« March 2011 | Main | June 2011 »

April 2011

April 09, 2011

南へ

2011年 3月31日 マチネ
池袋芸術劇場の千秋楽。 この千秋楽の後、芸術劇場は大改修に入り、約1年半劇場は閉じられます。

野田マップのチケットを手に入れたのは偶然でした。初めはパスしようと思っていました。妻夫木くんは「キル」であまり輝きを感じず舞台に向いていないように思ったし、野田さんの芝居の中にある理念的な告発に、少々食傷していました。

それでも、行く意味があると思い、劇場に向かいました。
公演自体の千秋楽です。しかも芸術劇場のお休み前、最後の舞台でもあります。「最後」の重みを感じる舞台になるはずです。
そして、3・11とこの作品の重なり。
「南へ」は、大噴火の予兆の中で起きる大きな小さな出来事を書きながら、日本の社会のあり方を問うた作品ということでした。ならば、まさに、想像もできなかった災害に身がすくむ思いの今、野田さんが発するメッセージを知っておこう、と。

芝居は休憩なしの2時間強でした。

妻夫木くんが地震から噴火の予兆を読みとってしまった若い観測員とかつて数百年前にこの村で噴火が起きるぞと予言したオオカミ少年の役を演じて頑張っていました。
渡辺いっけいさんは、噴火よりもナイターだよ、と言ってしまう、日本の組織によくある上司。いっけいさんらしいいつもの演技です。
高田聖子さんは、新感線の舞台でおなじみのパワフルさ。舞台を右に左に駆け回ります。
野田さん自身が観測所のエライ人とニセ天皇の先触れ人のような役。いつもよりも騒々しさが少なかったように感じました。
みなさん熱演でした。
ただ、蒼井優さんの発声は、腹式呼吸ではないようで聞き苦しく、演技以前のところで、最後まで違和感が消えませんでした。作品への感情移入できなかったかなり大きな要因になってしまいました。

舞台上には何度も大勢の人々が出てきて、地震の揺れや村人の動揺や押し寄せるマスコミを表現します。これはキャラクターでも見られた効果的な「群」の使い方でした。

役者も、演出も力一杯頑張っていたことが伝わってきました。

けれど、

面白かったか、と問えば、否。
感銘を受けたか、感動したか、といえば、否。
野田さんのメッセージが深く心に突き刺ささったか・・・・に大きな否。

3・11にこの作品。それをこの作品の不幸だと言ってしまったら、野田さんに失礼だと思います。
だから、あえて、言います。

最後のシーン。蒼井優さんの若い女の正体が北朝鮮からの脱北者だとわかり若い観測員妻夫木くんが旧日本兵を模した帽子をかぶり歩き去ってゆく、そこで芝居は終わりました。

今の日本人がスルーしている北朝鮮と戦時中の日本社会の相似を暗示していたのでしょうか。

そのシーンを見ていたら、
野田さんの膨大なメッセージがみな空疎に思えて、それが切なくて、
演劇ってこんなに力がないのか、と
むなしくて涙があふれました。
カテコの間ずっと、悲しくて悔しくて情けなくて、
演劇がかわいそうで、涙が止まりませんでした。

野田さんは大きな地図を描くように演劇を作る人です。
彼は彼の鋭い知性と目立ちたがり屋のキャラクターが生み出す笑いで
日本人に「自分たちの姿を見てみなよ」「起きていることを感じなよ」とエンターテイメントで予言をし警鐘を鳴らしてきたのだと思います。

 でもその予言が越えられないほどのことが現実に起きてしまった。
 3・11が未曾有のことなのだ。今、起きていることがかつて経験したことのない怖ろしく深い厄災なのだ。
 そんな大きすぎる現実を前にしたら、演劇でこれを越える予言ができるはずはない。

それはわかっています。

だけど、彼の警鐘があまりにも無惨な薄っぺらい予言になってしまったのは現実が大きすぎるからだけでしょうか。
私は「南へ」で野田さんに欠落しているものを感じてしまったのです。

「南へ」には、
人がどんなに精一杯生きてもなお消え去ることのない悲しみや
それでもなお精一杯生きるしかないときに灯される小さな灯りがない。

彼の告発は理念的で、机上の論で、根っこがない。人生を作る生活の細部が全くない。
それは彼の罪ではなく、戦後の日本の「言論界」の中に存在しないものだったのだとも思いつつも・・・。
「南へ」には人がいないのです。それではまるで、東電と政府と学会が作り上げてきた「原発安全神話」と同じです。あの地で生きる人たちの小さい生活や幸せを思う一片の配慮もなかった「うそ=神話」。それとうり二つではありませんか。

福島第一原発の汚染と向き合い、
この汚染を抱えて生きる覚悟をしなくてはならない、
すべての日本人にとって、

「南へ」は時宜を得た予言の書になることもできたはずだったと思います。

けれど、「南へ」を見ている2時間、感じ続けたのは、東京の豊かさの何と軽薄なことよ、何と無神経なことよ
そればかりでした。
闇を知らない人間には明るさに警鐘を鳴らすことなんてできない。
そう思い知りました。

そういう意味では見に行った価値はありました。

むなしさ哀しさ情けなさ、でもね、それでは演劇の価値はないとも思うのです。

野田さんは
3・11の後の世界に作品を発表するのでしょうか。
今度こそそこに人はいるでしょうか。

| | Comments (14)

April 07, 2011

国民の映画

2011 3月24日 パルコ劇場

直前の3・11。

福島原発という現在進行形の人的厄災を身に受けながらの観劇。
ごく普通に生きるひとりひとりが、権力と欲望を持つ一握りの人間の思いつきや保身、欲望の犠牲になる。
心がひりひりする。

宣伝相ゲッペルス、親衛隊長ヒムラー、空軍司令官ゲーリング。
3人が3人とも傲慢な権力者だ。しかし、彼らは彼らの上にいる「あの人」の前では互いに保身を競う卑小な駒でしかない。舞台にヒトラーは出てこない。ヒトラーだけが絶対唯一無比な存在で、その名前さえ口にすることがはばかられる。
その絶対者の下にいるミニヒトラーたちがおもいっきり俗物ぶりを発揮する。三谷さんはこういう俗物の描き方が本当に上手い。
小日向さん、段田さん、白井晃さん、なんて豪華なアンサンブル!

ゲッペルスはゲーリングに対抗して芸術の支援者を気取っているけれど、「形に残らないものにはお金をかけない」・・・それって彼が全く文化を理解できていないってことだ。
ゲッペルスは芸術を知ろうともしないヒムラーが大嫌いだ、しかし、彼とヒムラーに何の違いがある?
毛虫の命を惜しみながらユダヤ人の絶滅を平気で宣言するヒムラーと
召使いのフリッツの博識がなければ映画を語ることさえできないゲッペルス。
二人の間にどれほどの違いがある?

どこの社会にでもいる小市民が間違って人を殺す権力を持ってしまった、そんなヒムラーやゲッペルス、
段田さんのヒムラーはとぼけた持ち味が情けなく怖ろしかった。
小日向さんのゲッペルスは嫌らしい俗物が精一杯背伸びしている姿が妙に等身大で。

精一杯の言い訳で究極の保身に走る俳優兼映画監督の風間杜夫さん。

他にも芸達者な役者さんのオンパレード。

ゲッペルスの妻は女学生気質をひきずって大人になれない甘ちゃんだし、
反ナチの旗手だったはずのケストナーはあっけなくゲッペルスの「国民の映画」構想への参加を表明する。
表現者の特権のように「書きたいんだ」という言い訳を言い放って。

ドイツ人芸術家の苦悩や権力者の内面なんてくそくらえ、
みんなただの俗物、ただの「弱きもの汝の名はニンゲン」でしかない。
三谷さんは
80年前のドイツの場を借りて、今の日本人を丹念に描いた。
丹念に、あえていつものように卑小に、細部を丁寧に、日本人を描きこんだ。
だから 、
ただ一つのメッセージが心に響いた。
彼らは私たちだ、と。これはいま起きていることだ、と。

ありきたりの残酷さと保身、諦めや潔さ、欲、みんなごく普通にもっている。
この作品に描かれているのは遠い世界のユダヤ人差別ではない。
出てくるどのニンゲンもが普通の人たちで、こんなことどこにでも誰にでもおきる。

こんなこと、いまでもあるよ・・・・状況は極端でも、心情はいくらでもどこにでもある。

そう思うことが「普遍性」なんじゃないか。
三谷幸喜の描く細部の力、それを思い知った。

普通を普通に描くことで普通の先にある異常を描く。

素晴らしい芸達者たちの芝居を楽しみながら、心がひりひりする。

今、起きていること・・・・・。

芸達者たちの超絶な芝居を抑えて、小林隆さんの召使いフリッツが主役だった。
おとなしく控えめで主人に忠実な博識の映画通。
彼には何の罪もない。ただ、彼がユダヤ人であるという理由だけで「あの人」の絶対的な力によって虫けらよりも価値のない命になる。彼はその運命をそのまま受け入れるしかできない。彼には選択することができない。

けれど、最後に言うのだ「うるさい!今日くらい静に映画を見させろ」と。

誰がもっとも映画を愛していたのか、
言い換えれば、誰がもっともにんげんであったのか。

いま起きていること。
そこにも、ある。どう生きるかが問われている。
無慈悲で不条理で非情な運命を受けてなお人間である人たちと、
犠牲を食い散らかしている者たちと。

同じだ、と何度も何度も思った。
3・11のあとで、これを見た意味を考えなくてはならない。


| | Comments (2)

« March 2011 | Main | June 2011 »