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November 2010

November 28, 2010

タンゴ

この作品を喜劇として楽しめるのは、現実に同じ喜劇の中にいるから。


2010年 1回目の観劇 11月19日ソワレ、シアターコクーン
       2回目の観劇 11月23日マチネ。


19日の1度目は半分睡眠状態。それが良かったかな。
戯曲に溢れていた膨大な言葉が自然に(トホホ)スルーできたせいで、作品のすじだてだけを受け取った。

自由を求めて伝統を破壊した親たち(父ストーミル=吉田鋼太郎、母エレオノーラ=秋山菜津子)。
抑制を否定した自由と無秩序の中で育った子ども(アルトゥル=森山未来)。
昔を懐かしむが臆病で何も出来ない「おじさん」(ストーミルの叔父エウゲーニッシュ=辻萬長)。
秩序を求めた先にあらわれた権力。
権力は理念をもたず、むき出しの暴力で終わる(母の愛人にして下男エーディック=橋本さとし)。

それは、自分が30年近くやってきた仕事の場で今おきていることそのままだった。
笑うしかないよ、とここ何年もつぶやいてきていた。
だから、この舞台は、わたしには思いっきり喜劇だった。

吉田さん、辻さん、秋山さん、はいりさん、芸達者ばかりで、喜劇を堪能。
橋本さとしさんは今まで見た中で一番いやらしい役で、
吉田さんはこういう役好きでしょうと言いたくなるほど馬鹿らしくて、
辻さんは井上芝居とはうって変わって軽薄で、
どの役者さんもいつもの顔と全然違う引き出しがとっても似合っていて、魅力的だった。


23日の2度目はほぼ全部を完璧に覚醒して見た。
言葉を聞き、姿を見て、作品を十分に味わった。
この重たい戯曲を喜劇に出来た役者たちの力、舞台美術(串田和美)の美意識、演出(長塚圭史)の目を
味わいながら、
戯曲に置いて行かれるのではないかと思われる多くの観客のことも考えた。

この言葉の嵐になにも知らずに入り込んでしまったら、観客は辛いだろう。
50年前の社会主義社会で生きていた言葉は、今の日本の観客にはナニ語???だろう。
当時の人々に「あなた方が使っている言葉は無意味だ」と突きつけていたであろう作者の切っ先は、
つかわれている言葉の概念をそもそも知らない人々には意味不明でしかないのだから。

自由、実験、破壊、前衛、反抗、形式主義、理性、進歩。

ほんとうに、何だったんだろう。

言葉はかつては、意味を持っているように思われていた。
だから、作者のムジェレクは50年前にそれらの言葉の欺瞞を剥いだのだと思う。
言葉に踊らされて言葉に酔っている人々に自分の姿を見ろ、と突きつけたのだと思う。

だけど、今は、すっかり言葉は死んでしまった。観念も消えてしまった。
だれも理念を身につけない時代には、
戯曲が描いたとおりの暴力的な権力が¥や$にコーティングされてそこにあるのに、
抗議の声もあがらない。

そんな時代にこの戯曲が持つ意味は・・・・。

演出は無意味な言葉をあえて徹底的に「道具」にしたようだった。
伝統を破壊した自分に酔っている父ストーミルの無秩序な言葉。
シェークスピア役者出身の吉田鋼太郎さんが体中から流し出す言葉、言葉、言葉。
裸の上半身に大きなふたつの電球をぶらさげて吐く言葉、言葉、言葉。
全部脱いでしまって観客の目が点になった中で出し続ける言葉、言葉、言葉。

かつては輝くほどの意味をもっていた「自由」さえ、惰性の中で哀れに浮遊する。
彼が「理性」と叫べば叫ぶほど、彼は理性から遠く、
彼が「実験」とほえればほえるほど、惰性にしか見えない。
吉田さんは「あなたが主役です!」と言いたくなるくらい完璧にチャーミングだった。
その一生懸命さにおもいっきり笑えたのは、吉田さんの力だった。
笑いながら、自分がストーミルに感情移入していることに気づいたとき、
突然、あの不格好な姿に日々の自分を見て、泣きたくなった。

あぁ、この戯曲はわたしにとって特別の戯曲だったんだな。
1968年プラハの春をスタートにして今こんなに情けなく54歳を迎えようとしている自分に
50年前の「理念」から放たれた矢だったんだな。
今の日本の世の中からありえないほどかけはなれたところに、
わたしは自分の基盤を持ってしまっていて、
それが、周囲とうまくいかない原因なんだよ、と教えてくれるための矢だったんだな、と。

未来くんは素敵だった。
1幕目は、吉田さんが圧倒的で、それに真っ向から向かう若さがはかなく見えた。

2幕目、権力の力に気づいたときの姿が圧巻。
透明なアクリルのテーブル。その上に積み重ねられた透明なアクリル椅子。その上にたつアルトゥル。

バランスを崩せばあっという間に崩れる机の上の椅子に立つ若者が権力を叫ぶ。
彼はとうとう言葉の意味にたどり着いた。権力を宣言する恍惚。

愛する女の「裏切り」を知ったときの茫然自失。

そのあっという間の落差。

未来くんの表現は決して憑依系ではない。
藤原竜也のようにひとりで世界を作ってしまうのではなくて、
常に相手がいてその距離感や温度差や方向をつかみながら絶妙の表現をする。
見ていてとても気持ちが良い。
今年は、3月の「変身」のラストとこの「タンゴ」のアクリル椅子の上に立つ姿が、際立った。

3年前なら、「アルトゥルを竜也にやってほしい」と思っただろうな、と考えながら、
「未来くん以外考えられない」と思って劇場を出た。

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November 22, 2010

カーディガン

緩い脚本でも、役者の力量でリアリティーが出る実例。

2010年 11月20日土曜出勤の日の夜。パルコ劇場。
パルコにはずれなし、中井貴一にはずれなし。・・・と思っていたけれど、
はずれとは言わないけれど、悪くはないけれど、
「ロッキーズ」「ウォーターボーイズ」などテレビドラマで人気の市原隼人くん。
彼の初舞台あてがき脚本作品だったそうで、
中井貴一さんが見たくて買ってはいけないチケットだった。

昨日未来くんと吉田さんのタンゴを見ていたので、思わず比べてしまって。
比べてはいけません。舞台の目的がまったく違う。

しかし、そうなると、作品について、特に語ることがなくなるのも、悲しい。


脚本が緩いと役者を語れない・・・それはそれで、考えるべきテーマになります。
芸術を見たいので、実は商業演劇が目的とするものを見ていないのかな。

対人関係の調和がすべてに勝る重要事、その日本社会ならではの脚本なのかもしれない。
なるべる、できるだけ、絶対に、自己の存在性をぶつけない、見ようとしない、聞こうとしない、
予定調和の世界。

だとしたら、味わうべきはこの脚本のなかで、役者がどこまで世界をつくれるか、でしょうか。

そこにある世界を完璧に作り出すキムラ緑子さん、中井貴一さん。
チラシの写真のおどろおどろしい緑子さんが、この芝居ではチャーミングで普通に隣にいてくれると良いなという「奥さん=おばさん」になっている。
深い苦しみも悲しさも発することの出来る中井さんが、情けない「旦那=サラリーマン=おじさん」にも平気でなれる。
ふたりの絶妙な夫婦ぶりはあっぱれでした。
緊張感が生まれようのない脚本世界だからこそ、
そこに確かに存在している夫婦になりきるには並々ならぬ力量がいる。
リアリティーを作り出すお二人の力量を感じました。

情けない親父と自他共に認めるスタンスで生きる男の
「結局いつもお前が思うとおりにしてるじゃないか!」

夫に自分なりの愛情を持ち続けているのに空回りしていて、
「だってあなたはいつもだまっちゃうじゃない!」

この二人に感情移入できるので、
対する市原くんの すぐ切れるやくざだけど実は気持ちの優しい男の子という
これまたその辺に普通にいる高校生や大学生と同じ登場人物にも、居心地の悪さを感じずにすみました。
舞台で演じようとする市原くんの真面目な態度はひしひしと伝わってきました。一生懸命ではあるな~と。

パルコに来る途中で2度目の「タンゴ」のチケットを手に入れていたので、
もう1度タンゴを見に行きます。
やはり舞台芸術としての演劇をみたい・・・自分の気持ちを実感。

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