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June 2011

June 26, 2011

2011年6月21日 ソワレ 新国立劇場

新小岩から総武線快速馬喰町のりかえ初台まで、意外に早かった。

作 井上ひさし 彼の初期の作品でウィーンに留学中になかばノイローゼになっていたときに一気に書き上げたと言われている。
 
演出 栗山民也 初演以来ずっと続いてきた木村光一さんの演出から作家自身の指名で栗山さんの演出へ。

主役の徳に亀治郎、女房おたかに永作博美

亀治郎、まってました!
と声をかけたいような気分で劇場へ。

新国立の前の座席を5列分はずして舞台に奥行きをつくり真ん中の回り舞台のうえにおおきな木組み。
これが江戸の橋のたもと。天井から斜めの白い線が平行に降りていて雨を暗示する。
舞台が回れば紅花問屋の座敷が現れる。赤や金、錦の屏風や襖。
体の線、動きに無駄がない亀治郎にあった気持ちの良い美術と舞台装置。

江戸の橋の下で金くず拾いをしている半ば乞食同然の徳(亀治郎)が
東北の紅花問屋の当主喜左衛門にうり二つと知らされて、喜左衛門になりすます。
正体が露見しないように必死に山形の方言を覚える徳。女房おたかにだけは体が違うとばれるのではないかとおびえるが、おたかはみじんも疑いをもたない。

しかし・・・・・これが全部大嘘だった。
最期のどんでん返し。
当主喜左衛門が切腹しなければならない窮状を乗り切るための身代わりに仕立てられて、だまされていたのは徳の方だった。
社会の最底辺からはい上がろうとした男を待っていた痛切な残酷な現実。
しかし、だましていた人々もまた降りかかった災いからのがれるためだった。
藩の武家、紅花商家、紅花農民すべての生活を守るためには喜左衛門の紅花栽培の知恵を守らなければならない。よそもので身よりもない男の命をひとつ、みんなで使わせてもらったのだ。
死んだ徳のからだを膝に乗せておたかは言う「喜左衛門さまににていたことがあんたサアには気の毒なことだったのォ」

大きく奥行きを取った背景に浮かぶ紅花と農民たちのシルエットは美しく、
山形弁は正確にはわからないながらも耳に心地よく残る。
徳が何も知らずに女房おたかの差し出す白装束を着てゆく姿はさすが。亀治郎はきれいでかっこよかった。

しかし・・・・あれだけ大きな劇場を美しくつかった舞台装置で、上手な役者で、物語が面白くて、セリフが耳に心地よくて、
なんで、「長かった」と感じたのだろう。正直、途中飽きて少々睡魔に負けていた。何故?

物語を重厚に語るために少し作品を大きくゆっくりしすぎてしまったのではないかしら。
「自分とは何か」とか「うり二つの自分と他人を分ける線は何か」とか「言葉を持つこと失うこと」とか「共同体の力」とか「中央の権力と地方」とか
すごく大きいテーマを描こうとしすぎてしまったのではないかしら。

徳は情けない悪党とも呼べない男で、身の丈に合わない嘘にはまってゆく、その姿を端から見てハラハラする。だから、結局悲劇が待っていたその結末に、妙に納得してしまう。小さな男がつく大きな嘘のあわれな結末と残酷でしぶとい現実に。
亀治郎は立ち居がかっこいいし上品だし賢そうだし、ほんとに大店の当主に見えてしまう。なりすますとしたらもっと大きい悪をもってなりすましているように見える。大きい舞台と亀治郎の品と展開を丁寧でゆっくりとさせた演出が、物語に合っていなかったんじゃないかしら。
この話は小さい劇場でそっとスピード感を持って演じた方が、秘密めいてふさわしいのではないかしら。

演劇として十分に貫禄のある大作に仕上がっていた。みんなすごく頑張っていた。

だけど、本来そういう作品だったのかなぁ。
赤坂ACTシアターでかもめの舞台を見たあのスカスカ感に似ていた。あれも話の世界に合わない無駄に大きい舞台だったから。

新国立劇場が力入れたんだよね。小劇場でやったら、全然違う作品になっていたのではないかしら。

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noises off

2011年 6月16日 木曜日 ソワレ

マイケルフレイン作 千葉哲也演出
佐藤オリエ、千葉哲也 ソンハ 小島聖 藤木孝

「ライフインザシアター」と同じバックステージものだが、こちらは舞台の裏でくりひろげられる悲喜劇を見せるドタバタコメディ。

再起を図る往年の大女優、年上の彼女と恋愛中の男優。急に状況が変わると対応できない若手。
事情通の中堅女優、アルコール依存の老優。売り出し中の脳味噌の軽い女と演出助手、そのどちらにも手を出している演出家。
これだけそろえば、各自に勝手にやらせておくだけで悲喜劇になる。

だから、ドタバタコメディで楽しめればよかったのでけれど。

舞台に美と感動を求める自分にはこのジャンルは駄目だった。

1幕で明日が初日の通し稽古。
2幕で公演中の舞台裏。
3幕で千秋楽のしばい。

合計3回同じストーリーの芝居を見せられた。これが長かった。
1幕目は雑然。
裏側を見せてくれてた2幕目でようやく人間関係がわかって腑に落ちたものの、3幕始まったときは「またやるの??もういいよ」と思ってしまった。

ドタバタコメディなんだから、反応をたのしめればよかったのだけど、
俳優さんはみな好きな人だったし、うまかったし、だけど、違う劇でみたかったな。
コメディってむずかしい・・と、勉強になった。
観客に考えさせないテンポ。そのためのたぶん綿密な動きと言葉のしかけ。「演劇」とちょっと違うのかもしれない。そしてドリフを思い出した、ドリフターズはすごかったんだって。

東池袋アウルスポット
新しい通勤経路には絶好の場所。初めてはいる。劇場も悪くない。
これで、プロデューサーが世パブやパルコのようだったら、ご贔屓の劇場になるのだけど。

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June 05, 2011

散歩する侵略者

2011年5月26日 ソワレ 世田谷パブリックシアター シアタートラム

演劇らしい演劇。
楽しくて笑って涙して。そして、考えた。次の日も考えていた。
感情と知性がここちよく揺れて、気持ちがよかった。
前川知大からますます目が離せない。

チケットを取ったときから題名が不思議だったのに、見て行くうちにそのまんまの題だったと分かる。
心地よい驚きと納得。

本人たちが宇宙人と称している何ものかの目的は地球侵略。
そして彼らが人間の情報を集めるためにしているのが散歩。
「宇宙人」も「侵略」も「散歩」も、彼らの存在や行為に地球人(人間)が持っている概念を当てはめた呼称に過ぎない。
人が概念を持つって何なのか。それはどういうことなのか。
とほうもなく哲学的かつ日常に溢れているすべての事象を網羅した恐るべきテーマ。

すごいな。

非常に観念的なテーマの上に繰り広げられるのは、細部がしっかりと造形されている登場人物たち。
繰り広げられるどの会話も、きちんと会話になっている。だから、どの登場人物もただの概念ではなく、つまりステレオタイプの「型」ではなく、「人が変わってしまったしんちゃん」や「中身が宇宙人になった不気味で生意気な中学生」というひとりひとりとして観客の前に立っている。

脚本と共に、役者さんたちの力が大きい。
主役の窪田道聡。初めは「痴呆的におかしいひと」だったのに概念を手に入れてゆくことでどんどん「ひとりの男」になって最後は愛のために慟哭する。
フリーターのマルオ。世間に鬱屈している言葉だけの男が、「所有」の概念を失って、素のあたりまえを抱えて生きる。むしろ暖かく他者に共鳴し自分の心に素直なって強ささえ持つ。
物語はどの人間も内なる概念によって変化するさまを描く。役者たちの変化が見事だった。

劇団イキウメ。恐るべし。

舞台転換や暗転がなく、時には同じ舞台の上にさまざまな人間がいてちがう状況を同時進行させてゆく。
どの人間もそれぞれの都合で生きていることがそのまま分かる効果的な演出。
人生は、劇的場面がぶつ切りになり都合良く張り合わされているのではなく、
連続している時と感情と知性の流れだ、と。

すごいな。この人は。これは、ほんとに前川知大から目が離せないぞ。

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港町純情オセロ

2011年5月12日(木)  アクトシアター
劇団新感線プロデュース
原作シェークスピア 脚本 青木豪 演出 いのうえひでのり

今回の新感線は自分には合いませんでした。
蛮幽鬼で見た一大スペクタクル路線の作品ではありませんでした。
考えてみれば「オセロ」ですから、スペクタクルになる話ではなかった。
「オセロ」を新感線ふうにアレンジすると、
「オセロ」は愛の悲劇ですから、
男と男と女の、色恋と嫉妬を、暴力と下品と下ネタでまぶすことになるのでした。

いのうえさんが得意な、これでもかのばかばかしさと下品で爆笑をとる、
その目的がうまくいっていたかというと、
座員はみんな頑張っていたけど
。うーん、客演の田中哲司さんはそこのところはういていたし、
主演の橋じゅんは脇で井上演出を盛り上げる方がむいていたかな。
彼の「みんなもってゆく瞬間は、セカンドの位置だからこそ発揮できるものなのかもしれない。

さらに、つくづくオセロは難しいと、再認識。
ヒラミキでも花組歌舞伎でも、どちらもなんとなく安っぽくて原作に負けてしまっていたように感じていたのですが、
今回、新感線が原作の設定を大きく変えてみて、墜ちてゆくヒーローへのどきどきする部分もなくなってしまいました。
嫉妬にはめられてゆくという原作の筋はそもそも先が読めてしまう展開なのですから。

設定を神戸のやくざにしたので、原作の持つオセロの高貴な魂の部分がなくなってしまいました。
将軍オセロには国家を守護する名誉と誉れがあって、公的な気高さと個人の心の弱さ卑小さの対比が悲劇性を高めている・・・・と今回のやくざバージョンを見て原作の力を再認識しました。

日本人には合わないのかもしれない。「将軍=選ばれたものの高貴な仕事(義務)」という感覚がない社会なので、
日本人にはオセロに心の弱さと愚かさしか感じ取れないのかもしれない。
「これほど崇高な人間でさえ」というところにオセロの最大の悲劇がある。
そこがない社会にはそもそも悲劇の中心がない。そうだったのか。と。
この発見が今回の観劇の最大の収穫です。

イアーゴの卑属さは、オセロの高貴と対象になっている。
そこがないと、そもそもイアーゴがなぜにあれほどひどいことをしてオセロをおとしめるのかが腑に落ちない。

オセロは純情だった・・・

そうかな。
シェークスピアが作り出したオセロはただの純情な暴力系の男だったのでしょうか。
純情でお馬鹿な脳味噌が筋肉系の男のなるべくしてなった悲劇、だったのでしょうか。

オセロはそんなかわいくて安っぽい男ではない。
そんな男だったら、イアーゴがわざわざあんな落とし穴をつくってはめる必要はない。

原作の深さを再認識しました。


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