない。

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