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January 2010

January 31, 2010

蜘蛛女のキス

2010年1月30日(土)マチネ
池袋芸術劇場中ホール はじめてのホール、椅子が座りやすくなかなか感じの良いホールです。
前が中央通路の左サイドブロック通路横のなかなか良い席。しかも、12000円の席が朝日新聞特売で6000円。
アンジンといい、今回といい、この席で別の演目を見たいと、つい思います。

南米の軍事独裁政権下の牢獄。「おかま野郎」と蔑まれるモリーナと政治犯のヴァレンチン。
モリーナは釈放を餌にヴァレンチンのスパイを命じられているが、同房生活の中で、ヴァレンチノを愛してしまう。モリーナの心を支えている内面世界にすむのは映画女優オーロラ。
オーロラが蜘蛛女となってモリーナの心の世界に棲む。

原作の小説は面白そう。物語の柱は力強い。作家自身が戯曲にしたストレートプレイが見たい。
戯曲が映画化され、映画が当たってさらにミュージカルに。なるほど、曲も良い。

お目当ての浦井健治くんのヴァレンチノ。
ストレートに素直な青年。歌は力強く、かなり惹き付けます。去年のヘンリー4世も好演だったとのこと、見逃して残念でした。別の作品でもう一度見てみましょう。

石井一孝さんのモリーナ。石井さんは6年くらい前の世田谷パブリック「ファウスト」以来。
あのときよりは、良かったかな。たぶんしなをつくっている「おかま」姿が男性の姿よりあっていたのでしょう。女としてのしなはむしろ性同一性障害を思わせました。その意味では熱演。
最後にスーツの男性になったのですが、そのとたんに私の興味域からはずれてしまった・・・。
石井さんは篠井英介さんと同じ方向性が向いているかもしれない。

良かったのは、残念ながらここまででした。

石井モリーナは、女っぽさを前面に出して演じようとした分、
それが外見上の演技の部分であったゆえに、
男であれ女であれ人が内面に潜ませる哀しみがかえって弱くなっていたと思うのです。
モリーナは、もっともっと、哀しい哀しい役です。

これを市村さんが演じたら、面白かっただろうと、本気で思いました。
かつて評判になった市村-麻美で見たかった。

見ていて困ったのは、蜘蛛女を表現している歌の金志賢さんとダンスの辻本友彦さんと若いダンサーたち。
単品では二人とも悪くないのだと思うのです。しかし、異種コラボレーションの悪い罠にまってしまった。
歌とダンスが披露されればされるほど、違和感が放出されて。「安キャバレーのよう」という言葉が悲しいかな的中。
素材が良くても料理としては全然駄目という作品でした。オーナー(制作プロデューサー)とシェフ(演出家)の責任です。

かつて麻美さんの蜘蛛女はきっと魔術的に妖しく心の深い淵を見せてくれていたのでしょう。
それを想像するとますます、今回の演出が恨めしい。

本気のミュージカルなら、音楽ももっと奥行きが欲しいし、右手に出ては引っ込む巨大な壁にうつる映像はやめて欲しいし。ダンスには牢の格子は邪魔。
大道具小道具衣装すべてが説明的。説明的な演出は説明せりふと同じ安っぽさを生むのだとわかりました。ミュージカルの場合、視覚的には分かりやすい衣装や舞台装置が必須なのかも知れませんが、この原作には向いていないと思いました。牢獄の中での残酷なリンチの表現も含めて。

舞台の美しさは説明からは生まれない。それがわかって勉強になりました。

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January 11, 2010

十二人の怒れる男

2009年11月23日。シアターコクーン。

「中井貴一にはずれなし」
同好の友人の言葉。賛成に1票。

蜷川さんの演出は今年の2作は好きでした。1月の「冬物語」と今回の「十二人の怒れる男たち」
(ムサシは脚本の遅れが演出云々を言えない有様でしたから。)
大人の俳優のかみ合う力を引き出して舞台装置はシンプル。

三方から客席に囲まれる舞台。長いテーブル。テーブルを四方から囲んでいる13個の椅子。奥のトイレへのドアと手荒いの水道。テーブルの上に下がる白い電灯。

もちろん脚本がすばらしいのです。
ごく普通に暮らす市民たちがもつ、理性を拒否する偏見と無関心。私たちが当たり前に認めあっている醜さ。
しかし、この本は人が生きる上で持つ差別や他者への侮蔑を暴き出しながら、
その醜さを暴露することを目的にしていない。

すべての人間が人として内に持つ正しさへの声を
ひとつひとつ掬い出すこまやかな作業く。脚本はその作業なのです。
だから、美しい。本当に美しい物語になっているのです。

その美しさを描くのにもっとも貢献しているのは、むろん、「正義」を希求する陪審員8号を演じる中井貴一さんです。人前で正義を希求するは今の日本の社会では排除されやすい姿です。しかし、中井貴一さんの演技には心のまっすぐな人の良さがあって、8号の正義を実に上品にかつ強く演じました。それは彼のもつ素晴らしい素養なのかも知れません。だから、息子への愛憎からまる感情をほとばしらせる陪審員3号西岡徳間さんとの対決が、暖かく感じられたのです。

辻萬長さんの理性的であろうとする市民のがんばりはとても分かりやすかったし、
筒井道隆さんはスラム出身者が必死に前へ進もうとしてたくさんの障害を越えている感じが良かったな。
どの役者さんもとても気持ちよかった。誰かを演じる心地よさがどの人からも匂い立っていた。
それは、きっと、脚本家と脚本と役者を信じた演出家の設定が良かったからだろうな。

すべての役者さんが
この舞台の本当の主人公が
父殺しの罪を問われている少年であることを知って、陪審の場にあり、舞台の上にいる。
この作品が最も訴えようとしていることを見事に描き出している心地よさのある舞台でした。

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花形歌舞伎 三人吉三 鬼揃紅葉狩

新橋演舞場 2009年11月21日 夜の部 

歌舞伎界若手役者を観る舞台。

第1幕は三人吉三巴白波
お嬢吉三に女形若手筆頭の菊之助
お坊吉三に仁左衛門さんのあとを継いで欲しい愛之助
和尚吉三に尾上松録

う・・・ん。こんな話だったの。
お坊が和尚の父伝吉を殺しちゃうし、薄幸の兄弟おとせと十三郎を和尚が殺しちゃうし、
殺されるわけもとってつけたような「親(伝吉)の因果(昔盗賊だったころの悪事)が子(おとせと十三郎)に報い」だという。
何なんだこの話は。

殺された三人(歌六、松也、吉也)のほうが上手いので、この三人が次々に殺されちゃったときには、苦笑。

若手筆頭の三人、もっと、なんとかしようよ。悲しいけど、三人とも少しもキレイに見えなかったよ。

たぶん、江戸時代にこの演目がかかったときは、今のジャニーズの嵐みたいな、旬な役者がみせばいっぱいに演じて、それがお客さんの胸のすくような芝居だったのだと思うの。特に、和尚は三人の中では一番兄貴分のめっちゃかっこいい渋さも見せるいい男が演じたんだと思うの。

それで、お客は三人の因縁に心を打たれながら、最後の雪の立ち回りにうっとりしたんだと思うの。

ちょうど、蛮幽鬼みたいにさ。

今の歌舞伎の立ち回り、殺陣、あれ、興がそがれると前から感じていた。周りのトンボ切っている人たちが気の毒になる。
新感線に、早乙女太一君に、できる殺陣が、なんで歌舞伎若手役者にできない?

で、
そうか、歌舞伎には演出家がいない、
これが、芝居のおりをためてしまっているんだ、と思ったのは、2幕を観て。


2幕。鬼揃紅葉狩。訴えかけてくる力の、1幕「三人吉三」作品とのあまりの違い。
猿之助さん演出の舞踏劇なのだと知って、
今の歌舞伎には「良い演出の目」がなくなっているのだと痛感しました。
演者としても卓越していたそうですが、猿之助さんにはものすごい演出家の目があるのですね。

作品として圧巻でした。
後ろの絵は淡い黄色に紅葉が映える。衣装の色がキラキラと光沢で美しい。
女中たちの舞いがあでやか。1幕で殺されちゃった松也と吉也もいるのね。

そして、圧巻は亀次郎の舞い。

決して体格も顔立ちも女形として美しさに恵まれているわけではない

その亀次郎の更級の前。彼女が舞うごとに舞うごとに、どんどん美しい姫君に見えてくるの。紅い打ち掛けの鮮やかなこと、紅葉よりも華のよう。美しさは手足からだ表情その動きから溢れてくる。あの「動かなければキレイだよね」という役者さんの対極。亀次郎の天分は体の柔らかさが作るしなり、力強さ、伸びやかさ。

玉三郎が人間でない舞いの精ならば、
亀次郎は美しい実体のある女性の舞い。

人間とは思えない玉の舞いに心を奪われるように
形ある人間の舞いに息をのむこともあるのね。

そして、正体を現した鬼女たちの激しいことといったら。鬼女たちが群となって一糸乱れず飛び上がる体、床をたたきつける足。その音も息も固まりになって私たちに迫る。
長い髪が回り続ける迫力。シルクドソレイユに近い技でしょう。猿之助さんの演出家の目が希求する舞台の一端を堪能させていただけました。

再演をお願いいたします。必ず、見に行きます。もっと間近でもう一度見たいと願っています。

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January 10, 2010

シャドーランズ

2010年1月9日 下北沢本多劇場

アンジンの口直し(笑)

アンジンはカウントしにくいのでこちらが本年最初の観劇です。

ウィリアム・ニコルソン作 「ナルニア国物語」作者CSルイスの晩年に本当にあったできごとをもとにしています。
彼が人生の晩年になったときにアメリカ人女性ジョイと出会い、女性が骨肉腫を発病する中で結婚し、闘病生活の中で妻を失う、という物語です。

これは一見すると、愛と感動一色の難病もの筋書きです。映画やドラマにしたら、どんなにか、簡単に人を泣かせることが出来ることでしょう。

しかし、この作品は、実はキリスト教信仰の根元を問うているものなのです。

童話作家として有名なCSルイスは、実際にはそ人生の大半を権威と伝統と強い信仰を基盤にしたオクスフォード大学16世紀英文学教授として過ごしました。晩年まで独身を通し兄と二人暮らしをする彼の生活は、まるごとイギリスの知的エリート世界の中にありました。彼が住んでいた世界は古典を自由に操る伝統と権威の上に立ち、女性や若者のもつ素のエネルギーへの侮蔑に近い感情を隠し持ち、同時に神への信仰が精神の基盤になっています。
キリスト教徒にとって信仰は解くことの出来ない神との契約です。しかし、人生における理不尽な苦しみは、疑うことを許されないはずの信仰をしばしば揺るがします。

神は人を愛していると言いながら、なぜ、耐え難い苦しみを与えるのか。

この作品はこの問に、正面から答えようとしています。

その作品をキリスト教徒でなくオクスフォード的文化の権威も存在しない日本で演劇にする。
これは、とてつもなく高いハードルです。筋書きがお難病ものなことがかえってこのハードルを高くしています。簡単に出る涙だけで終わらせてはいけないのですから。

加藤健一さんはこのハードルに正面から向かっています。
そして、彼の演劇に対する真摯な姿勢がすみずみにまで溢れている誠実な舞台を作りました。
斉藤晴彦さんの軽妙な笑い、新井康弘さんの不器用なあたたかさ、石田朝織恵さんの早熟な少年のいじらしさ、春風ひとみさんの灰汁のない美しさ。それらがベストマッチングして、さわやかな後味を残しています。

そして、作品の解釈において、
加藤健一さんは、キリスト者としての答えではなく、人としての答えを出そうとしたように思います。

神は人を愛していると言いながら、なぜ、耐え難い苦しみを与えるのか。

加藤健一さんのジャックはその問を越えてもう一つの問をしています。

神は人を愛していると言いながら、なぜ、耐え難い苦しみを与えるのか。人間はその答えを見つけなくてはならない。しかし、この問が作る深い淵を、知性で乗り越えることができるのか。そして、知性で出した答えがすべての真実なのか。と。

物語の始めに観客に向かって語られる答えは神の、つまり知性の答えです。

そして、物語の最後で語られる答えは、
人間が自分の心に大声でなくそっと語る言葉のように思いました。

権威と伝統と曇りない信仰の世界に守られて暮らしていたジャックが、
ユダヤ教徒だった改宗キリスト教徒で
アメリカ人で
男と対等に解釈や分析を語ることをおそれない
自分より17歳も若い女性を

愛した。
それはジャックにとって救いであった。

加藤健一さんは物語の主題をそこに見いだしているように感じました。

それゆえに、
彼女を失う苦しみは彼女を得た喜びの一部であるという答え、
その暖かさが、
劇場をあとにしたときにまで、ずっと続いたのでした。

ただ、ひとつ付け加えるとすれば、
自分がジョイを愛していると気づいてジャックは「新しく生まれ」ました。その劇的な変化のためには
ジョイにもう少し
オクスフォード権威がはなから拒否する若さと自然な生意気さと飾らない風情が欲しかったな。

春風さんのジョイはむしろ良妻賢母にして良家の子女ふうの良い女性で、柔らかすぎたようです。
といっても、ではどの女優さんと考えて、答えが出ませんでしたが。

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ANJIN イングリッシュサムライ 按針

2010年1月5日 まだ松の内の銀河劇場

ホロプロの日英合作歴史大作。演出グレゴリードーラン。せりふの半分近くが英語で、日英語どちらにも字幕がつく。

イギリス人船乗りで家康に仕えることになったウィリアムアダムス日本名三浦按針にオーウェン・ディール、科白は英語から次第にカタコトの日本語へ。
アンジンに心のうちを見せる家康に市村正親。
キリシタンに入信しアンジンと家康の間で通訳をする日本人宣教師ドミニコに藤原竜也。前半はほとんど英語で後半に向かって日本語も増える。

1部1時間40分強、休憩を挟んで2部1時間半。上演予定時間掲示を見て、うわっ長っ、とつぶやくも、実は長いと感じなかった。
最後までこの作品のめざすところが見つけだせず、主題をつかんだうえで「ここは無駄だなぁ」「ここいらないなぁ」と感じることもできず、「何を描きたいのか」をひたすら探しているまに3時間強がすぎた。
そして結論。この作品には演劇としてめざす頂きがなかった。次々と場面が変わってゆく絵巻物のような舞台。

400年前に実在したイギリス人、彼が出会ったであろう日本、その支配者(家康)、彼があとにしてきたヨーロッパ社会の宗教対立が日本にまで色濃く入り込んできていたことへのイギリス人としての認識、
それらをこの脚本はカタログのように上手に組み立てたのだと思う。

終わってみれば、ウィンドウショッピングに似ていた。
イギリス人から見た日本を感じさせてくれる絢爛たる舞台美術と分かりやすい衣装。
善玉悪玉がはっきりしている登場人物。
家康が幼い国松に死を申しつけるところに、市村家康がくっきり見えて見せ場のひとつにしていた。市村さんはずっと日本語だったのが良かったように思う。
科白の大半がカタコト英語とカタコト日本語だった竜也とオーウィンさんはそれぞれ、英語で芝居をしている、日本語をしゃべっている、その姿を見せることに重きが置かれていた。それが片や通訳として二つの文化をつなぐことを象徴し、もう一方で異国で暮らす人生を選んでゆく人間を象徴していたのだろう。

ショーウィンドウのようであったので、見るものが世界に入り込んでゆく演劇の力は欠けていた。
結局、作品が表現したかった唯一のゴールは「日英演劇をつなぐ芸能プロダクション」というホロプロの自画像だったのだと感じた。

芝居ではなくて、良質のエンターテイメントでもなくて、演劇とも言いづらい・・・・
美を唯一の価値基準とする世界のものではなく
まさに純粋に商業演劇の興業そのものだった。

私の心が「さよなら」を言う舞台なのだろうと予想して天王洲へ行ったのだけれど。
劇場をあとにする私の心は「じゃ、またいつか。元気でね」と言っていたように思う。
違う世界の住人になった彼へ。

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