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March 2010

March 24, 2010

御名残三月大歌舞伎 菅原伝授手習鑑  「筆法伝授」「道明寺」 

歌舞伎座もあと少し。庶民的で明るくてきらびやかで味のある歌舞伎座がなくなるのは 寂しい。

仁さまも、さぞ寂しく思っておられることでしょう。

それで、ご一緒に名残をおしみたくて、第二部の筆法伝授と第三部の道明寺を 見てきました。どちらも菅原伝授手習鑑のなかのお話しです。

「寺子屋」が圧倒的に人気の菅原伝授。
「寺子屋」には菅原道真公(菅公・菅丞相)は全然出てきません。だから、少し前まで、松王丸が主人公の物語だと思っていました。
昨年、「加茂堤」を見て、梅松桜の三兄弟のお話だと知りました。
そして、今回、はじめて、主人公の菅丞相道真公にお会いできました。

仁さまが演ると どんな役でも、「この役は仁さましかできない」と思ってしまうのですが、

十三代目のお役だった菅丞相、みごとに当代の仁さまの役になっていました。

仁左衛門さんはきれいです。
色悪も意地悪な役も困ったぼんぼんも追いつめられた若者も
みんな好きだけど、

何ものかのために大切なものを捨てると決める、そういう役で、とくに美しさが際立つように思います。

綺麗な真情が春の香りのように内から立ちのぼるのです。
そして、わたしは、美しい気をいつまでも見ていたくなるのです。

お話しは・・・

右大臣菅丞相菅原道真公が左大臣藤原時平の讒言によって流罪となる。
その原因を作ったのは道真の養女苅屋姫と帝の弟親王の恋。
二人の逢瀬が「加茂堤」。逢瀬の手引きをするのが桜丸です。桜丸はその後、責任を感じて自ら命を絶ちます。

そうとは知らぬ道真公が帝の命で弟子に筆法を伝授し、その直後讒言を受けて流罪となるのが「筆法伝授」。
このとき、梅王丸が菅公の一子菅秀才を館から逃し、筆法を伝授された弟子武部源蔵夫婦に託します。

都を追われ、遠く太宰府へ流される途中で、道真公と苅屋姫が菅公の叔母覚寿の住まいで最後の対面をする「道明寺」。
道真公の養女刈谷姫は実は覚寿の実の娘。覚寿にとっては、甥の道真公の養女となった実の娘が、道真公の大きな災いをつくったことになります。

そののち、道真公への帝の疑いはついに晴らされぬまま、道真公は二度と都には帰れませんでした。
追究の手は一子菅秀才へ。武部夫婦はかくまっていた菅秀才の首を差し出すことをせまられます。これが超有名な「寺子屋」
一昨年に見た仁さまの松王丸、よかったなぁ。思い出しただけで、泣きます。

物語は壮大な叙事詩でありました。
道真公を円の中心に、道真公とその周りの人々が描く真情の物語です。

中でも、「筆法伝授」と「道明寺」こそ、のちに神さまになった道真公が、帝(お上)への真情を貫いて、無実の罪を罪として受ける、道真公のこころの神々しいまでの美しさを描く段です。


3月9日、第2部。「筆法伝授」
・・・・・それにしてもね、菅公(道真)の露出の少なさ。動きの少なさ。はじめは筆法を伝授するために御簾の下がった部屋に座っているだけ。宮中への行きと帰りに歩いて、あとは立っているだけ。
仁さまを見たいわたしには、相当につらい・・・・それでも、

主を打ち据えようとする役人に抵抗する梅王丸を抑える道真。
ただ、黙って、こらえて、すべての疑いを受けて、立ちつづける仁さまの美しさったら!!
その立ち姿それだけで華のよう。


道明寺は2回、3月11日と23日に見ました。

11日は9列。この日は歌舞伎座に入る前にビール2杯飲んでしまったのが大失敗でした。相当寝てしまいました。情けない。なにしろ、2時間の「道明寺」の中、主役の菅公(仁さま)の露出度は「筆法伝授」よりさらに少なく。仁さまの出ていた場面だけは見事に起きていたもののあとはほとんど記憶にない自分て・・・。

二時間の演目のはじめの一時間半に仁さまが出てくるのはわずかに姿の見えない数語の声と、木像の菅公が歩く姿、そして、上手の小部屋に座っている数分間。動きは最小にして、ただその存在が背景にあるお話しが進行してゆきます。

仁さまが動くのは最後の10分。そこにすべてが凝縮されるのです。
それにしても、10分に15000円か・・・と少々複雑な心境もあり。


リベンジで、2列25番の素晴らしい席をおけぴで譲ってもらいました。この23日が、わたしの歌舞伎座最後の日になります。
上手、菅丞相(菅公)のほぼ正面。おおー!!!興奮。もちろん、今度は一瞬も気を失うことなく集中。

仁さまの筆法伝授以上の露出の少なさはわかっているので、はじめの1時間半は別の芝居と割り切って見ます。それでも2列目でしっかり見て、はじめの1時間半に、はらはらどきどきのシーンあり、わらってしまう可笑しいおとぼけのシーンあり、と、観客の体をほぐしている戯曲だとわかりました。(ごめんなさい)

そのうえ、木像と生身の、その姿を演じ分けている仁さまを見るだけでも価値あり。まさに、神懸かりの神々しさ。

前半の主役は菅公の叔母、覚寿です。自分の実の娘ながら、恋を求めて父を罪に落とした娘刈谷姫をうちすえ、刈谷姫の姉が妹をかばうと姉をうち、さらにこの姉娘を殺した婿を切る、気丈な老婆です。演じるのは仁さまと絶妙のコンビとなってきた玉三郎。
う・・・・・ん。
玉さまの老け役は、内心、もったいなくて辛かった。
玉さまには刈谷姫をやってほしかった・・・
仁さまの相手役のバランスからの配役なのでしょうね。母の思い、気丈さ、菅公の行く末をおもう辛さ、良かったけれど・・・・・・
でも、でも、でも、でも、玉は刈谷姫をやるべきだ!!と心の絶叫。

いよいよ残り30分。

木像の菅丞相の不思議が露わになって、本物の菅丞相と並びます。

出立の時。
娘は流罪の旅に向かう父に一目会いたい、会って許しを請いたい。
覚寿は刈谷姫と菅丞相が会えるように、打ち掛けのなかに刈谷姫を隠します。

しかし、父は帝への罪を犯した娘と合うことを拒絶します。

娘に許さない、いえ、それ以上に、娘に会うことを、自分に、許さない。

父の拒絶を知って、打ち掛けの下に隠れた姫の泣く声だけがもれる。
それを聞いた覚寿は菅公に実の娘の哀れを訴える。それは母の心です。
しかし、そのすすり泣く声を菅公は「あれは鶏の声。子鳥が鳴く声」と応えるのです。

子鳥と親鳥の哀れ。

閉居していた小部屋の窓の欄干に手をかけ、身を乗り出し、覚寿や娘に背を向けて見栄を切る仁さま、
かっこよかった!!!!
公と私に切り裂かれるその姿にうっとり・・・(と恍惚なのははわたしだけで)

菅公が心で泣く姿に周りからはすすり泣きの音。

ついに菅公は出立します。後ろには父が会うことを拒絶した娘、刈谷姫・・・・・
父は娘をかえりみない。
娘の落ち度をかえりみない。
ただ、今、この瞬間にあるなにものかだけをみつめて、庭に降りる階段をくだる。

そのとき、
仁さまは止まるのです。
止まって、しかし、刈谷姫を見ないのです。
決して見ないのです。娘に一瞥もあたえないのです。
けれど、決して娘を見るまいとするその全身が娘を見ているのです。目ではなく体全部心全部で。

娘はついに父に駆け寄りすがります。父の衣にすがりつきます。
それでも娘を見ない父。
その父が、高く一点を見たまま、手の扇を広げ貌を隠す。隠された父の貌。父にすがる娘。
父ははるか一点を見つめたまま、
娘を抱き、抱いたその腕の下から、娘の手に扇をいれる。

父の手と形見の扇と娘の手。

仁さまは歩きはじめる。花道へ。流罪の道へ。

歩く・・・前へ進んでいたその歩が一瞬とまる、とその刹那、
父は、たった一度、見返る。
はるか高い一点を見ている父が、見返った一瞬、娘を見下ろし、

すべてを振り切って、再び、前を向き、しかし、歩めない。
オペラグラスの中、立ちつくす仁さまの頬に流れる涙。

何かのために何かを捨てる、その厳しさを掘った仁さまの横顔の美しさを私は忘れないと思う。

2回見に行ってよかった。
これは、何度も味わう芝居でした。
味わっても味わっても、終わることのない感動でした。

私の歌舞伎座が
仁さまのあの美しいほんとうの涙で永遠に止まって、
しあわせです。
ありがとうございました。

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March 20, 2010

トーマの心臓

2010年3月8日

新宿 紀伊国屋ホール スタジオライフ25周年記念公演

この作品のためのスタジオライフだもの。倉田淳さんの愛がいっぱい詰まった作品だもの。

わたしのトーマの心臓を見るのではなく、倉田さんのトーマを見に行ってきました。

ユリスモールに山本芳樹くん。エーリクに松本慎也くん。オスカーに曽根海司くん。

原作の物語を壊さず、そのままを少年たちに演じさせた1996年から14年。

倉田さんのトーマを見に行ったのですけれど、ユーリもエーリクもオスカーも、トーマもバッカスもただただ懐かしかった。たしかに、上海バンスキングスのファンは懐かしさにきゅううんとなったに違いない。30年前に漫画を読んで、何度も読んで、心が入り込んでいた世界の舞台化を見ただけで自分がいたあの世界を懐かしめたのだから。

漫画通りの細いタイをむすんだシンプルな制服。ユーリの黒い髪。エーリクの巻き毛。なによりも懐かしい懐かしい言葉の数々。

「僕はほぼ半年間考え続けてきた・・・・・」
「翼 あげる。僕はいらない」
「いつかはあの高みへとぶだろう」

しまいには、舞台上で役者が発する前に言葉が浮かんできてまいったまいった。

ありがとうございました。本当に懐かしかったです。

長くて美しい物語を上手につないで、原作の味を壊さずに舞台化して成功したのだと思います。


ただ、
これは、「トーマの心臓」という名作少女漫画の実写化なのであって、
戯曲ではなく、演劇ではないと、一方の気持ちがつぶやき続けていた。
トーマの美しい言葉をトーマの少年の姿をした役者が次々に上手に何も壊さずに場面にしてくれていた。
嬉しかったし、懐かしかったし、何の失望もなかったけれど、
それがどんなに懐かしくても、演劇への感動ではなかった。

次の日に仁左衛門さんの道真公を2日後にカフカの「変身」を見て、違和感は正しかったと思った。
演劇には役者の身体性を最大限に空間に放つ躍動がある、役者の身体から発する気がある。
そのための戯曲でなくてはならない。美しい詩のようなネームは漫画の中で輝く。しかし、生身の人間の発する言語とはちがうのかも知れない。トーマの物語を演劇にするには、あの物語を解体し組み直し戯曲にしなくてはならないのではないだろうか・・・・・・・・・・。

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March 16, 2010

上海バンスキング

2010年 3月 4日 マチネ13:00 シアターコクーン
  
初演1979年 幾度も再演されながら1994年「どんなものにも終わりはあるんだよ」の言葉とともに幕を閉じた伝説の舞台の

16年ぶりの 復活。

観客と役者が、昔持っていた夢をともに懐かしめるそんな今の幸せを、やさしくなでるような、一夜。
串田和美さん、笹野高史さん、大森博史さん、小日向文世さん。トランペット、サックス、クラリネット・・・楽器は衰えない!芸達者の彼らの演技は磨きがかかっている。少々厳しいのは体型と動きの敏捷性かな(笑)

舞台は1930年代から1945年までの上海。
ジャズは
日本が、中国の地をフランスやイギリスと共に蹂躙していた魔都上海で咲いた花だった。

上海を舞台に、ジャズを愛した男たちと、ひとりの歌姫におきた物語。
 
この物語りの中には男たちの夢が隠されている。
「男たちはこんなふうに生きたい。こんな女がいてほしい。」
30年前までの日本は、こんな夢を持つ男と女が、若者だった。
30年後、そんな夢は若者の中からなくなってしまって、夢だけが30年前に若者だった人たちの中で生き残っているようだった。

夢が現役でなくなったから、この作品は再演できたのだろう。
今生きている若者の物語ではなく、懐かしい夢を一夜見てみたい昔の若者たちのために。

上流階級の娘にしてシャンソンを歌うまどかが上海でクラリネットを吹く四郎と結婚。
四郎はまどかと結婚するためにクラリネットを捨てた。シャンソンの勉強のために二人でフランスへ行く途上、一晩だけ上海立ち寄った・・・。でも、これは四郎の嘘だった。四郎はクラリネットを捨てる気はさらさらなく上海から出立する気もさらさらなかった。

四郎の友人トランペット吹きのバクマツが上海を牛耳るボスの女リリーに手を出して苦況に陥ると

まどかは「わたしがお店で歌を、四郎さんがトランペットを吹いてバクマツさんの借金を返します」と叫ぶ。

こうして、ふたりはバクマツやリリーとともに上海でジャズをしつづける。四郎の思惑通りに。

こんな女を男は夢見ていたのだよねぇ。
天真爛漫な天女。男を守る聖母。彼らの理想型なのね。それを、吉田日出子さんが素敵に演じてきたのね。

戦争が始まっても、彼らの周りには支那を見下し欧米を敵視する日本軍の兵士は舞台には現れない。
舞台の上に現れた軍人は、バクマツの友人白井中尉で、彼は軍服を着ていても、バクマツの友人であり、まどかに尊敬と恋情を抱く一人の男だった。

満州に出生する白井中尉に請われて、まどかがアカペラで歌った黒い日曜には素敵だったなぁ。

戦争の影を暗示しても、舞台の上に現れる人々はジャズの中で生きている。
それも、男たちの夢なんだよね。大きな物語に翻弄されながら、自分の夢の世界で生きていたという。

私より少し上の世代の幸せな夢をほんのひととき共有したコクーンの夜でした。
 

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ヘンリー六世 彩の国芸術劇場

2010年3月14日 1時開演 原作三部のところを二部構成に改め、一部と二部の間に1時間の大休憩をはさんで終演9時20分

ヘンリー六世 上川隆也 
ジャンヌダルク・王妃マーガレット 大竹しのぶ
王太子シャルル・ヨーク公長男エドワード 長谷川博己
ヨーク公 吉田鋼太郎
グロスター公 瑳川哲朗
ほか、そうそうたる蜷川キャスト

舞台美術が美しかった。白い床、壁、階段。扉や祭壇の影が美しく白い高い壁に映る。
衣装、メイクも舞台美術に調和して黒、白、赤の文様が映え、役者のメイクも陰影があって美しい。


昨年の新国立劇場ヘンリー三世三部通し公演がたいへん良かったと聞いています。みればよかった、とかなり後悔しています。今公演を見て、その後悔がさらに大きくなりました。シェークスピア初期の作品にして、彼の作品のすべての芽がすでに備わっているのだと感じました。

陰謀、憎悪、愛情、悲嘆。人の感情が渦を巻いて、時代が動く。

作品の魅力を大いに感じました。
大きな激しい感情の嵐の中でただ一点静に動かないのがヘンリー六世の心なのです。羊飼いになりたい、その願いはむなしいけれど救いにもしたい。君のその心が諍いを起こす原因にもなっているのだけれど、でも、それがなくては人の世は荒々しすぎる。

ヘンリー六世の上川隆也さん。
キャラメルの舞台「君がいた時間僕の行く時間」、蜷川さんの「蛙合戦」、昨年の「蛮幽鬼」に続く4作目。彼の素のキャラクターからは一番遠い役柄かと思いましたが、今まで見た中で一番魅力的でした。少年の心がずっと変わらないヘンリー六世を上手く演じていました。

長谷川博己さん、カリギュラで注目し、冬物語りの王子さまが魅力的で今回も、かっこよかった。

大竹しのぶさん。
長い芝居にほぼ出ずっぱりで、パワーとテンションを維持し続ける姿には脱帽でした。が、昨年のダイバーのほうがはるかに魅力的でした。高いテンションがずっと続くので、見ている方が疲れました。
ただ、それは彼女だけでなく、瑳川さんや吉田さんなど、ほぼすべての役者さんがそうでしたから、蜷川さんの演出プランなのでしょう。

客席の間の通路を兵士たちが走ること走ること。
上から落とされる血糊を模した大きな粘土のような赤い固まり。
役者の科白の中間断なく落ち続ける赤と白のバラの花。
役者は叫び、感情をぶつける。舞台の上、劇場空間の中、激情がほとばしる。
激しい。だから、ひとりヘンリー六世の違いが浮かんでも来る。

なのだけれど、
疲れました。ずっと、同じ激情と同じ争いの場面が続き、それを言いたかったのかも知れませんが、演劇としては、どうかなぁ。あまりにも同じテンションで、
飽きました。


戦闘シーン、時代劇で言えば殺陣です。蛮幽鬼で感動してしまった今では、物足りない。戦闘シーンは場面の間でしかないのね。蛮幽鬼の殺陣は、あれをみせようとして作り込んでいた、その演出の姿勢の違いをひしひしと感じ。

最初から最後まで落下物をお掃除する掃除のおばさんたち、あれが蜷川演出なのだけれど、それは良く分かっているけれど、私は蜷川演出を見に来たのではなくて、シェークスピアを見に来たんです・・・・と思ってしまいました。あれで変化を付けるより、役者の表現に変化をつけてほしかった。


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March 10, 2010

変身 森山未来

2010年 3月 10日 ルテアトル銀座 パルコ公演

パルコにはずれなし。

カフカの代表的不条理劇。
ある日目覚めると虫になっていたグレゴール。
グレゴールの働きで生計を支えていた家族(父、母、妹)は、驚き、当惑し、困惑し、怖れる。
父にも母にも見捨てられて、妹のグレザだけが虫になった兄の部屋に入り食事を給し気遣う。
それなのに、父も母も言うのだ。「グレゴールは私たちを捨てて行ってしまった」と。

やがて、生活に窮した一家は下宿人を置くことを思いつき、下宿人を家に入れるのだが、
外部の人間が家にはいることで、虫のおぞましさは露わとなり、下宿人が去って、妹が叫ぶ。
「あれを始末しましょう。あれを愛しいおにいさんだと思っていたことが諸悪の根元だったのよ」と。
「お兄さんなら、こんなに困っている私たち家族のために、とうにこの家からいなくなっているはずよ」と。

虫は食事をとらず、死んでゆく。
父と母と妹は幸せな家族に戻る。

めでたし めでたし。


このすさまじい物語を 残酷で悪意に満ちた不条理を 演劇にするとしたら、

たいていの人は、グレゴールの哀しみを言葉で表すだろう。言葉で語って哀しみに浸るだろう。

しかし、舞台の上で、彼は虫でいなければならない。
言葉を語れない虫は、思いをしゃべってはならない。

演出スティーブン・バーコフ。彼自身が主演・演出・脚本・音楽・美術をなし、世界の演劇界に衝撃を与えたのだという。
演出家は、彼が知った「変身」を、完璧に私たちに見せてくれた。
何と雄弁に語ることだろうあの虫になった体が。
色や影や音が。

春琴と同じ種類の、演出への衝撃。

スティーブン・バーコフは、言葉ではなく、虫になった体に、おきてしまったことのすべてを語らせた。
そういう表現が演劇で出来る。演劇でならできる。
そうか。演劇でこそ、それができるのか。存在する体で語ることが。


主演 森山未来。未来くん、よくやった!
優れた身体能力に驚愕しながら、観客は次第にグレゴールが虫になったことを受け入れてゆくのだ。
(初日から近い今はまだ虫の身体表現でいっぱいかも知れないけれど、ずっとこの役を続けていったら、もっと深くなるような予感がした)

舞台の上に台形の小さな台。これが虫になったグレゴールの部屋だ。
台を囲む細い鉄のパイプ。台の前に立つ4本の細い鉄のパイプ。小さな3つの椅子。

虫になった森山未来はその台とパイプに足をかけ、指で立ち、関節を広げ、ときには頭だけが不格好に起つ。
手首が直角に曲がり、細い腕が交差し、足が棒のようにさかさに曲がる。
彼の体が、彼が虫になってしまったことを、私たちに訴え続ける。
観客は虫の存在に息苦しくなり、次第に彼が人間であったことを忘れてゆく。

しかし、森山未来の虫がどんなに乾いていっても、家族にとっておぞましくなっても
人でなくなっていっても、
観客は幾度も虫になったグレゴールの深い怖れと絶望を思いしらされる。
グレゴールの部屋に家族が入ったときに突然照明が変わり、
家族を下から強く照らすライトが、舞台いっぱいに黒い巨大な影を作る。
それは、虫よりもはるかに恐ろしい 黒く大きく動く 人間の姿なのだ。

言葉で語られれば哀しみを味わえるのだろうか。
しかし、体で語られる虫の姿は容易に哀しみを味あわせてはくれない。
森山未来の虫は不気味で、感情を見せず、
その前で繰り広げられる家族の思いの方が手に届く。

だから、
見ている間ずっと、居心地の悪さを感じ続けた。
虫を拒絶したい嫌悪感。虫を拒絶してしまう罪悪感。グレゴールの不幸の救いのなさ。
救いはどこにもないように見えて。


それなのに、終わってから湧いてきたのは、爽快感だった。
舞台を思い返しながら沸々と湧いてくるのは、虫への愛おしさだった。

なぜだろう。何なのだろう。この爽快感は。

悪夢が終わったから?

そうではない。そうではない。もっと前向きな何か。

虫もまた精一杯生きて、生きる苦しみを終えた、そのまっとうな生と死に、

ずっと虫であり続けたグレゴールが、
体をほのかに照らすうすく小さなスポットの中で、
最後の姿は人としてあった、その姿に、

私は

虫でいる生が愛おしく
人の死が愛おしく
どちらも均しくかんじたのだ。きっと。

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